第9章 伝説の太古の大陸(3)
もうすぐ、アトランティスとなってから3回目の正月がやってくるという師走。
忘年パーティが企画された。
従業員と常連客を合わせて40人ほどのパーティである。
せっかくだからと皆に勧められて、ヒロはとっておきの真っ赤なドレスに毛皮のコートで着飾っていた。
人生には、川が決壊するような瞬間がある。増水に増水を重ねてきた川の堤に、ほんの小さな、それこそ蟻が通るほどの小さな穴が開く瞬間。
満々たる水は、そこから決壊を始める。
ただし、その決壊は悲壮感にあふれるものではないのだ。むしろ幸福の絶頂というほどの祝祭性に満ちている。
ヒロにとってはその夜が、そうだったといえるかもしれない。
従業員が、常連客が、
「ママの健闘を祝して、おつかれさま、ママ!」
そう言って乾杯をしてくれた。
ヒロは、その言葉に自分でも意外なほど反応した。
「おつかれさま……」
そう、あたしは、とうとうここまで歩いてきた。
矢が刺さり、刀傷を受け、しかし、ここまできたのだ。
達成感という言葉では言い尽くせない幸福が満ちた。このまま眠ってしまったらどんなにしあわせだろう。
ふっと、また陽炎のように少年の影がよぎる。
その影にもグラスをあげてあいさつしたくなった。
――あたし、やれたよ、カモ
思えばカモを失って以来、ヒロは生き急ぐように突っ走ってきた。悲しみを夢へのエネルギーに変えて、様々な挑戦をした。立ち止まったらおしまいのような気がしていたのだ。
――もう、いいよね、カモ
人には聞こえないように、ヒロはつぶやいた。
「じゃあねえ、まだちょっと早いけど、よいお年を、もうひとつおまけにメリークリスマス!」
などと常連客が手を振って帰っていく。
ヒロはめずらしく、立ち上がれないほどの疲労を感じていた。
「だいじょうぶ? ママ」
と、ふだんは露骨にふてくされた態度をする年上の従業員が、しんから心配そうに言う。
「平気、ちょっとね、しあわせ疲れなの、あんまりにも今夜のパーティがうれしくてね」
そう答えた。
「あとを私たちがやっておく。今夜ぐらいは、ママ、先に帰ってゆっくり休んで」
従業員は言う。すると、全員がそれに賛同した。
「帰って、帰って。ゆっくり休んで」
ふと気づくとヒロは家に帰って、自分の部屋にいた。
みんなのねぎらいの合唱を受け、
「じゃあ、甘えるわね」
と店を出て、タクシーの中でうとうとしたらしい。パーティがそのとき見た夢なのかどうか、一瞬わからなくなるほどだった。
しあわせの余韻がまだ身体のあちこちに残っている。
充足感。
心のどこかでいつも探していた。この時を待っていた。もうなにもいらない……。
まさにそういう状態でヒロは高揚していた。
けれども、ガラス瓶の中に水がフタのところまでぎっしり詰まっていると、それは空っぽのようにも見える。
だから、ヒロの大きな充足は、大きな空虚とも等しい。
そういう気分に包まれたヒロは、このまま夜空の汽車に乗っていけたら、どんなにすてきだろう、と想像した。
充足と空虚を、もっともっと持続したい。そんな気分。
夜空の汽車に乗ったら、窓を開けて、駅弁でも買うようなふりをして、みんなに、いままで知り合ったみんなに手を振ってあいさつしよう。なんというあいさつ? こんばんは? ちがうなあ。ありがとう? それもちょっとちがうなあ。
やっぱりここは、さようなら、だろうなあ。
机の引き出しから、錠剤を取り出したことには、深い意味はなかった。夜空の汽車の切符を買うような、そんな手つきだった。
ハルシオン。
第三種向精神薬。その性質上、当然のことながら限度を越えた量を服用すれば、呼吸抑制を引き起こし、やがて生命は閉ざされる。
まるでワルツでも踊るように、ほんとうにしあわせそうに、ヒロはその錠剤を何粒も何粒も口に含む。
とうとう百粒を越えた。
――汽車の中は禁煙だから……
ヒロは外に出た。
深紅のドレスが闇の中に浮き立つ。毛皮のコートは部屋に脱いだままだ。遠くでかすかに救急車のサイレンの音が聞こえる。
ヒロは明かりの切れた街灯の下に座り込んだ。
――ここで最後の一本を吸っておこうっと。
しわくちゃの箱から1本だけ残っていたセブンスターを抜き出し、火をつける。
深々と吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出す。
思えばここは最後にカモと会った場所だ。
漂う紫煙の向こうに、遠くこちらに背を向けて佇んでいるカモが見える。
――プラットフォームは霧が深いわ。ねえ、カモ。
闇に浮かぶ影に向かって、ヒロは小さく呟く。
ふいに影が揺らいで見えた。
――うん、そうだね、わかってるよ。でもね……。
指先から、火のついたセブンスターが、アスファルトの上にポトリと落ちた。
それに合わせるように、ヒロの身体がゆらりと沈んだ。