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第1話 悲劇のヒーロー、皿を割る

【不幸という名のコレクション】


 午前七時。

 佐伯健太郎(46歳)の朝は、深いため息とともに幕を開ける。


 彼の人生は、いわば「不可抗力」の積み木でできている。

 まずは、目覚まし時計が鳴らなかった。

 いや、正確には鳴ったのだが、隣で寝ている妻・恵美が「うるさい」と一蹴した際に、時計がベッドの隙間にダイブし、その衝撃で電池が外れたのだ。

 これを不可抗力と言わずして何と言おう。


「……また、俺だけが悪いみたいになるんだ」

 洗面所の鏡に向かい、健太郎は自分の顔を点検する。

 そこにあるのは、睡眠不足で弛んだ頬と、将来への不安で後退の一途をたどる生え際だ。

 彼はこの貧相なルックスを、すべて「遺伝」のせいにしている。

 ついでに言えば、彼が人前で極度に緊張し、大事なプレゼンで噛み倒すのも、幼少期に厳格だった父が「お前は人前に出る器じゃない」と呪いをかけたせいだ。

 過去が今の自分を作っている。

 これこそが健太郎の盤石な世界観だった。


 出社すれば、そこは「理不尽」の博覧会である。

 健太郎が属する文具メーカー『ペン・ノバ』のオフィスは、常に低質なストレスが充満している。

「佐伯さん、この前の企画書、部長が『昭和の匂いがする』って一蹴してましたよ。僕が少し令和っぽく手直ししておきましたから」

 斜め向かいの席で、入社八年目の後輩・高木が爽やかな笑顔を向けてくる。

 高木は健太郎が三日三晩かけて練り上げた案を、わずか一時間で「AIで最適化」し、自分の手柄にする天才だ。

 健太郎は、心の中で高木を「デジタル小僧」と名付け、呪いの言葉を吐く。

 しかし、口から出たのは「……あ、ありがとう。助かるよ」という、情けないほど湿った声だった。


 彼は思う。もし自分が、IT教育の充実した時代に生まれていたら。

 もし、パワハラ気質の部長ではなく、もっと個性を伸ばしてくれる上司の下に配属されていたら。

 健太郎の脳内には、常に「もしも」という名のパラレルワールドが広がっている。

 そこでの彼は、バリバリの敏腕プロデューサーで、部下からは慕われ、家庭では尊敬される理想の父親だ。

 現実とのギャップを埋めるのは、いつだって「環境と過去への恨み節」である。

 彼は、自分が不幸であることの正当な理由をコレクションすることに、人生の貴重なリソースを割いていた。


【静寂と破滅の益子焼】


 その夜、健太郎はいつも以上に肩を落として帰宅した。

 夕方の会議で、自分のミスではない事務的なトラブルを、なぜか部長に「お前の管理不足だ」と一喝されたからだ。

 その時、言い返そうとした健太郎の脳裏には、またしても父の顔が浮かび、喉が塞がった。

(俺がこうなったのは、全部あの教育のせいだ……)

