第4話 家族 〜瀧本 貴宏〜
僕は今、悩みを抱えている。
それは、1ヵ月前に僕を養子として引き取ってくれた瀧本 元気、渚夫妻に関係した悩みだ。
彼等は身寄りのなくなった僕を引き取り、本当の家族のように優しく接してくれている。
2人共少々個性的で似た者夫妻ではあるが、子供好きの彼等は、僕をとても可愛がってくれる。
だから、彼等に対しての不満は一切ない。
問題があるのは僕の方なのだ。
僕が彼等に養子になると決まった日、僕は彼等を「お父さん」、「お母さん」と呼んだ。
その言葉は嬉しさと感謝から自然と出た言葉だった・・・だけど、その後からは呼べていない。
彼等はその言葉を聞いた時、とても嬉しそうにしてくれた。
渚にいたっては泣いて喜んでくれた。
僕もそう呼びたいし、2人の喜ぶ顔を見たい・・・でも、何故かその言葉を使おうとすると、急に言葉が出なくなってしまう。
亡くなってしまった両親に対する負い目があるのも確かだけど、瀧本夫妻に対する感謝と好きな気持ちは本物だ。
それなのに、呼ぶ事が出来ない・・・。
2人は焦らなくて良いと言ってくれたが、僕自身はそうもいかない・・・どうすれば良いんだろう。
「貴宏お兄ちゃん、一緒に帰ろ?」
僕が、終礼が済んでも自分の席から動かないでいると、聞き慣れた声に呼ばれた。
「あぁ、ごめん・・・帰ろうか」
僕に話しかけて来たのは、僕の命の恩人で、本当の父の後輩にあたる井沢 誠治さんの娘である千枝だった。
誠治さんは、僕を引き取ってくれた瀧本夫妻の親友で、仲間の事を家族と呼んで憚らない人だ。
千枝も僕同様、本当の両親を亡くしている。
だけど彼女は、誠治さんや誠治さんの奥さんである美希さんをちゃんと「お父さん」、「お母さん」と呼んでいる。
お母さんである美希さんは、元々は血の繋がらない姉であるにも関わらずだ。
何故そんなに自然に呼ぶ事が出来たのだろう?
僕は、千枝に聞いてみようと思った。
「ねぇ千枝ちゃん・・・聞きたい事があるんだけど良いかな?」
僕は家に続く道を千枝と並んで歩きながら遠慮がちに尋ねた。
「んー?なぁに?」
千枝は間延びした返事を返してきた。
「聞きたい事とは関係ないけど・・・なんか元気ないね、どうかした?」
「お父さん今度はいつ帰ってくるのかなって思って・・・」
千枝が元気が無い理由は、誠治さんの不在らしい。
そう言えば、今朝急に呼び出されて自衛隊基地に向かったと聞いた。
任務であるなら、数日は帰って来ない・・・しかも、危険な場所に行く事の多い誠治さんは、考えたくは無いがもう帰って来ない可能性もゼロじゃない・・・。
千枝が心配するは当然の事だ。
「誠治さんなら大丈夫だよ・・・」
僕は、確証も無いのにそう言ってしまった。
誠治さんの強さはこの目でみているから心配は無いとは思う・・・でも、絶対ではない。
それでも、千枝を勇気付けたかった。
「そうだよね・・・お父さん強いもん!今朝もちゃんと帰って来るって約束してくれたし、お父さんはいつも約束守ってくれるから!」
千枝は少しだけ元気が出たのか、足取りが軽くなる。
「それで、貴宏お兄ちゃんの聞きたい事ってなぁに?」
千枝は僕の言葉を思い出し、振り返る。
「その・・・千枝ちゃんは、誠治さんと美希さんの事を、お父さんとお母さんって呼ぶのに抵抗はなかったの?」
千枝は僕の質問に首を傾げて考え込んだ。
「お母さんは、元々お姉ちゃんって呼んでたから慣れるまで少し掛かったけど、お父さんはすぐに呼べたよ!」
「どうして?」
「んーとね・・・向こうを脱出する前に居た街でね、私が高熱で倒れたんだけど、その時ずっと側で看病してくれて、その時からこんなお父さんが欲しいなって思ってたの・・・そしたら、こっちに来てすぐにお父さんになりたいって言ってくれて嬉しかった!!
