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第9章 伝説の太古の大陸(1)

 奇跡は完成した。

 父は、地獄の淵から戻ってきて、しかもかすかな手足の麻痺を残すのみで、ふつうの暮らしに復帰できるまでになった。

 ヒロは、もちろんうれしかった。たとえ今までのように仕事に就くことがもう無理であったとしてもだ。あきらめないことの神通力のようなものも実感した。

 けれども、極度の疲労の連続がヒロの身体に与えた後遺症は、自分で思う以上に激しかった。バー『Forest』、ミス・ジャパン、CDデビュー、どれもぎりぎりまで気を張りつめるものばかりだった。それが身体の奥深く累積していた。

 そして、父の救命。

 安堵のこころは、虚脱感にも通じる。

 ヒロは抜け殻になってしまった。

 毎晩のように、夜の街を飲み歩いた。もちろん、それでうつろになった心が埋まるわけではない。いっそう、むなしさがつのり、抜け殻はかさかさに乾いていく。

 そんなある夜。

 ヒロはバー『銀河』のカウンターに腰かけて、ギムレットのグラスを傾けていた。『銀河』はヒロが大好きなバーだ。なんといえばいいだろう、懐かしいのだ。けっして古い造りというわけではないのに、郷愁のようなものをいつもヒロは覚える。「帰ってきた」という感じに近いといえばよいか。

 店内はいつも音のないモノクロの洋画が流れている。マスターの中島さんは一見寡黙に見えるが、ヒロが話したい気分のときは、外見からは想像もつかないほどの冗談を交えた話で場を盛り上げてくれる。反対に、静かに飲みたいときは、つかず離れずそっとしておいてくれるので気楽だ。

 ホッとする、とはこのことだろう。『銀河』はヒロにとってそういうバーである。

「なあ、ヒロ」

 マスターがグラスを拭き終えて、すっとヒロの前に立った。

「なあに」

 いつものように中島さんから映画の話が出るのだろう、とヒロは思った。中島さんは、古いイタリア映画ファンで、まるで評論家のように知識が豊富だ。ヒロは、その話を聞くのが好きだった。

 けれども、その夜、中島さんから映画の話は出ない。出たのは、思いもよらない提案だった。

「このバーをやめようと思う」

「え?」

「エンドマークだ」

「じょ、じょうだんでしょ、中島さん」

「冗談は好きだけど、こういうときには言わない」

 カウンターにいる客はヒロただ一人。それを見計らっての、中島さんの告白ということになるらしい。

「どうして? どうしてまた?」

 ヒロはひきつるような気持ちになった。またしても自分は、大切なものを失ってしまうのか。

「人間、引き時というものがある、とだけ言っておこう」

「なによ、ひとりでカッコつけないで。客の身にもなってよ中島さん」

「そこでだ」

 中島さんは、ぐっと身を乗り出した。

「折り入って、ヒロに頼みがある」

「なあに」

「この店を居抜きでヒロに渡したい」

「え? なんて言ったの?」

「新しいバーを、ここでヒロに始めてほしい」

「な、中島さん……」

 ヒロはギムレットのグラスをあやうく倒しそうになった。

 中島さんはヒロの事情をすべて知っている。バー『Forest』のこと、ミス・ジャパンのこと、CDの挫折のこと、そして父の奇跡のこと……、それらでヒロが身をすり減らすように消耗したこともすべて知っている。

 その上での提案なのだった。むしろ請願と言ってもいいだろう。自分の半生をぶちこんできた愛する店を渡すのは、この女しかいないと確信しているのだ。

「ヒロ。おまえならできる。それはおれの長いキャリアが認めていることだ」

「……」

「いますぐ返事をくれとは言わない。けれど、決心は時間をかければかけるほどできなくなる。一週間以内ということでどうだろう」

 物静かな語り口だが、中島さんは一歩も引かないという構えに満ちていた。

――あたしは、きっとやることになるだろう。

 ヒロは、そういう予感をおぼえながら、中島さんの目をのぞきこんでいた。

「わかった、中島さん。一週間後にご返事します」

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