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第14章 銀座の水(3)

 その、面接日までの2日間に、たてつづけに出来事が起きた。といっても、ヒロ自身にではない。アパートの両隣だ。

 銀座まで現場探検に行ってきたその次の日の夜。

 ヒロが部屋の畳にひっくり返って本を読んでいると、どこかで猫が鳴いている。

――まさか、飼ってるわけじゃないよね。

 大家さんからペットは厳禁と言われていた。

 そう思っていると、また鳴いている。ヒロは本を伏せて、鳴き声のする方向を探った。右隣りの部屋だ。あの、地味な、暗い女。

 そのうち、もっとはっきりと鳴き始めた。

――ありゃまあ。

 ヒロは思った。

 鳴き声は猫ではないのだ。ああ、ああああ、ああああああ。畳に耳をつけていると、振動まで伝わってくるようだった。叫び声にまじって、かすかに低い男の声も混じる。

 まぎれもない。それは、男女が身体を重ねていて、女のほうが奏でる絶頂の音色だったのだ。

――へえ、よくやるよ、おとなしそうな顔して。

 ヒロは前日にあいさつに言ったとき、こっちの顔も見ずに、しみったれた表情ですぐに消えたあの女のようすを思い出している。それと、いま聞こえてくる音色とのあまりのギャップ!

 そのうち静かになった。

 ところが、1時間ほどするとふたたび一戦が始まっているのだ。こんどは、猫は猫でもかなりふてぶてしい猫のような叫び声。

 そして、また一時間後……

 結局、その晩、激戦が4回は繰り返されたのである。4回目はさすがにヒロも弱り果て、

――これじゃ、眠るどころじゃない。

 ティッシュをくるくる丸めて両耳に詰めた。耳栓だ。

 その効果があって、いつのまにか眠りについたので、ほんとうのところ右隣りのお二人が朝まで何戦おこなったのか正確にはわからなかった。

 翌朝、ヒロはペットボトルの緑茶を買いに、通りのコンビニに出かけた。アパートへ戻りながら、なんだか寝不足気味だなあ、どうしてだろう、と考えているうち、昨夜の猫のことを思い出した。

 思い出しながら、その震源地の右隣の部屋の前を通っていると、ドアが開いた。あまりのタイミングにヒロはどぎまぎして、

「あら、お世話になっています」

 などと、とんちんかんなあいさつをしてしまう。

 相手の顔が見えた。

 なんと、ハゲ頭のおやじである。

 おやじは、

「あ、こ、これは、どうも。む、娘をよろしくお願いします」

 と動転している。

 娘と呼ばれたあの地味な女は、前日よりいっそう地味なようすでハゲおやじのうしろに隠れている。

――これが、あの声の主だなんてねえ。

 ヒロは信じられない思いだ。

――娘をよろしくだってさ。言うに事欠いて……

 そそくさと足早に去った二人の背中をちらっと眺めながらヒロは首をそよそよと振った。

 出来事はその夜に連発した。

 こんどは左隣である。

「ごていねいに、ありがとうございます」

 とじつにさわやかに、かしこそうなあいさつをした若い男の部屋に起きた騒動である。

 またしても、夜。

――え? こんな時間に引っ越し?

 とヒロは思った。

 荒々しい足音がして、それはたとえばソファーや洋服ダンスを数人で運んでいるようにも想像できたからだ。

 けれども、すぐにそんな穏やかなものでないことがわかった。

「コンドーシゲオさん」

 とつぶやくように、しかしドスのきいた低い声で、そう呼びかけているふうだ。左隣の、あのさわやか青年の名前を呼んでいるのだろう。

「隠れてりゃあ、すむってもんじゃないよ。もう、あんたのことはすべて調べがついとる。会社や親はもちろんやけど、親戚も友だちも、ぜんぶわかっとる」

 そこで、いったん区切って、

「なめるのもいいかげんにしとけよ、オドリャー!」

 びんびん響く声に変わった。

「借りたものは返すのが道理やろがァ、ええ? 人生めちゃめちゃになるのは簡単やぞ。なあ、コンドー!」

 ドンッと音がしたのは、声の主がドアを蹴ったらしい。

 ヒロは反射的に自分のドアを小さく開けて、隣をのぞいた。男が二人立っている。

 ヒロの部屋からの光が漏れたのだろう、その男たちはヒロのほうをじろりと見る。目が合ってしまう。ヒロは心臓が口から飛び出そうだった。

「あ、お隣さん、ご迷惑おかけします」

 一人の男がていねいに頭を下げる。声からして、さっきドスを聞かせていたほうではないようだ。

 その男は大きな声で、

「ご迷惑だから、こういうことはしたくないんですけどね。この、お隣に住むコンドーシゲオさんがね、コンドーシゲオさんが借りたお金を返さないんですよ。コンドーシゲオさんが。ねえ、人間として最低です。どう思います、お隣さん?」

 とヒロに声をかける。

 必要以上に大声なのは、中から厳重に鍵をかけて居留守しているコンドーシゲオ君に聞こえるようにしているのだ。

 そういえば、あたしが訪れたときも警戒して出てこなかった、と思いながら、

「はあ」

 と男に答える。ドアを開けたことを後悔する。

「こうなるとねえ、自分一人の問題じゃなくてねえ、周囲のいろいろな人の人生がめちゃくちゃになってしまうんですよ」

「はあ……」

「じゃあ、コンドーさん。また来ますが……」

 ふいに声が変わって、

「今度が最後だぜ」

 そして、さっきドスをきかせていたほうが、締めとして、

「オドリャー!」

 ともういちどドアを蹴り、ヒロに会釈して去っていった。

 タチのよくない金融業者から借金をしたんだろう、彼は。とヒロはその騒動の内容を理解した。

――真っ暗な部屋で、身を固くして、息も殺してじっとしているんだろうなあ、あの清潔そうな青年は。

 海の底のようにしいんとしている左隣をちらりと見ながらヒロは想像した。

 右隣の陰気な女のあの猛烈な歓びの鳴き声といい、さわやか青年のこの苦難といい、

――つくづく東京は、見た目じゃわからないところだなあ。

 それがヒロの感想だった。

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