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第14章 銀座の水(1)

 あれから2ヵ月が過ぎた。

 チャンが、兆龍飯店から去った。ヒロには何も伝言を残さなかった。だれにたずねても、事情は教えてくれなかった。

 ヒロと別れたあとのこの町にいるのがつらくなったのだろうが、そんなことを知る者はいない。

 ひょっとしたら、あの男、借金に困っていたのかもしれないぞ、といううわさも立った。もちろんうわさだが、それを否定する材料もない。ともかく、たしかなのは、あの腕の立つ料理人がもうふたたびこの町に戻ることがないということだった。

 その事実を知ったヒロだが、自分でも不思議なくらい動揺がなかった。

――チャン。どこかの町で、どうかいい人生を。

 こころからそう思った。

 身体からも戸籍からもチャンの影が完全に消えたヒロは、何事もなかったかのようにアトランティスでの仕事をつづけた。

 両親も、もう何も言わず、何も聞かなかった。

 おそらく、夜の海に人魚姫のように飛びこんだことは、想像もしていないだろう。

 ただ、どんな形で決着がついたにしろ、ヒロのこころに傷がついたのは百も承知だ。

 父は、胸のどこかでヒロに謝罪する気持ちもあったようだ。

 ある夜、居間でコーヒーを飲んでいたヒロの横に、父がすっと寄って座った。

「なあ、ヒロ」

 父は、グレープフルーツジュースをグラスに入れて持っている。病気から復帰して以来、父はアルコールを口にしていなかった。

「なに?」

 ジュースを手に持つ姿が何となく可愛くて、ヒロは微笑を浮かべながら、父の顔をのぞく。

「おまえ、銀座に行ってみたらどうだ」

 思いがけないセリフだった。

「銀座? どうして? 何かコネでも?」

「いや、そういうことじゃない。けれど、おまえは、いったんまっさらになった身だ。新天地でもっと世の中を自分の目で見てみるのもいいぞ」

「それが、どうして銀座?」

「おまえには、あの街が似合う」

 父はもともと東京の高円寺で生まれ、少年時代は築地で育ったチャキチャキの江戸っ子でもあった。

 ヒロは、

――いつかも、チャンがそんなことを言ったなあ。

 ふと思い出した。

「何があるっていうの、あの街に」

「街っていうのは、そこにはじめっから何かがあるんじゃない。ひとりひとりの人間が、自分で何かを作り出すんだ」

「ふうん」

「つまり、絵描きのキャンバス、作曲家の譜面だ」

「でもあの街は、要するに飲むかヤルかの世界なんじゃないの?」

「そうだよ。そういうつもりで関わる絵描きにとっては、な。だから、行ってこいっ!」

 なんてオヤジだ、娘を売る気か? と父の真意を疑ったが、父なりの励ましの言葉なんだろうとヒロは思うことにした。



 ヒロが決心して東京に出たのは、関東に梅雨明け宣言が出された日だった。

 父の助言に沿ったわけではない。

 もちろん、それがきっかけにはなったが、ヒロ自身も、以前からぼんやりとそのことを考えていたのだ。

 いったん無になったあとの、出発。

 それは、銀座というよりも、東京。

 父は絵描きと作曲家を例に出したが、ヒロの気持ちの中に漠然とあったのは「映画づくり」だった。

 具体的な構想ではないが、幼いころからずっとその夢がくすぶりつづけていたような気がする。

 自分が今までにみたこと、感じたことを伝えたい。これまでも、人生のターニングポイントになった出来事を日記風に文章でまとめていた。それを映像で伝えたい。

 無になったいま、その夢が浮き彫りになってきた。

 アトランティスは中学校の同級生に居抜きで譲った。

「ヒロのあとだと、どんな店も見劣りするけど、まあ、いろいろアイデア出してやってみる」

 同級生は言った。彼はカモの親友だった。ヒロは、これでほんとうに、この町のなにもかもと完全なお別れだ、と思った。

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