お父さんはね、約束を必ず守ってくれるし、私の小さな夢を叶えてくれた人なの!
だから、お父さんって呼べるのが嬉しかったし、抵抗はなかったの!」
千枝は、嬉しかった思い出を笑顔で語ってくれた。
この話を誠治さんに聞かせてあげたいと思った。
「そっか・・・千枝ちゃんは誠治さんや美希さんが大好きなんだね」
「うん!お母さんは、お姉ちゃんだった時より怒るようになったけど私の事をいつも心配してくれるし、お父さんは私のファンクラブを作ったのは嫌だけど、いつも優しくて大好き!」
うん、やっぱり千枝ちゃんを見守る会はダメみたいですよ誠治さん・・・。
「あれ?千枝ちゃん、あそこに居るのって・・・」
僕が千枝の言葉に苦笑していると、帰り道にある公園に見慣れた人物が居るのが目に入った。
「んー?え・・・あれってお父さん!?」
千枝は間延びした返事をして僕が指差す方向を見ると、目を丸くして驚いた。
そう、公園に居たのは千枝の父である誠治さんだった。
誠治さんは、彼のトレードマークとも言える革ジャンとチャップスの戦闘服で身を包んでいる。
「お父さん仕事に行ったんじゃなかったの・・・まさか本当にリストラ?」
「いや、違うんじゃないかな・・・千枝ちゃん、それは誠治さんに言わないようにね!」
「うん・・・貴宏お兄ちゃん、ちょっと見に行って良いかな?」
僕に釘を刺された千枝は、そう言って忍び足で公園に近付いていく。
僕も、誠治さんにバレないように隠れながら千枝の後を追った。
「良いかチビども!おじさんは悲しい!何故か解るか・・・?」
僕達が公園の木の側まで来ると、誠治さんの声が聞こえてきた。
スプリング遊具に跨る誠治さんの前には、幼稚園くらいの子供達が5人座っている。
子供達は、誠治さんの話をおとなしく聞いているようだ。
「おじさんはな、車と同じくらいバイクが好きなんだ・・・だけどな、世界がこんなになるずっと前から、テレビでバイクのコマーシャルをやらなくなったんだ!
暴走行為を助長するからってのが理由だ・・・そんなん言ったら、車で暴走行為をする奴だっているじゃねーか!と思ったんだが、年々コマーシャルは減っていき、今では全くやらなくなってしまった・・・。
バイクはな、あれは良い物なんだよ・・・1人になりたい時には恰好の乗り物だ。
君達にはまだ早いが、彼女とかを後ろに乗せて、抱き着かれたらテンションも爆上げなんだ!!」
誠治さんは熱く語っているが、子供達は全く理解出来ていない・・・。
「お父さん・・・最低だよ」
最後の言葉を聞いた千枝が、自分の父親を蔑んだ目で見ている・・・。
「まぁまぁ、誠治さんは好きな物に関しては見境無くなるから許してあげようよ!
