3話 あなた は 退廃の女神 の信徒です
太陽が明るく照っている。ロムルは草むらで気持ちよく横になっていた。裸の身体を風が撫でて、その度にいい具合にひんやりとして気持ちがいい。周囲には同じように寝転がっている、ロムルと同じ頃合いに生まれたゴブリンの子供たちがいた。ロムルが眠りの縁にすら転がりだしたころ、しゃあしゃあと耳に障る声が聞こえてきた。
ロムルが目を開けると、大人のゴブリンがこちらへ寄って来ていた。
「お前ら、よく聞け。飯がたりねえ、今すぐ立って、森へでろ!」
そのあまりの傲慢な物言いに、ロムルはむっとした。いつもこうだ。大人のゴブリンは自分たち子供に竹を割ったような話し方をする。
結局、その場で寝転がっていたロムルたち十人は森へ出ることになった。洞窟入り口の物置場から腰巻をもらい受けて、それぞれ腰にはく。自分たち十人を、一匹の体格のいいオスが率いることになった。
彼の指示を受けながら、ロムルたちは後を追うように森へ踏み入った。大人は剣を、ロムルたち子供は棒切れを持っている。
ロムルはこれで初めて巣を離れることになった。森の下生えを踏みつけながら、ちらりと後ろを向く。広場がどんどんと遠ざかるのを見て、ロムルは何も思わなかった。
森を進みながら、一匹がロムルに言った。
「早く終わるといいなア。え?」
ロムルは口を開けた。
「おれたち何を何体狩ればいいんだ?」
「知らねえ」
言って、その子供のゴブリンはきゃらきゃらと笑った。
一行はしばらく森を真っ直ぐ進む。前を行く大人は、ロムルから見て特に作戦はないように見えた。考えもなくとりあえず森を進んでいるだけのように思える。とは言え、そう思えるのはロムル自身が何一つ狩りのことを知らないというのもあるかもしれない。
大人がこぶしを振り上げた。
「行け! 猪だ! 行け!」
言われて彼の背後の子供たちは驚いた。だがすぐにぎゃあぎゃあと雄たけびを上げて、彼を置いてがむしゃらに前に突っ込み始めた。ロムルははっとしてその流れに続いた。
最初は雑な形の列で森を進んでいた十人の子供たちだったが、ロムルはしばらくすると前のゴブリンの背が木々の枝や草で見えずづらくなってきた。なんどかちらりと背後を振り返ったが、そのたびに背後のゴブリンとも間が開いて、その姿が見えづらくなっていった。
そしてとうとう、ロムルは気づけば森で一人ぼっちになっていた。
(みんなどこにいった?)
思いながら、ロムルは手で木の幹をつかんで地を這う大きな根を踏んだ。その根は地面から隆起していたから、ロムルはそのままそこへ立ち、あたりを見まわす。誰もいない。今度は耳を澄ましてみた。やはり何も聞こえない。
ロムルは帰り道など知らない。狩りから途中離脱したとみなされるのも怖かった。ゴブリンの凶暴性は仲間にも向く、というこことをロムルは生まれてから二週間と少しの間で知っている。
ロムルは息を吐く。
「めんどくせえ」
言って、ロムルは少しの高さしかない根を飛び降りた。とりあえず森を進むことにした。
森の中はやはり静かで、ゴブリンの仲間たちがいるとは信じられないほどだった。巣からは常に、入れ替わりや別々で狩りの組が外へ出ているから、今もロムルたちの組以外の組が狩りに出ていてもおかしくない。それでも、何も聞こえない。ただ、鳥たちが楽し気に鳴き合う音ばかりが聞こえてくる。この音の、なんて気持ちのいいことだろう……。鳥の声も、この森の木々も、全部日本のものと違いがないように思う。――木のことなんて何も知らないけれど。そういえば、自分が最後に森に入ったのはいつ頃だったろう。ロムルはなんとなくそんなことを思った。生前ずっと家に引きこもっていたロムルにとって、森は縁遠い場所だ。それでも、いつかこういう森に入ったことがあると思う。それはいつだったか、とロムルはつい考えこんだ。
前を父親が歩いている。母親がその後ろで、心配げな顔でこちらを見ていた。彼は母親のあとを追い、左右をロープの手すりのはった道を(細い、土を固めただけの山道……山?)を歩く。ふと彼は足を止めて、背後に弟と妹がいるのを思い出した。振り返り、二人の姿を確認しようとする。すぐ近くを二人はこちらに向かって歩いていた。顔には疲労の色が見える。彼はそれが心配になって……。彼は二人を心配しながら、二人の姿がとても幼いことを意識した。周りの木立は木々がまばらで、森や林というのはあまりに木がすくなかった。ここれはどこかのキャンプ場とか、ハイキングコースなのかもしれない――。
ロムルは向こうに青い水面を見た。大きな足で地面をけりながら、ロムルはそこへたどり着いた。大きな池だった。ロムルはほとりへ歩み寄って、膝をついた。のどが渇いた。そう思って、ロムルが両手を器の形にして水面へ差し向けた時、初めて自分の顔を見た。
両目は丸く大きい。その左目に、淡く異様な模様が刻まれていた。
(なんだ、これは……?)
