第10章 白い道(3)
次に気がついたときは夜になっていた。
家族はみんな、「もうだいじょうぶ」の確信を得たのだろう、いったん家にもどったようすだ。
ベッドの枕もとに携帯電話が置いてある。
開いてみると、メールがひとつ来ている。次兄の浩太郎からだ。
タイトルは無題で、本文も短い。
「ヒロを助けてくれって、おふくろに祈ってたよ。顔もおぼえてないけど」
それだけ。
顔もおぼえていないおふくろ、というのは父の前妻、つまり浩太郎の実母であるのは言うまでもない。浩太郎の祈りがどういうものだったか、こんなに短い文面からはっきりと伝わってきた。
ヒロは携帯電話の小さい画面のそれらの文字を、6回繰り返して読んだ。
6回目になって、引きずり込まれるような睡魔に襲われた。開いたままの携帯電話がヒロの胸にぽとりと落ちる。
そして、そのまま一昼夜、ヒロはこんこんと眠りつづけた。その眠りは危険なものではなく、生きることへ向かった前進の眠りだったので、病院側も家族も安心して見守った。
目を覚ましたのは、夜明け前だった。
常夜灯が暗闇をほんのすこし和らげている。
ヒロの血中から、睡眠薬はすっかり排泄され、脳から朦朧も取り払われていた。
寝返りを打とうとして、左腕に点滴の針が入れられていることに気づいたヒロは、腰の位置だけ変えて、ひとつ大きく息を吸った。
病院は寝静まっている。
となりの部屋から、規則正しい寝息が小さく聞こえているだけだ。
――あたしは、ハルシオンを飲んだのだ。
そのことをはっきり思い出す。
世間で言えば、これは自殺未遂ということになる。
自殺未遂といえば、「絶望のすえ」であり、「思い屈して」であり、「八方塞がり」というふうに相場がきまっている。
――でも、あたしは……
未明の病室でヒロは天井に目をとめながら考えている。
――でもあたしは、絶望や苦悩でハルシオンを含んだのかと言われると、ぜったいそうじゃない、と言い切れる。
あの夜、あたしは、満ち足りていた。ほんとうに満ち足りていた。自分の努力により、ここまで到達できたこと。それを周囲のみんなが心から認めてくれ、祝福してくれたこと。
たしかに、積もり積もった疲労感も尋常ではなかった。
けれども、それは陰湿な疲労ではなかった。
燃え尽きた明るさ。
そう、そういう感じに近い。白い灰になって、風が吹くと吹き散らされてしまいそうな状態。
器の中にたくさんの思いが溜まり、もうあとは溢れるばかり。
感無量というのは、そういう状態かもしれない。
それは、かぎりない充足。そして、かぎりない空虚。
――あたしの気持ちは、どこへ向かおうとしていたのだろう。
来世?
そういうものをあたしは信じていただろうか。
よくわからない。
信じていたとして、その世であたしは何を望んでいたんだろう。
それもわからない。
ただ、この世ではもう満ち足りた、だから終わりにしようって決めたのは確かだった。
――あ……
ヒロは思い出した。
覚醒反応でのあと、生命が行きつ戻りつ行きつ戻りしていたときの、あの光景。
あれはあたしの脳が味わった、いわゆる臨死体験。
真っ白い道の彼方に、たったひとつの人影。
「来るな、来るな」
のサイン。
高校生の男の子。よく知っている、とてもよく知っているのだけれど、思い出せなかったあの子。
それが、だれだったか、いまでははっきりわかっている。
カモだ。
十代をずっといっしょに過ごした、加茂原 瞬。十代のまま、ある日、バイクで崖から落ちてふたたび帰らなかったカモ。
自分の中に、「キズ」と言ってしまうと軽くなってしまうほど、深い、酷薄な、修復不能の溝を残したままの高校生、カモ。
――カモはなぜ、あんなに拒んだのだろう。そして、なぜ、あんなにきれいな紫色の手をしていたのだろう。
ヒロは思った。
これから自分は、ふたたび生きていくことになる。その中で、この疑問とずっと付き合っていくことになるのだ。
そう、確信した。
いつのまにか、夜が明けていた。病室の窓が赤く染まっている。窓を開ければ、きれいな朝焼けが見えることだろう。