5. 大声より借用書
朝の小広間には、守り役の聞き取りを待つ従兄と、呼ばれた叔父がいる。磨いた床には長靴の影が薄く映っていた。顔の高さまで届く革の匂いが、広間を大人のものにしている。先に着いた私の手を離し、侍女イムケが扉を示す。
「宰相様たちは廊下でお客様をお待ちです。私は膝掛けを取って参ります。椅子には、まだお掛けにならないでください。膝が冷えますので」
侍女が退くと、従兄の大きな肩が卓へ寄る。私は落ちている紙切れを拾う遊びで卓下へ入った。ぬいぐるみを卓の脚に立てかける。紙の端なら、この手でも届く。頭のすぐ上で紙が開き、従兄の声が降ってくる。
「叔父上、俺の賭けの借りを保証してくれ。守り役になれば、家で払える。俺が面倒を見るんだ、家にも俺の面倒を見てもらう! 守る男の財布が空では、格好がつかん!」
叔父の椅子が引かれた。署名欄のある方から、叔父の靴が退く。字拾いより、勘定が怖いらしい。
「費目は確かめたいだろうね。名誉という欄はないからね。保証の名だけを先に書く気はないよ。君の借りがローザちゃんの養育に要る、と言えるのかな?」
従兄が卓下を覗き、紙切れを集める私を見て笑う。
「ローザに聞かれたって平気だ。字を拾えても、保証の意味までは分からん。金を数えるよりお人形だ。叔父上が頷くだけで済むんだぞ!」
廊下の足音に、従兄が紙を袖へ押し入れた。押し込みそこねた一枚が、卓下へこぼれる。紙切れにしては立派だ。つまむと、硬い端が爪に当たる。
宰相と家令、服務の立会いの騎士、招かれた客が入る。イムケも膝掛けを持って戻った。拾った紙には祝宴前夜の日付。賭けの借りは金貨三十枚、署名はヒンリヒ。大人の膝が卓の外に並び、家令が私の横へ屈む。
「借用書でございますね。日付は祝宴の前夜。署名を、本人の守り役の申出と読み合わせます。原本はそのままお持ちください」
申出の字と、原本の字が並ぶ。叔父の保証欄は空いたままだ。私は紙を持って立つ。
「ヒンリヒお兄ちゃま、この紙、下に落ちてたよ。お袖から。ここに書いてあるのは……」
従兄の靴が床を鳴らした。私の声など、靴底より軽い。従兄は私が読み終える前に声を張る。
「そんな紙はいい! 俺の守りの話を聞け。ローザに読ませたって、役には立たん! お前は黙って人形を抱いていろ!」
素で叫び返す寸前、ぬいぐるみの衣を握る。噛んだ唇が痛い。議会では、この声の三倍を一息で押し返してきた。今の喉は、言葉を押し出すだけで頼りなく震える。言いたいことは同じなのに、体だけがついてこない。宰相が立会いの卓を私の低い席へ寄せた。紙は私の手に残る。宰相は従兄へ、静かに告げる。
「書類はその高さで確かめます。取り上げないでください。公爵閣下にも紙のご用がおありです。声の大きさを比べる席ではありません」
◇
聞き取りの席へ、扉の影が伸びる。従兄は肩を張り、新しい客へ顎を上げた。従兄は原本へ目を戻さず、客へ声を張る。
「守り役を任せろ! 文句があるなら決闘だ!」
入ってきた男の重い肩が、従兄と私の間を隔てる。団長の砂金色の刈り髪の下で、太い鼻筋が原本へ向いた。従兄の上官、騎士団長ルイトポルトは、椅子を鳴らさずとも通る声で告げる。
「口上を止めよ。ここは服務を確かめる席だ。貴殿が守るという相手の話から、先に聞く。大声で相手の話を遮るな」
団長の群青の鋭い目が署名へ近づく。大声の切れ目に、私は原本の行を指した。低い卓なら、かかとを浮かせなくても私の手が届く。
「ここに、賭けで負けて金貨三十枚って。これ、ヒンリヒお兄ちゃまの字?」
従兄が紙へ手を伸ばす。団長は原本を卓に留め、私も空いた端を押さえる。従兄が私を睨む。
「そんな字拾いで、俺の名誉を汚すな! 叔父上、黙って見てないで言ってくれ! ローザ、お前まで俺を疑うのか?」
「怒鳴らないで、ここに書いてあるの! お人形だって驚くよ。私、まだ読んでるの。お兄ちゃまの字なら、読んでいいよね?」
