秘められたる正典(カノン)――白井と寺石の邂逅
聖交学園には、世の学園喜劇に見られる如き、甘美な遊戯は存在しない。
水飛沫舞うプールでの男女の戯れもなければ、放課後の教室で交わされる秘めやかな恋の駆け引きもない。在るのは、荒塩衆道会の厳格なる教義と、男子のみが醸し出す、乾いた埃と汗の臭気だけであった。
この閉鎖された空間において、高校一年より編入した白井紫影は、完全なる異分子であった。
学園の生徒の大半は、中学より持ち上がった六年一貫の純粋培養種であり、彼らの間には、既に強固な連帯と、暗黙の階級が形成されていたからである。
白井は、孤立を選んだ。
彼は己の周囲に不可視の壁を築き、寡黙な修行僧の如き風貌で、他者を一切寄せ付けなかった。彼の剃り上げられた頭部と、武術によって鍛え上げられた立ち振る舞いは、周囲の軟弱な「持ち上がり組」を威圧するに十分であった。
だが、彼が壁を築いた真の理由は、高潔な孤高を守るためではない。彼がその内奥に隠し持つ、致命的なる性癖――即ち、極度の幼形愛好という秘密を、白日の下に晒さぬための、必死の防衛策であったのだ。
ある日の放課後。教室には数名の生徒が残るのみとなっていた。
白井は、教室の最も奥まった席で、一冊の書物に没入していた。
その書物は、異様であった。表紙は無地の白紙で覆われ、背表紙には何の題字もない。厚さは数ミリと薄く、一見すれば、彼が得意とする漢詩の薄い冊子のようにも見える。
しかし、その実体は、彼が己の魂を慰めるために作成した、禁断の魔書であった。彼は、市販の漫画単行本を無慈悲にも解体し、己の琴線に触れる「神回」のページのみを厳選して抜き出し、それを丁寧に糊付けして再構成したのである。
これは、情報の純度を極限まで高め、かつ、表紙による発覚のリスクを排除した、白井流の**「隠蔽工作済み自家製本」**であった。
彼は周囲の気配を、武術家の如き鋭敏な感覚で探りながら、そのページを数ミリだけ開いた。
そこに描かれているのは、丸みを帯びた描線が織りなす、吾妻ひでおという名の巨匠が構築した、不条理にして甘美なる「円理」の世界である。
白井の精神は、現実の教室を離れ、二次元の理想郷へと飛翔しようとしていた。
――然るに。
彼は気づいていなかった。
彼の背後の死角に、一つの影が、音もなく忍び寄っていたことを。
その男の名は、寺石。
彼は、新入生である白井が醸し出す、奇妙な緊張感に以前より興味を抱いていた。寺石は、白井が読む「無地の本」の正体を突き止めるべく、あたかも密林の豹が獲物を狙うが如き忍耐強さで、白井の背後に佇んでいたのである。
呼吸を殺し、心拍すらも制御し、彼は待った。
十分、二十分、そして半時間……。
寺石の眼鏡の奥の双眸は、微動だにせず、白井の手元の一点に注がれていた。
白井は、最終的な安全確認を行った。右よし、左よし。
彼は一瞬の隙を突き、そのページを、わずかに、しかし確実に開いた。
その瞬間である。
寺石の網膜に、一筋の光景が焼き付いた。
見えたのは、ページの極一部。ほんの数センチ四方の断片に過ぎない。
だが、そこには、独特のデフォルメが施された、「ちょんわちょんわ」なる擬音と共に描かれた、あまりにも特徴的な、あの丸みを帯びた少女の膝小僧があった。
(――見えたり!)
寺石にとって、その曲線は、作者を特定するに十分すぎる署名であった。
白井は、背後に殺気のような視線を感じ、反射的に本を閉じた。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背筋を伝う。
(見られたか? 否、今の角度ならば、単なる紙片にしか見えなかったはずだ……)
彼は恐る恐る振り返ろうとした。
その時、白井の右肩に、万力の如き重い手が置かれた。
「!!」
白井は戦慄した。武術の達人である彼が、背後を取られるまで気づかぬとは。
ゆっくりと首を巡らせると、そこには、無表情な寺石の顔があった。
眼鏡の奥の瞳は、冷徹な理性の光を放ちながら、同時に、ある種の狂気じみた共感の色を宿していた。
寺石は、低く、重々しい声で言った。
「同志よ。貴様、ロリコンだな?」
その言葉は、白井の心臓を貫く弾丸であった。
「な……何を……、拙僧は、そのような……」
白井は必死に否定の言葉を紡ごうとした。しかし、寺石はそれを許さなかった。彼は、白井の手元の「無地の本」を指差し、断定的に告げた。
「隠しても無駄だ。その独特の描線、その無意味にして哲学的なる空間の広がり。それは紛れもなく、吾妻ひでお大先生の筆致。しかも、わざわざ自家製本するその執着。それは、単なる読者の域を超えている。それは、**業**だ。」
「……ッ!」
白井の喉から、声にならない呻きが漏れた。
彼の「修行僧」としての仮面は、この一言によって粉々に砕け散った。
絶望と羞恥で顔を紅潮させる白井に対し、寺石は、その手を離すことなく、地獄への招待状を渡すが如く、ニヤリと笑った。
「安心しろ。ここには、貴様のような**『業の深い者』**を受け入れる場所がある。」
寺石は、抗う術を失った白井の腕を引いた。
「来い。部室へ。」
こうして、白井紫影は、己の意思とは無関係に、しかし運命の必然によって、学園の深淵たる「ちんちくりんの七変」の住人となるべく、連行されていったのである。
廊下に響く二人の足音は、あたかも、新たな**「不条理」**の世界への行進曲の如く聞こえた。




