第2話 怒りの沸点は、自分で決めている
【賞味期限切れの朝】
翌朝、健太郎は案の定、トイレの住人となっていた。
妻・恵美が放った「賞味期限一週間切れの鶏肉」という名の刺客は、彼の脆弱な腸内環境を完膚なきまでに破壊した。
便座に座り、冷や汗を流しながら、健太郎は呪いの言葉を吐く。
「……確信犯だ。あれは絶対に、俺への復讐という『原因』があって行われたテロ行為だ」
しかし、トイレのドアの向こうから聞こえてきたのは、娘・凛の冷ややかな声だった。
「パパ、いつまで入ってるの? 学校遅れるんだけど。っていうか、昨日の唐揚げ、ママも私も普通に食べたから。お腹壊してるの、パパだけだよ。それ、ただの自律神経の乱れじゃない?」
健太郎は絶句した。
恵美も凛も無事。
ということは、あの「人体実験」発言は、単なる娘なりのブラックジョーク、あるいは母親との結託による「からかい」だったのか。
結局、腹を壊したのは「腐った肉」のせいではなく、「腐った肉を食べたかもしれない」という恐怖に震えた、健太郎の情けない精神力のせいだったのだ。
なんとか家を出たものの、会社への足取りは重い。
文房具メーカー『ペン・ノバ』。
今日の健太郎には、大きな試練が待っていた。
新製品である「一生書ける(かもしれない)鉛筆」の販促イベントに関する最終打ち合わせだ。
会議室に入ると、そこには既に「デジタル小僧」こと高木が、最新のタブレットを華麗に操りながらスタンバイしていた。
その隣には、顔が般若のように険しいことで知られる大河原部長が、腕を組んで座っている。
「佐伯、遅いぞ。トイレが長いのは加齢のせいか?」
部長のデリカシー皆無な一言に、高木がクスクスと忍び笑いを漏らす。
健太郎の心の中で、小さな着火石が火花を散らした。
【会議室の爆発】
会議が始まると、状況は健太郎にとって最悪の方向に進んだ。
彼が準備していたイベント案――「地元の小学校での書き初め大会」に対し、高木が冷徹なデータを突きつけてきたのだ。
「佐伯さんの案は、情緒的で素晴らしいですが、コスパが悪すぎます。今はTikTokでのインフルエンサーによる『バズ』が全てです。小学校を回るリソースがあるなら、有名クリエイターに一本動画を撮らせるべきですよ」
部長が深く頷く。
「そうだな。佐伯、お前の考えは古い。昭和の残滓だ」
昭和の残滓。
その言葉が、健太郎の心の中の「導火線」に火をつけた。
俺がこれまでどれだけ汗をかいて、地元の文房具店や学校との信頼関係を築いてきたと思っているんだ。
それを、画面の中で踊っているだけの若造の動画一本と一緒にされてたまるか。
「部長! それは現場を軽視しすぎです! 文房具というのは、実際に手に取って、その重みや紙との摩擦を感じることで……」
「佐伯、声を荒らげるな。感情論はいいから、データを出せと言っているんだ」
部長の冷淡な視線。
高木の、どこか小馬鹿にしたような同情の目。
その瞬間、健太郎の脳内で何かが「ブチッ」と音を立てた。
「いい加減にしろ!!」
健太郎は机を叩いて立ち上がった。
叫び声は会議室に響き渡り、隣のブースの社員たちが驚いて顔を覗かせる。
健太郎は、自分でも制御できない「怒り」という奔流に身を任せ、部長に向かって罵声を浴びせそうになった――。
その時。
健太郎のスマートフォンが、ポケットの中で激しく振動した。
着信画面を見ると、そこには『藤代金継ぎ工房』の文字。
反射的に、健太郎の怒りはシュルシュルと萎んでいった。
彼は「あ、すみません、至急の連絡で……」と蚊の鳴くような声で言い残し、会議室を飛び出した。
【沸騰するヤカンの嘘】
命からがら(精神的に)会社を抜け出し、健太郎は藤代の工房へと逃げ込んだ。
まだ心臓がバクバクしている。
怒りの余韻が、指先を震わせていた。
「藤代さん……聞いてください。さっき、会社で爆発しちゃったんです。怒りが、こう、火山みたいに噴き出してきて、自分でも止められなくて……」
藤代は、割れた平皿の断面に、慎重に下塗りの漆を乗せていた。
健太郎の訴えを、まるで「今日の献立は何だ」と聞かれた時のような退屈そうな顔で聞き流している。
「ほう。で、その火山は、今も噴火してるのか?」
「いえ、今はもう落ち着きましたが……。でも、あんなに怒ったのは、やっぱり部長があまりに理不尽だった『原因』があるからで……」
藤代は作業を止め、筆を置いた。そして、いつものように鼻眼鏡の奥から鋭い眼光を飛ばしてくる。
「あんた、さっき『怒りが噴き出して、止められなかった』と言ったな」
「はい。不可抗力です。あんなに言われたら、誰だってキレますよ」
「嘘をつくな」
藤代の声は、静かだが重かった。
「あんた、その怒りの真っ最中に、もし総理大臣とか、あるいは憧れのアイドルから電話がかかってきたらどうした?」