あんな事言ってるけど、普段は優しいお父さんでしょ?」
千枝は、僕に宥められて少しだけ溜飲を下げたのか、ため息をついて誠治さんの様子を再度観察し始めた。
誠治さんのフォローは骨が折れる・・・。
「おじちゃん、そんなことより遊んで!」
1人の子供が、誠治さんの話に割って入った。
「おっとすまない、少々熱く語り過ぎたようだ・・・何をして遊びたい?」
「んーとね・・・追いかけっこ!」
「良いだろう・・・毎朝4時に起きて走り込んでいるおじさんに追いかけっこを挑むとは良い度胸だ!チビども、覚悟するが良い!!」
誠治さんは、子供相手に高らかに宣言した。
大人気ないとは正にこの事だ・・・。
「じゃあ、おじさんが鬼をしてやろう!ハンデとして、おじさんは走らない!」
誠治さんはそう言って数を数え始める。
まぁ、彼の歩幅なら歩きでも大丈夫だろうと安心したのも束の間、数え終わった誠治さんは素早く歩き始めた・・・いや、あれは競歩だ。
「お父さん・・・」
「誠治さん・・・」
僕と千枝は、呆れて言葉にならなかった。
大人気ないにも程がある・・・。
「千枝ちゃんと貴宏君じゃない、どうかしたの?」
僕達が木の陰に隠れていると、急に後ろから話しかけられた。
僕達が驚いて振り返ると、そこには近所に住んでいる女性が立っていた。
その女性は誠治さんの歳上の幼馴染で、名前は確か千歳さんだ。
家族ぐるみとまではいかないが、美希さんや渚達とも交流のある3人の子供を持つ女性だ。
「こんにちは千歳おばちゃん・・・。
公園で、仕事に行ったはずのお父さんが、子供相手に本気を出して遊んでるの・・・まさかリストラかな?」
僕達は千歳さんに挨拶し、事のあらましを話す。
すると、千歳さんは笑いながら僕達の頭を撫でた。
千枝がまたリストラと言ったが、もう訂正する気が起きなかった。
「千枝ちゃん、心配しなくても大丈夫だよ!
お父さんはリストラされたんじゃなくて、あまり重要な仕事じゃなかったから早く日帰り出来たんだってさ!
丁度誠治くんが帰って来た時に私に用事が出来たから、子守をお願いしたのよ」
千枝は、千歳さんの話を聞いて安心したようだ。
リストラされた事じゃなく、危険な任務じゃなかった事が嬉しかったのだろう。
「おい貴様ら卑怯だぞ!お母さんに言いつけるこらな!!」
僕達が千歳さんと話をしていると、誠治さんの叫び声が聞こえた。
僕達は木の陰からもう一度公園を覗き込む。
千歳さんも一緒に隠れている。
「おじさんは身体が大きいから、ジャングルジムには入れないんだよ!この策士め!」
誠治さんに追われた子供達は、皆んなジャングルジムの中に入っている。
誠治さんは必死に手を伸ばしているが、子供達はジャングルジムを縦横無尽に動き回り、触れる事が出来ない。
「あっヤバイ!肩がハマった!?誰か助けてくれ!!」
誠治さんは、無理矢理ジャングルジムに突っ込み、肩が抜けなくなって焦っている。
「チビども、頼む!おじさんを引っ張って・・・!」
子供達は、誠治さんに頼まれてジャングルジムから降りると、誠治さんの身体を引っ張り出した。
「ちょっと待って!そこはダメ!!ジーンズが脱げるから!事案発生だからやめて!!
