第9章 伝説の太古の大陸(2)
翌日には、ヒロの気持ちはほぼ固まっていた。
26歳で、小さいとはいえひとつの城のあるじとなる。そこにどういう困難が待ち受けているか、想像も及ばない。
――でも、あたしは飲食業の娘だ。
そう思った。会津で、店を「揺りかご」のようにして育った少女時代を、ヒロはありありと思い出していた。
――今までだって人に接する仕事をしてきた。お酒も好きだ。全く知らない世界じゃない。
やってみよう。困難は、そのときに解決をしていけばいい。中島さんが言ってくれたこと、「ヒロならできる」それに賭けてみよう。臆病になって、あとで後悔しないためにも。
保証人が必要だった。
迷ったけれど、母に相談した。
「バカッ、あんたに経営者なんてできるわけないじゃないの!」
母はまっかになって怒った。ミス・ジャパンへ応募していることを知ったときとは迫力がちがっていた。危険を察知しているという、森の動物の母親のような凄みがあった。
病後の父も反対した。
「ヒロ、おまえはおれのいのちの恩人だ。だから言うんだが、若さを無駄遣いするのは、もういいかげんにしろ」
ヒロは両親の言葉を黙って聞いた。
そして、
「私、ここでやらないとダメになりそうに思う」
と細いかすれた声で、けれどもはっきりと言い、二人に深々とおじぎをして部屋から出た。
翌朝、母がヒロの枕もとにそっと何かを置いていった。
保証人の書類だった。実印も押してあった。
居抜きで、ヒロの店が始まった。
その名を、「カラオケROOM ATLANTIS」。カウンター15席の小さな店だ。
はるかな太古、広大な大西洋にはひとつの巨大な大陸が存在したとの伝説がある。アトランティス大陸だ。
いまから12000年前、とつじょ襲った天変地異により、その文明は一夜のうちに滅亡。大陸は海底深く沈んでいったという。
この伝説を世に広めたのはギリシャ哲学者のプラトンといわれるが、伝説は伝説を呼び、さまざまなことが語り継がれてきた。
そのひとつとして、太古の時代、まだ神も発明されていなかったころ、その大陸では女性こそ、母体こそ、神そのものであったというのがある。
それを本で読んだヒロは、迷わず自分の店の名に採用したのだった。ひとりの女として、毅然と生きていこうという決意もこめたつもりだ。
それからの、星野ヒロの、アトランティス大陸の苛烈な3年間をどう書きとめたらいいだろう。
捨て身、ということばがある。
それは自暴自棄とは根本的に異なる。
迷いも、弱気も、不満も、悲しみも、悔しさも、すべてを一身のうちに丸呑みする。そうして身を守るというのでなく、なにもかもを丸呑みした身を、投げ出すのだ。何のために? ひとことでは言い表わせないだろうが、夢のために、と言ってもいい。
アトランティス大陸でヒロがやりつづけたのは、そういう捨て身だった。
厳しいことの連続だった。
それは始めから予想していたことで、泣き言は言わなかった。
自分より年上の従業員を使えば、
「なんであんたみたいな若い子に、このあたしが命令されなきゃいけないの」
という態度が露骨である。
「あたしが辞めたらママは一人でやっていけるの?」
と足元をみて自分勝手に振る舞う子もいる。そして彼氏ができて突然辞めたりするのだ。
だれも店など愛していない。自分の時間を売ってなんぼ、という価値観だ。人を使うということは、それを理解し、それを辛抱しなければならない。ヒロはことごとく飲み込んだ。
店はしかし、当たった。
小さい店だから収容人数が少ないせいもあるが、つねに長い行列が店の前にできた。「わが街のトップ店」という、タウン誌のコラムにも紹介されるほどになった。
記事のタイトルは、
「べっぴんママの心意気」
というもので、ヒロのさっぱりした性分がとても居心地のいい雰囲気をつくっていると評された。
だれもその心意気の奥に、たくさんの鬱積が、疲労が降り積もっていることには気づかない。
居抜きで譲ってくれた中島さんは、顔を出すとかえってヒロが気をつかうだろうとの配慮からだろう、一度もアトランティスには顔を出さなかった。連絡も絶えた。
深夜、店を終え、従業員の最後の一人が「おつかれさま」と帰ったあと、一人で薄い水割りを飲みながら、
――自分には、もう相談できる人がいない。徹底的にひとりなんだなあ。
と思い知ることがよくあった。
けれどもそういうとき、ヒロはうなだれることはなかった。
かならず、眼前に陽炎のように少年の影が走るからだ。
少年は馬に乗っている。鉄の馬だ。つまり大型バイクだ。
ヒロの眼前でスピードをゆるめる。左手をゆっくりゆっくり振っている。何か叫んでいる。声は聞こえないが、口の形ではっきりわかる。
「あきらめるな、ヒロ」
そう言っている。こんなときはいつも心にカモがあらわれる。心の中を覗かれていそうな気がして、ヒロは自分に嘘がつけなくなるのだ。
「わかったよ、カモ……」
ヒロは水割りのグラスを置いて、手を振り返す。