「えっ? そりゃあ、すぐに出て、『お電話ありがとうございます』って丁寧に……」
「そうだろうな。一瞬で怒りを引っ込めて、よそ行きの声を出したはずだ。つまりな、あんたは怒りを『制御できなかった』んじゃない。……『怒りという道具』を、自分の意志で取り出し、振り回したんだよ」
健太郎は言葉に詰まった。
「道、道具……? 私が、自分の意志で?」
「そうだ。あんたの『目的』は何だった? 部長を論破することか? 違う。言葉で説明するのが面倒だから、手っ取り早く『怒鳴る』という手段を使って、相手を屈服させ、自分の支配下に置こうとしたんだ。怒りはな、湧き上がる感情じゃねえ。目的を達成するためにひねり出す『手段』だ」
健太郎は、目の前がチカチカするような衝撃を受けた。
自分が「被害者」として翻弄されていたはずの感情が、実は自分自身が握っていた「武器」だったというのか。
「いいか、サラリーマン。ヤカンの湯気が勝手に吹き出すのと、人間が怒るのは違うんだ。あんたは、自分の意志で火力を上げ、沸騰させている。……『過去のトラウマで怒りっぽい性格になった』なんてのは、これからも楽をして怒鳴り続けたいという、あんたの卑怯な言い訳に過ぎねえ」
藤代は、健太郎の前に、半分だけ漆が塗られた益子焼の皿を置いた。
「金継ぎも同じだ。漆が乾くのを待てずに焦って上塗りをすれば、中が腐る。感情も、その『目的』を見極めずに振り回せば、人間関係が腐るぞ。……さあ、塗ってみろ。今度は、怒りを道具にするんじゃなく、自分の『手』を道具にしてみるんだな」
【コーヒー一杯の平和】
翌日。
健太郎は、昨日とは違う心地よい緊張感を持って出社した。
デスクには、相変わらず不敵な笑みを浮かべる高木がいる。
そして、昨日の今日で、大河原部長の機嫌は最悪だ。
「佐伯、昨日の態度はなんだ。説明しろ」
部長が、健太郎のデスクまでやってきて、低い声で威圧する。
健太郎の心の中で、再び火力が上がりそうになる。
脳内では『お前のせいだろ!』という叫びが準備され、指先が震え始める。
(待て。俺の今の『目的』は何だ?)
健太郎は心の中で自問した。
部長を怒鳴りつけて、一時的にスッキリすることか? 違う。
自分の案を認めさせ、新製品を成功させることだ。
だとすれば、「怒鳴る」という道具は、その目的には全く役に立たない。
むしろ逆効果だ。
健太郎は、深く、長く息を吐いた。
そして、沸騰しかけたヤカンの火を、自分の意志で「弱火」に落とした。
「部長、昨日は失礼しました。あまりに製品への思い入れが強すぎて、言葉を間違えました」
部長が、意外そうな顔をして眉を動かす。
「……ほう。なら、どうするつもりだ」
「高木君のTikTok案、確かに今の時代には不可欠だと思います。ただ、私の『小学校巡回』と組み合わせることで、より『エモい』動画が撮れるはずです。地元の子供たちが真剣に書く姿を、高木君のセンスで切り取ってくれないか」
隣で聞いていた高木が、目を見開いた。
自分を敵視していると思っていた先輩から、まさかの「協力要請」を受けたのだ。
「……僕に、撮れってことですか?」
「ああ。君のデータと、僕の現場。どっちが欠けても、この製品は完成しない。……どうだろう?」
長い沈黙が流れた。
やがて、高木が少し照れくさそうに鼻を擦り、部長が鼻を鳴らした。
「……勝手にしろ。ただし、結果が出なければ、次は本当に火を噴くぞ」
部長は背を向けて去っていった。
健太郎は、自分のデスクに座り、そっと胸をなでおろした。
「怒り」という安易な武器を捨てた手に、確かな手応えが残っている。
その日の夜。
帰宅した健太郎を待っていたのは、やはり静かなリビングだった。
恵美はキッチンで、昨日の皿の代わりか、安いプラスチックの器にサラダを盛っている。
「恵美。コーヒー、淹れようか。昨日、藤代さんのところで珍しい豆をもらったんだ」
恵美は手を止め、不思議そうに健太郎を見た。
「……珍しいわね。あなたが自分から淹れるなんて」
「たまにはね。……あ、熱いから気をつけて。沸騰したての100度じゃなくて、少し冷ました80度が一番美味しいらしいんだ。感情と同じでさ」
健太郎が差し出したカップから、芳醇な香りが立ち昇る。
恵美はそれを一口啜り、小さく「……悪くないわね」と呟いた。
その瞬間、健太郎のスマートフォンが鳴った。
凛からのメッセージだ。
『パパ、今のコーヒーの匂い、私の部屋まで来てる。一杯持ってきて』。
健太郎は、思わず笑みをこぼした。
怒りという大声を出さなくても、伝わるものはある。
壊れた皿が繋がるまでは、まだ時間がかかる。
だが、彼の家庭という「器」の温度は、確実に、適切な度数へと近づいていた。
感情の道具性(怒りは目的を果たすための手段)