ポロリしたら、おじさん警察に捕まっちゃう!!」
子供達に引っ張られ、誠治さんのジーンズが下がって行く。
「千枝ちゃん、僕達も行こうか・・・」
「うん・・・」
「全くしょうがないなぁ・・・」
僕達3人は、ため息をついて木の陰から出ると、誠治さんを助けに向かった。
「誠治さん、引っ張りますよ!」
「お父さん、恥ずかしい真似はやめてよ!!」
「貴宏君と千枝!?助かった・・・神は俺を見捨ててはいなかったか!!」
誠治さんは、僕達を見て涙目になりながら喜んだ。
「誠治くん、子守を頼んだ手前あまり言いたくないけどさ・・・可愛い娘を心配させちゃだめじゃない!」
「おぉ、ちー姐!助かった、これで勝つる!!」
僕達は、ハマった誠治さんを助けるのにしばらく掛かったが、何とか無事に引っ張り出す事に成功した。
「いやぁ、申し訳ない・・・千枝達はいつから居たんだ?」
「お父さんが、バイクの話をしてた頃からだよ・・・」
千枝の言葉に誠治さんの顔が引きつる。
自分が言っていた内容を思い出したのだろう。
「なんかすまん・・・ちー姐もありがとな?」
「別に良いわよ・・・子守も頼んじゃったしね。
あと、これは子守のお礼ね!」
千歳さんは手に持っていた大きなビニール袋を差し出す。
「おぉ、シイタケか!いやぁ、好物なんだよ!」
「だろうと思って大量に持って来たよ!」
「あざーっす!」
誠治さんはシイタケを見てご満悦だ。
「んじゃ、ありがとね!またお願いするかも!」
千歳さんは、誠治さんと僕達に手を振って帰って行った。
他の子供達も、それぞれ親が迎えに来て帰っていった。
「さて、帰るか!千枝、なんか今朝はごめんな・・・まさかこんなに早く終わるとは思ってなかったよ」
「うん、でも安心した・・・」
「そっか・・・千枝、もしかして眠い?」
「ちょっとだけ・・・」
誠治さんは、千枝を見て笑った。
千枝は目をこすりながらうつらうつらとしている。
「相変わらずよく寝るぁ千枝は・・・ほら、背中に乗りなさい」
千枝はおとなしく誠治さんにおぶさって目を閉じる。
千枝はよく眠たそうにしている・・・特に、午後の体育の時間にはよく居眠りをして注意されている。
朝もギリギリまで寝ている事が多いし、いつも遅刻寸前だ。
「貴宏君もさっきはありがとな・・・」
「誠治さん、子供達相手に本気を出すのは、流石に大人気ないですよ?」
「いやいや、ああやって全力で遊んでやると喜ぶんだよ!」
誠治は笑いながら俺を見る。
確かに、誠治さんと遊んでいた子供達は皆んな笑顔だった。
誠治さんが全力で遊んでくれたからこそなんだろう。
「誠治さん・・・」
「ん?何だい?」
「誠治さんは、いつ頃から千枝ちゃんを娘にしたいって思ったんですか?」
僕は、誠治さんに問いかけた。
もしかすると、千枝が望んでいた事を知っていたからだろうか?
「そうだな・・・最初は漠然とした感じだったよ。
俺達が関東を脱出する前、千枝が高熱を出して倒れたんだ・・・。
その時、熱にうなされた千枝が、俺の服を掴んでさ・・・お父さん、行かないでって呟いたんだ。
その時には父親ってのも良い物だくらいにしか考えてなかったんだけど、その数日後に美希と千枝の兄・・・悠介が死んだんだ。
俺は悠介に、美希と千枝を託されてさ・・・美希と結婚する事を選んだ。
別に美希との結婚を選んだのは、彼女に同情してとか悠介に託されたからじゃなくて、自分がしたかったからだ。
でも、美希と結婚したら千枝はどうなる?