客が額を確かめ、団長は申出の署名へ目を戻した。従兄の声は、紙のどの行も消せない。
従兄は四角い顎を上げたまま、紙から手を離す私へ言い返す。
「俺はお前を守るんだ! そんな紙より俺を聞け! 任せろと言ってるんだ! 家のために働く者を、家が支えるのは当然だ!」
「私の声も聞いてよ! 私のためなら、私が言ってる間は待ってて。お兄ちゃまばっかり、ずるいよ! 紙をくしゃくしゃにしないで!」
団長は原本を従兄へ向けた。空いた保証欄を客の前へさらし、従兄の返答を待つ。
「この原本の署名は、貴殿の申出の署名と同じだ。まず貴殿自身の借りであるか、返答せよ。守りの話をするのは、それからだ」
従兄は叔父を見た。叔父の手は膝に下りたまま。代わりに答える声もない。従兄は原本へ顔を戻す。
「……俺の賭けの借りだ。俺の字で書いた。守り役なら家に保証を頼めると思ったんだ。働く前から支度の金が要る! 何もせずに借りるとは言ってない!」
客は空いた保証欄を確かめ、従兄へ顔を向ける。
「公爵家の借りではなく、あなたの借りですね? お子様に要る金ではない、ということですね? 守り役の申出と一緒に、家へ保証を求めたのですね?」
従兄の大きな肩が卓から離れた。さっきまで私の声を塞いでいた肩が、今は客の目を避けるようにすぼまる。
団長が申出を原本の横へ戻す。
「家の保証は認められん。決闘の口上も中止だ。守り役にふさわしいかは、服務の聞き取りに戻して確かめる。借りを役目へ載せるな。大声を役目の証にするな」
宰相が家令に原本の保管を命じる。
「この原本と申出を、明朝の審問へ持参してください。養育者の任命を待たずに支出する理由にはなりません」
名誉を取り戻すと言いかけた従兄の声が、団長の前で止まった。原本は返されず、客の目だけが彼へ残る。
◇
夜の居室へ、宰相に手を引かれて戻る。歩幅を合わせてもらうたび、自分の足の短さを思い知る。イムケが退き、扉が閉じた。暖炉の薪が、小さく爆ぜる。低い卓には申出の控え。声を細くする用事はもうない。私は宰相を見上げる。
「団長を呼んだのは、あなたなのね? また私より先だったのね! 大声への備えまで、黙って済ませて。私に知らせる暇はあったでしょう?」
宰相は申出の控えをこちらへ向け、決闘の予告がある行を示す。
「昨夜お見せした申出を受けて招きました。口上を止めるのは、服務を預かる団長の役です。閣下の声を大きくするより、通る間を作る方が確実です」
「言ってくれれば、私だって段取りを考えたわ。怒鳴るしかできない女みたいに言わないで」
「お考えになったでしょう。そして、ご自分の声で押し返そうとなさった。お人形の衣だけは、先に降参しております」
図星だ。ぬいぐるみの衣には、握り潰した折り目が残る。紙を取り上げない手を、宿敵が先に用意していた。悔しい。二十六歳の私の判断を、あの男は子供の手に残している。私は人形の衣を、そっと伸ばした。言い終えるまで待ってもらうだけで、握っていた手まで楽になる。私は宰相へ、声を落とす。
「……ありがとう。先回りの件は、まだ怒っているわ」
「承りました。感謝と苦情は、別々に預かります」
私は保証欄へ目を落とす。
「叔父上への保証の頼みと、赤い封は別ね。借りの行き先から、呪いの注文まで飛ぶわけにはいかない。帳面まで都合よく埋める趣味はないわ」
宰相が封のある紙を脇へ寄せ、帳簿の持参状を置いた。私の手元まで紙を送り、次の用件を告げる。
「ええ。ゲーアノートが帳簿を揃え、明朝は叔父殿の審問です。費目と支払先を読み合わせてください。声を張る用事は、こちらで減らします」
卓へ手を伸ばす。紙の端に触れられるのを確かめ、私は宰相へ顔を向けた。
「机にさえ手が届けば、あの人たちの勘定の穴くらい見つけてみせるわ。数字は怒鳴らないもの。先回りの代金は、あとでね」
宰相が持参状を、私の側へ向け直す。
「明朝は届く机を用意します。勘定は閣下に」