 暗い表情でマンションの扉を開ける。

 家の中は、冷凍庫のような静寂に包まれていた。

 妻の恵美はリビングのソファでスマホを眺め、健太郎の「ただいま」には、わずかな眉の動きで答えるのみ。

 不登校気味の娘・凛の部屋からは、小さなゲームの音だけが漏れてくる。


 健太郎は、冷蔵庫からビール……ではなく、特売の第3のビールを取り出した。

 一口飲み、テーブルの上に目をやる。

 そこには、恵美が大切にしている益子焼の平皿が置かれていた。

 亡くなった義母の形見で、彼女にとって唯一の聖域のような品だ。

「……あ、これ、まだ洗ってなかったのか」

 健太郎は、少しでも「気が利く夫」を演出しようとした。

 あるいは、会社での鬱憤を「家事を手伝う善人」というポーズで上書きしたかったのかもしれない。

 しかし、運命の女神は健太郎を嘲笑った。

 ビールの酔いと、蓄積した疲労。

 そして、洗ったばかりで滑りやすかった彼の手。

 ――スローモーションのように、皿が宙を舞った。

「あっ……!」

 パリン、という、乾いた、しかし決定的な音がした。

 益子焼の皿は、三つの大きな破片と、無数の小さな欠片に分かれ、フローリングの上に散らばった。


「……嘘でしょ」

 恵美の声は、怒鳴るよりも恐ろしかった。

 彼女はソファから立ち上がり、地獄の底から響くような声で呟いた。

「あんた、わざとでしょ」

「な、何言ってるんだ! わざとなわけないだろ。滑ったんだ、不可抗力だよ!」

「不可抗力? あんたはいつもそう。自分が不器用なのを環境のせいにして、大事なものを壊して、謝る前に言い訳をする。もう、顔も見たくない」

 恵美は破片を拾い集めることもせず、寝室に引きこもり、鍵をかけた。

 リビングに残されたのは、孤独な中年男と、修復不可能な陶器の残骸だけだ。


 健太郎は膝をついた。

 自分はなぜこうも運が悪いのか。

 なぜ、このタイミングで皿が滑るのか。

 これもすべて、集中力を欠くように育てた環境のせい、冷え切った夫婦関係のせい、ひいては地球の重力のせいだ……。

 しかし、その夜。

 彼は眠れなかった。

 散らばった破片を新聞紙に包んでいるとき、ふと、駅の裏路地で見かけた、古臭い看板を思い出したのだ。

 『藤代金継ぎ工房――欠けた人生、繋ぎます』。

 怪しげなコピーだ。

 だが、今の健太郎には、その藁にもすがる必要があった。


【偏屈職人の目的論】


 翌週の土曜日。

 健太郎は、緊張で震える手で路地裏の引き戸を開けた。

 中は、沈丁花と漆が混ざったような、不思議な匂いが漂っていた。

 薄暗い室内には、無数の「壊れた器」が並んでいる。

 その奥で、鼻眼鏡をかけた小柄な老人が、ピンセットで何かを細かく動かしていた。

「あの……」

「うるさい。今、息を止めてるんだ」

 老人は、健太郎を見ようともせずに言い放った。

 数分後、ようやく深く息を吐くと、彼は健太郎の方を向き、その冴えない身なりを舐めるように見た。

「皿か、茶碗か」

「皿です。益子焼で……妻の大事な形見なんです」


 健太郎は包みを解き、破片を並べた。

 そして、頼まれてもいないのに「背景の説明」を始めた。

「いや、本当に運が悪かったんです。会社でひどいことがあって、手が震えていて。それに妻との関係も冷え切っていて、家の中の空気が重くて、それが心理的なプレッシャーになって……。元を辿れば、私は子供の頃から不器用な性格で、それは父の教育方針が……」

「おい、サラリーマン」

 藤代という名の職人は、健太郎の話を遮った。

「あんた、なんでそんなに一生懸命『自分が悪いんじゃない』って証拠を集めてるんだ?」

「えっ? いや、事実を伝えないと、この皿の悲劇性が……」

「悲劇性なんてどうでもいい。あんたが『不器用な過去』や『冷たい妻』を理由に持ち出すのはな、この皿を割った責任から逃げるためじゃねえ。……『これからも自分は変わるつもりがない』という宣言をしてるだけだ」


 健太郎は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

「変わるつもりがない? 私は直したいからここに来たんです!」

「口ではそう言うさ。だがな、あんたの心の中の『目的』は別だ。あんたは『自分は過去や環境の被害者だ』という盾を構えることで、これ以上傷つかないように、そして努力しないように自分を守ってるんだ。皿を割ったのは、過去のトラウマじゃない。あんたが今、その手で皿を離したんだ。……『妻を困らせたい』か、『自分を悲劇の主人公にして同情を買いたい』という目的のために、あんたは皿を割るという行動を選んだんだよ」


