第11章 傾いてゆく(2)
そういうヒロの変化の中に、ある出会いが待ち受けていた。
はじめて、その男がアトランティスに現われたとき、
――ええと、どこかで……
とヒロは思った。
どこかで会ったことがある。
言葉の語尾に独特の、撥ねるようなくせがある。
店の女の子も同じことを思っていたようだ。そして、その語尾を聞いて思い当たったらしい。カウンターから声をかけた。
「ねえ、お客さん、兆龍飯店のマスターじゃない?」
――チョウリュウハンテン?
女の子のせりふにヒロは一瞬、首を傾げた。兆龍の字が思い浮かばなかったからだが、あらためてその人の顔をしげしげと見て、
――あ、そう、あの大きな中華料理店の!
たしかにその店のマスターだ。
すると、その人は、ふっと温和な笑顔を見せて、
「あれは弟です。双子の兄弟の……」
そう言って、なんだかすまなそうな表情だ。
「あら、そうなの、へえ、双子……さすがによく似てる!」
カウンターの女の子はゆかいそうにその人の顔を見る。
ふしぎなのだけれど、ヒロの気持ちの中に、これまで経験したことのなかった小さな固まりのようなものが漂った。
漂った、という言い方がいちばんふさわしいのだけれど、それは空中をふわりふわり浮遊する小石のようなもの。
そして、もっとふしぎなのだけれど、その小石の浮遊は、ヒロの中に思いがけない温もりをよこした。
もちろん、強烈なものではない。だから、すぐに取り紛れてしまうような淡いものだったのだが、でも、その人の、
「あれは弟……」
と言ったときの、なんだかすまなそうな、なんだか気のよさそうな、それでいて、とても寂しそうな、そんな印象はいつまでも気持ちの中に思いがけず深く残った。
名前は、チャン。
そう名乗った。やはり中国人だった。
チャンは、それからときおり店に現われるようになった。
現われるけれども、自己主張の強いタイプではなかった。自分に注意を引きつけるような言動をまったくしなかった。
ただし、カウンターの隅に背中を丸めて座っているという暗さがあるわけではない。多くを語らないのだけれど、華やかなものを感じさせる。
――なんとなく、夏雲のような人だなあ。
と、ヒロは感じた。
大きいのだ。包容力がある。しかし、夏の雲がそうであるように、その中に巨大なエネルギーを抱えていて、ひとたびそれがあふれると轟くような雷鳴を響かせる、そんな危なさも秘めていた。
ヒロは、あくまでも客の一人としてチャンをあつかったが、彼が現われるたびに、彼の醸し出す雰囲気が気になってしかたなくなっていた。
ある日の夕方、いつもは店の始まる前はサンドイッチぐらいしか食べないヒロだが、その日は忙しくなりそうだったので、少しきちんと補給しておこうという気になった。
――どこで食べよう。
そう迷ったのは一瞬だけだった。
まっすぐ向かったのは兆龍飯店である。
いつもながら、活気に満ちた店だ。厨房もホールも全員が自分の店に誇りを持っている、という感じがありありだ。
――見習わなくっちゃ。
ヒロがそう思って、なにげなく厨房を見ると、
――いたいた……
フライパンをあつかっている横顔が見える。
チャンの弟だ。
――似ているけれど……。
とヒロは思う。
似てはいるけれど、やっぱりチャンとは別人。
――でも、弟もちょっとかっこいいな。
フライパンを扱うたびに、肩の動きが精悍だ。料理をしているというよりも、木こりが大木を倒しているような、猟師が獲物を狙い撃っているような、そういう空気がみなぎっている。
ふと気づくと、そばにウエイトレスが立っている。
さっきから、オーダーを取りにきていたのだが、ヒロが厨房に気を取られているので、困っていたのだ。
「ああ、ごめんなさい」
ヒロは、なんだかとてもあわててしまった。盗み見しているところを目撃されたような気がしたから。
「タンメンください」
ろくにメニューも見ずに、思いついたものをたのんだ。もうすこし別のものを食べようと思っていたのに……。
まもなく出てきたタンメンをすすりながら、
――あっ。
ヒロは思わず箸を止めてしまった。
そして、左手で顔を覆うしぐさをしている。気分でもわるくなったか……、そうではなかった。
ふいに恥ずかしさに襲われたのだ。恥ずかしいことを思い出したのだ。
もうずっと前になる。そう、アトランティスを開店して間もないころだった。あのころは、懸命だった。毎晩、張りつめていた。店が終わると、張りつめた糸をほぐすにはアルコールに頼らざるを得なかった。
疲れていたから、すこし飲んだだけで酔いは急激にまわる。つい潰れてしまうことも少なくなかった。
それを、ここ兆龍飯店でもやっていたのだ。
老酒を一人で一本開けた。
「それじゃ、お勘定」
と立ったまではよかったが、腰がカクンと抜けた。
そのままずるずるっと床に落ちる。落ちるとき、テーブルクロスの端をつかんでいたので、テーブルの上のグラスも皿も器も、ことごとく床に落ちた。ガシャガシャガチャンッ。
けたたましい音。
ヒロはそのまま床で寝息を立てていた。
いっしょにいたアルバイトの女の子から翌日聞かされたヒロは、
――ま、やっちまったことはしかたないよ。
と、忘れるように努めたが、何かの拍子に思い出すと、身をよじりたいぐらい恥ずかしかった。
あれ以来、いっときは鬼門のように兆龍飯店を避けていたように思う。いつのころか、ようやく記憶が薄れてきたけれど、その中華料理店にはどうしても足が向かなかった。
チャンがはじめてアトランティスに現われたとき、カウンターの女の子が、
「兆龍飯店のマスター?」
と言ったとき、なぜかはわからないけれど、ぞぞっと嫌な気分がちょっと混じったのを思い出した。
――ま、いいか。もう時効だもの。
ヒロはそそくさとタンメンを食べ、もったいないけれどちょっと残し、うつむくようにして席を立った。
ちらっともういちど厨房を盗み見たら、やばい! チャンの弟と目があってしまった。弟が一瞬ドキッとしたような顔になったのは気のせいだろうとヒロは思った。
その証拠に、彼は何事もなかったように目を逸らしたからだ。