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第11章 傾いてゆく(1)

「ママ、たっぷり充電できたようですね」

 何日ぶりかのアトランティスに出たヒロの顔を見て、従業員の一人がうれしそうに言った。

「ごめんね、のんびりさせてもらっちゃって」

「いいえ、ママ、ちょっと過労気味だったから、よかったです」

「ありがとう」

 ほかの従業員もほとんど似たような反応だった。ヒロは、素直にみんなに感謝した。

 あの夜、従業員と常連客を合わせて40人ほどの忘年パーティを終えて、

「ママ、今夜は疲れているから、早く帰って」

 と言われた言葉にしたがって、みんなに心の底から親愛の手を振り、別れた。

 そのあと、ヒロの自宅の部屋で起きた出来事、致死量のハルシオンがヒロの体内に入り、そして当然のことながら、生死の境をさまよったこと、それらは家族以外にはだれも知らないことだった。

 ヒロの兄から店に電話があり、

「かなり身体に負担がきているようなので、今後のために休養させてやりたい。温泉にでも入って年末年始を過ごさせてやりたい。本人はそんなわがままはできない、と言っているのですが、われわれが無理矢理そうさせるようにしました。ほんとうに、ごめいわくをかけて申し訳ありません」

 とていねいに報告があった。

 従業員たちは、それはいいことですね、ぜひそうしてください、店は心配いりませんよ、と答えた。もちろん、ヒロの身が危険にさらされていたなんて、想像もしなかった。

 そして、生還したあとロスへひとっ飛びしたことも。

 だれもが、ママは温泉でゆったりと過ごし、たっぷり充電してきたと信じて疑わない。そして、ヒロの表情にはそれを裏づけるように、ふたたび生気があふれていたのだ。

 従業員だけでなく、客たちもヒロのその「充電」をよろこんだ。

「めっきり若返ったね、ママ」

 という客には、

「あら、いったいいくつだと思ってたの、あたしのこと」

 とかわしたが、

「いのちの洗濯をしてきたねえ、ママ」

 と言われると、かるい動揺があった。

 言うほうにとってはただの慣用句であって、深い意味はなかったのだけれど、「いのち」の語には、やはり身体が反応したのだ。



 いのちを洗濯したからかどうかはともかく、ヒロの中で何かが微妙に変わっていた。

 それは、周囲の人も気づいていた。

 だれかを評するとき、

「すっかり丸くなった」

 とか、

「ひと皮むけた」

 という言い方がよく使われる。

 あれは、たとえば川の流れや風雪にさらされているうちに、いつのまにか磨耗して角がとれたようすに喩えて言うのだろう。

 円熟といってもいい。

 そのぶん、情熱をむき出しにするエネルギーは影をひそめているけれど、物腰や笑顔に以前よりもふっくらとした何かが備わってきている。そういう感じ。

 いったん、ぎりぎりのところまで自分を追いつめた人に、そういう変化が生まれるにちがいない。

 お湯にたとえてみよう。

 ここに70度のお湯が2つあるとする。

 じわじわ温度を上げて70度でストップしたお湯と、いったん沸騰させてそれから70度まで下げたお湯。

 どちらも温度としては同じ。でも、物質的にはかなりちがったものではないだろうか。

 70度でストップしたのは、ただの微温湯。

 でも、いったん沸騰して、もみくちゃにしてから下げた湯には、物質そのものに新しい意味が加わっている。

「人間が丸くなった」

 とか

「ひと皮むけた」

 というのは、あきらかに、いったん沸騰して下げた「丸さ」であり「皮むけ」にちがいない。ただの微温湯とはそこが決定的にちがっている。

 ヒロはたしかに、どこか丸くなった。とげとげしさが、まったく取れていた。ふくよかになっていた。

 とことんまで自分を追いこんで、そこから復帰してきたためのふくよかさ。人の傷みを自分の傷みと取れる大きさ。

 そういったものが、ヒロに生まれていた。もちろん、自分ではちっとも気づかないことだったけれども。

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