別に美希と結婚したからって、千枝が1人になる事は無かったし、そうさせるつもりも無かった・・・でも、何故かそれじゃいけないって思ったんだ。
ただの感情論でしか無かったけど、こっちに帰ってきて、千枝に娘になってくれって言った時の嬉しそうな笑顔を見たら、間違いじゃなかったんだって思ったよ・・・。
お父さんって呼んでくれた時は滅茶苦茶嬉しかったのを今でも覚えてる」
誠治さんは夕日に照らされながら、懐かしそうな、嬉しそうな笑顔で語った。
「元気と渚さんの事をどう呼ぶかで悩んでるんだろ?」
僕は図星を突かれて押し黙った。
「気にしなくて大丈夫だよ・・・あいつらも気長に待つって言ってたし、貴之さんが亡くなってからまだ1カ月ちょっとだ・・・貴宏君の気持ちの整理が出来て、呼びたくなったら呼べば良いよ。
あの2人は俺が信頼してる家族だ・・・絶対に君を見限る事はないよ」
誠治は優しく僕を諭してくれた。
確かに、彼等は僕を見限らない・・・それは、一緒に暮らした1カ月で十分解っている。
でも、いつまでもそれに甘えてたらダメだと思う・・・。
「ん・・・何だ?」
誠治さんは何かに気付き、道端にある草むらを覗き込む。
「おぉ・・・可愛い奴発見!」
誠治さんは、千枝をおんぶしながら左手を伸ばし、草むらから子猫をつまみあげた。
それにしても、この辺にはよく猫が捨てられている・・・つい先日も、千枝が拾っていた。
「よく気付きましたね・・・」
「耳は良いからね!こいつだけか・・・ダンボールに1匹だけだし、親猫も見当たらないから捨て猫か」
「どうするんです?」
僕が尋ねると、誠治さんは渋い顔をした。
「飼うって言いたいけど、流石にこれ以上は美希がキレる・・・でも、このままじゃ可哀想だからなぁ。
出来れば千枝が起きる前にどうにかしないと、また飼うって言いかねないな・・・」
誠治さんは子猫を見て唸る。
まだ生後数日くらいの小さな子猫だ。
このまま放置すれば、まず生きてはいけないだろう。
「僕が飼えないか頼んでみましょうか?」
「あぁ、渚さんなら二つ返事で飼ってくれそうだな!
貴宏君、ナイスアイデアだ!!」
誠治さんと千枝は、千枝の病気と言うきっかけで親子に対する意識を持った。
もしかしたら、この子猫を通じて僕も変われるかもしれない。
僕は誠治さんから子猫を受け取る。
この子猫にも両親が居ない・・・僕と一緒だ。
きっかけになるにしろならないにしろ、同じ思いをしたこの子猫を、僕は救ってあげたい・・・。
「私を呼んだか?」
不意に背後から渚の声が聞こえた。
「ビビった・・・渚さんかぁ。
噂をすれば影とはよく言ったもんだよな。
お疲れ様、渚さんは買い物帰りかい?」
誠治さんは苦笑しながら渚に挨拶をした。
「美希ちゃんと由紀子もいるぞ?
まぁ、ちょっと捕まっているがな・・・。
貴宏もお帰り、今日はカレーだぞ!って、何だその可愛いのは!?」
渚の目が子猫に釘付けになる。
「えっと、そこの草むらに捨てられてたみたいです・・・」
「また誠治さんが見つけたのか・・・いい加減美希ちゃんに愛想を尽かされるぞ?」
渚は子猫を撫でながら誠治さんを睨む。
「あの・・・お母さん、この子飼ったらだめですか?」
僕がそう言うと、渚は一瞬だけ悲しそうな表情をした・・・それを見て、僕は間違いを犯した事を悟った。
僕は、我が儘の口実に子猫を使ってしまったのだ・・・そんなつもりは無かったなんて言い訳でしかない。
人によっては、そう思われても仕方の無い言い方だった・・・。
「良いぞ!元気の説得は私に任せろ!
もし渋ったら、多数決に持ち込めば良い!
元気ももう帰って来ているだろうし、早くその子に餌を食べさせてやらないとな!ほら貴宏、一緒に帰ろう!!」
渚は、悲しそうな表情の後、笑顔になって僕を見る。
いつも通りの元気で、優しい笑顔だ・・・でも、僕は渚の顔を直視出来なかった。
彼女が一瞬だけ見せた悲しそうな表情が頭から離れないのだ。
「貴宏君、気にするな・・・渚さんも気にしてないよ。
でも、もし自分が悪かったって思うなら、家に帰り着く前に謝りなさい。
遅くなると、その分謝りにくくなるからね」
誠治さんは、小さな声で僕に呟き、手を振って見送った。
渚は僕の手を優しく握りながら歩いている。
子猫の名前をどうするか、どうやって元気を説得するかなど、楽しそうに呟いている。
でも、僕は浮かれた気持ちにはなれなかった。
僕は、いつも優しくしてくれている渚を傷付けてしまったのだ・・・。
「ごめんなさい・・・」
僕は、なんとか言葉を絞り出した。
小さな声だったが渚には聞こえたらしく、歩みを止める。
「貴宏、さっきはすまなかったな・・・自分でも、あんな表情をしてしまうなんて恥ずかしいよ。
私の表情が一瞬曇ったのを見たんだろう?」
渚は僕の前にしゃがむと、苦笑しながら謝った。
「なんで謝るの・・・?