それはよく見ると、ほのかな光を放っている。ロムルは指先を眼のすぐ下に這わせて、それをよく確かめようとする。
模様は線の複雑な組み合わせで、模様というよりも印に近いのかもしれない。ロムルはこれが何かをよく知らない。ぼうっと水面の自分の顔をのぞき込んでいる。だが、ほかのゴブリンの眼にこのようなものを見たことがなかった。
しばらくそうしてから、ロムルは水辺で休憩することにした。水際のほんの手前で寝転がって、すぐ近くで水がたまに風で揺れるのを楽しむ。手を伸ばせば指先が水に触れた。その冷たさがロムルを穏やかにする。
(そういえば……おれ、こんなことするのは何年振りだろうなあ)
ロムルはあおむけになって太陽の光を肌で感じる。空には白い雲の群れがいくか流れていたが、陽光は温かく気持ちよかった。
狩りはどうなっただろうか。これは大事な問題ではあるのだが、今のロムルにとっては順位二番といったところで、ここの空気の穏やかな感じを今はただ感じていたかった。とはいえ心の中で、もしかしておれ置いて行かれてるのかな、と思ってもいる。
時間が流れた。それがどれほどかは、ロムルには分からない。ふと臭いに気が付いた。おいしそうな臭いだ。
ロムルは上半身をはたと起こして、背後を振り向きながら立ち上がった。あたりに眼を配らせる。本当に、良い臭いだ。――新鮮な血の臭い、割けた皮膚から向きだす肉の香り。ロムルはそこで初めて自分が腹を空かせていることに気が付いた。
ロムルは池に沿って歩き始めた。すぐに臭いの出どころに気が付いた。池のそばの、高い草の群れの中に、傷ついた鹿が横たわっている。ロムルはそっと近づいた。まだ身体から流れる血は温かい。つい先ほどここに来たようだった。息はしていない。身体は深く裂けていた。この手傷がこの鹿の命を奪ったことは疑いようがない。ロムルが横になっていたころから、鹿はここにいたのだろうか……?
ロムルは立ち上がって鹿を見下ろした。この身体になってから、今まで何度も食事をした。それなのに、この鹿を食べたいと、異常な食欲が体に沸く。ロムルは自然と目が開き手を握りしめていることに気が付いた。舌のところで唾が沸き上がる。鼓動が高鳴っていた。ロムルは膝をついて、鹿の身体に両手を添わせる。その短い毛を指の股で押し退けながら、手を深いひどい裂傷まで近づける。両手の指の先を、傷の両断面にまでやって、傷跡を広げた。
ロムルはそうして、死体を貪った。
炎のにおいがする。身体の奥が熱い。ロムルは深い眠りの中にいるよう、あるいは覚醒した意識とともに深い暗闇の中に佇んでいるようだった。
――ずるり、と音がした。ロムルは身体をひるがえす。音の先――ロムルはそちらからだと思った――には相変わらず色の変わらない深い暗闇が広がっている。身体の感覚はない。
また、何かが這う音がした。大きなものが這っている。熱い火のにおいに混じって、血のにおいを感じっとた。
ふと視界のすぐ先に女の白い顔が現れた。それは一瞬のことだった。その眼はぐるりと開いていて、冷たく残酷だった。ロムルはその一瞬で心の底から恐怖した。それはとてもこの世のものとは思えない美しさと残酷なまでの空虚さを湛えた顔だった。
そして再び絶望的な暗闇が訪れる。
あなた のレベルが上がりました
あなた のレベルは 3 です
あなた のスキルは 捕食者 です
あなた は 退廃の女神 の信徒です
ロムルはあたりに散乱した血肉を見下ろしていた。
――今の声は?
ロムルの茫然とした頭に、抑揚のない、中性的な女の声が聞こえた。
見下ろすロムルの息は荒い。身体が汗ばんで、汗が滴っている。この血はとても甘い。ロムルは伸ばした長い舌で口をなめまわした。顔中に血がついている。こんな食事は初めてだ。
ロムルは茫然としながら、落ち着こうともしていた。頭が重い。くらくらする。
(あの声……どこから?)
そして、言葉の意味はどういうことだろうか。どうして、この鹿はこれほどうまいのか。
ロムルは混乱していた。この混乱が嫌な気持ちだから、よろめきながら池に戻った。池の周囲は開けていて、心がいくぶんか落ち着いた。ロムルはへたへたと水辺に座り込んだ。力なく足が崩れる。そうして、身体を地面についた手でささえていたら、遠くの茂みが揺れた。
見たことのあるゴブリンの子供が出てきた、不快な声を出しながら、ロムルを指さした。
「お前! こんなところにいたのか! ここで何してる?」
「何もしていない」
そう言うのがやっとだった。ゴブリンがこちらへやってきて、ロムルに言う。
「腹が減ったから、さっさと巣に帰ろう」
「もう獲物はとったのか?」
「知らない」
こともなげに、ゴブリンの子供は言った。
(そうか……そういう種族だったな、おれは)
ロムルは立って、腰巻についた汚れを払った。
「そうだな、おれも腹が減ったよ」
言って、ロムルはぞっとした。
(おれはまだ腹が減ってるのか……? 鹿をひとりでほとんど平らげて?)
ロムルが気づいたころには、あの鹿は食い荒らされて無残な姿になっていた。肉は大部分が食われ、内臓は何も残っていなかった。鹿の首は地面に血糊を引きながら、いつの間にか押し上げられていた。いびつな体勢でこちらを覗く鹿の眼はただ黒く、空っぽのように見えた。あの視線が、恐ろしい。そうした風景をつい先ほど見ておいてなお、ロムルは腹が空いているのだ。――もしかしたら、自分の精神はおかしくなってしまったのかもしれない。そう、ロムルは思った。