 健太郎の耳の奥が熱くなった。

 怒りというよりは、あまりにも図星を突かれた際特有の、気恥ずかしさと拒絶反応だ。

「馬鹿な……。私がわざわざ妻を怒らせる目的で皿を割るなんて、そんな不条理なこと……」

「人間なんてのは不条理の塊だ。いいか、金継ぎってのはな、ただ元に戻す作業じゃねえ。壊れたという事実を認め、その傷跡を隠さず、むしろ金で飾って『新しい形』にすることだ。過去が今を決めるんじゃない。あんたがこの皿を『どうしたいか』という今の目的が、この皿の未来を決めるんだ」

 藤代は、健太郎の目の前に漆の道具を置いた。

「通え。あんた自身の手で、この破片に漆を塗れ。自分の選択で、この皿の新しい意味を作ってみろ。嫌なら、その新聞紙に包んでゴミ箱に捨てて帰れ。……どっちを選ぶ? それを決めるのは、親父さんでも奥さんでもねえ。あんただ」


【勇気と、予期せぬお返し】


 それからの健太郎の生活に、劇的な変化が訪れた……わけではない。

 会社では相変わらず高木に手柄を掠め取られ、家では恵美との冷戦が続いている。

 しかし、健太郎の脳内には、藤代の「あんたの目的は何だ?」という問いが、小さな棘のように刺さっていた。

(俺が黙り込んでいるのは、過去のせじゃない。反論して、さらに嫌われるのが怖いという『目的』のために、俺は黙ることを選んでいるんだ……)

 そう自覚するだけで、不思議と腹が据わってくる。


 ある日、部長にまた理不尽な叱責を受けた際、健太郎は初めて「今の言葉は、業務の範疇を超えています」とはっきり言った。

 心臓は壊れそうなほど脈打ったが、部長は意外にも「……あ、ああ、そうか」と気圧されたように引き下がった。

「嫌われる勇気」なんて大層なものではない。

 ただ、「自分は今、何のためにここにいるのか」を考えた結果だった。


 そして、ついに金継ぎの初回の工程が終わり、健太郎は自宅へと戻った。

 リビングには、相変わらず不機嫌そうな恵美がいる。

 健太郎は深呼吸をした。

 これまでの彼なら、「自分はこんなに頑張って皿を直そうとしているのに、お前はなんだ」という被害者意識を盾にしただろう。

 だが、今の目的は違う。

「恵美。皿のこと……不可抗力だなんて言って、ごめん。俺が不注意だったんだ」

 恵美が驚いたように顔を上げた。

 健太郎が言い訳をせずに謝るなど、結婚以来初めてのことかもしれない。

「……今、直してるんだ。まだ時間はかかるけど。俺、不器用だからさ。でも、自分でやりたいと思って」

 恵美は何も言わなかった。

 だが、その夜、食卓には健太郎の好物である唐揚げが、これまた不器用な盛り付けで並んでいた。


 健太郎は、少しだけ誇らしい気持ちで唐揚げを口に運んだ。

「世界はシンプルだ。俺が意味づけを変えれば、世界も変わる」。

 藤代の工房で聞いたような言葉が、頭をよぎる。

 しかし、物語はそう簡単には終わらない。

 隣の部屋から、不登校の娘・凛が、数日ぶりにひょっこりと顔を出した。

 彼女はテーブルの唐揚げをジッと見つめ、ボソッと言った。

「……パパ、その唐揚げ、賞味期限一週間切れた鶏肉でママが作ったやつだよ。……人体実験の『目的』で」

 健太郎の箸が止まる。

 恵美をちらりと見ると、彼女は無表情で茶を啜っていた。


「……それも、一つのコミュニケーション、かな」

 健太郎は、胃のあたりに込み上げる微かな恐怖(と、おそらく明日の腹痛への予感)を感じながら、それでも笑顔で唐揚げを飲み込んだ。

 幸せを掴むための道は、どうやら思っていたよりも、刺激に満ちているらしい。

目的論(過去ではなく今の目的が行動を決める)

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