僕は、子猫を飼いたいって我が儘を言うために、お母さんって言ったんだよ!?」
僕は自分が許せなくて泣いた。
僕が悪かったのに、渚に自分の事を責めさせてしまった事が許せなかった。
「違う・・・!君はそんな子じゃない!!
さっきのもワザとでは無かったんだろう?
子猫を飼いたいって言ったのも本心なんだろう?
まだ1カ月しか君と暮していないが、私にだってそのくらいは解る・・・。
良いか、人は誰だって失敗する・・・私なんて失敗ばかりの人生だ。
もちろん誠治さんだって失敗して来た・・・私なんかとは比べ物にならないくらいにな。
だが、あの人は格好良いだろう・・・何故だか解るか?
失敗をそのままにしないからだよ。
何度失敗しても、努力して克服する・・・私はそれを誠治さんに教えられた。
諦めては駄目だと教えられた・・・。
あの人は右手と右目を失ったが、それでも今、私達を守るために失敗を糧にし、努力して戦ってくれている。
だから、私は知っている・・・見せ付けられた。
失敗を糧にする生き方を、努力を無駄にしない生き方を教えられた。
失敗しても、それを認めてそのままにしない・・・私に謝ってくれた君には、それが出来ているだろう?
だから、私は君を叱らない。
それにな、私は嬉しかったんだ・・・だって、君が初めて我が儘を言ってくれたんだから」
そう言った渚は、涙を流しながら笑っていた。
言葉遣いは男勝りだが、優しい人・・・産みの親とは違っても、僕を愛してくれる人。
「ありがとう・・・お母さん!」
今度は抵抗もなく言うことが出来た・・・。
「さぁ、帰ろう!早く夕飯を作らないと元気が機嫌を損ねかねん!
それに、その子にも御飯を食べさせなければな!」
渚は子猫を撫でると、再度僕と手を繋いだ。
「おうお帰り!なんだよ、仲よさそうに手を繋いでどうした?」
僕達が家に帰り着くと、元気が出迎えてくれた。
「ちょっとな、色々とあったんだ・・・なぁ、貴宏?」
「うん!」
「なんだよ、意味深じゃねぇか・・・」
元気はなんだか悔しそうだ。
「ほら貴宏、お願いしてみると良い」
渚は僕の背中を優しく押す。
「あのね・・・子猫拾ったんだけど飼っても良いかな?」
僕が子猫を差し出すと、元気はキョトンとした。
そして、豪快に笑った。
「ははは、可愛いじゃねえか!あぁ、飼っても良いぞ!!
汚れちまってるし、風呂に入れてやれ!」
「良かったな貴宏?」
渚は優しく笑っている。
「うん・・・ありがとう、お父さん!お母さん!」
僕は瀧本夫妻に引き取られたあの日以来、初めて心から彼等を父母と呼んだ。
他の人から見れば小さな事かもしれない・・・だけど、僕にとっては大きな一歩だ。
(天国のお父さん、お母さん・・・僕は今幸せです)
僕は子猫を抱きしめ、もう会う事の出来ない両親に話しかけた。
彼等は笑って見ているだろうか?
いや、きっと笑っている・・・だって、死の間際まで僕を愛し、守ってくれた人達だから・・・。
この子猫は、僕に変わるきっかけをくれた大切な家族だ。
猫の寿命は人よりも少ない・・・でも別れの時が来るまでは、この子と一緒に成長し、楽しみも悲しみも分かち合って行こう。
だってこの子は、僕と同じ思いをした仲間なんだから・・・。