第8章 あきらめないということ(5)
手術は成功、父は生還した。
が、医師の言葉どおり、全身不随である。身体は全く動かない。
「いままで自分勝手に生きてきたから、その罰だよ」
長姉は突き放すように言った。
――それはそうかもしれない。自分のやりたいことだけをわがままにやって、妻を泣かせ、子につらい思いをさせてきたことはあったかもしれない。
とヒロも思った。
でも、呼吸をするだけ、心臓が動いているだけの丸太になってベッドに横たえられている父を見ると、
――どうにか、助けられないものか。
そう思わざるをえない。
小指一本でもいい、もういちど自分で動かせるようにしてあげることはできないものか、と。
夜、病院がしいんと寝静まる中、ヒロは絶対安静の父の手を取った。かすかに温かみはあるが、だらりと重いその物体は、とても生き物の手には感じられない。
しかし、その物体をヒロは懸命にマッサージした。むろん、何の反応も見せない。
毎晩、毎晩、欠かさず繰り返した。
手は、物体のままだ。
マッサージを続ける一方、ヒロは大きな紙に大きな字で五十音を書いた紙を用意していた。父が目を覚ましても口が動くとは限らない。その時にこの紙があれば、目の動きで会話ができる。
二週間ほど過ぎた頃、かすかな変化があった。気のせいかもしれない。ピクリと一度だけ、父の小指が反応したのだ。
医師に告げてみると、
「お嬢さん、看病疲れが出ているのでしょう。すこし、休まれたほうが……」
と言う。
「なら、私が休んでいる間は看護士さんにマッサージさせてください。このまま放っておいたら助からないんです。お願いします」
ヒロは、あきらめない。
あれがもし錯覚だとしても、錯覚を事実に変えることがぜったいできないと決まったわけではないのだ。
そして、いま自分がやるべきことは、手をこまねいて回復を祈ることではなくて、ほんの1ミリの可能性であってもそれに賭けてみることなのだ。あたしは一睡もしなくたっていい。
ほんとうにヒロは眠らずにマッサージをつづけた。
手のひらから腕へ、腕から肩へ、肩から背へ胸へ。
奇跡が起きた。
父の顔にあきらかに表情が出てきたのだ。ヒロはすぐに五十音を書いた紙で会話を始めた。
父は最初に『そ・ら・と・ん・だ』と目の動きで訴えた。ずっと意識を失っていた状態を言っているのか。次に『み・ず』と訴えた。人工呼吸器をしていて水などあげられないのをヒロは知っていたが、脱脂綿に水を含ませて父の唇にあてた。父は満足そうな顔をした。水を欲していたのだ。
――お父さんと再び会話ができた。
あきらめずにマッサージを続けたヒロに神様が微笑んでくれたに違いない。
翌日にはかすかだが、起きあがれる気配も見せた。
「学会発表ものだ」
と医師は、仰天した。
「お嬢さんの一念が通じたとしかいいようがありません。医学に携わる者が超能力を認めるわけにはいかないけれど」
とも言った。
小さな栓であっても、いったんそれが抜けると、身体に生命力さえ残っていれば、その穴から快癒の力が噴き出しはじめる。
父は、日に日に運動能力を回復していった。
――「あきらめない」って、どういうことだろう。
ヒロはつくづく思った。
たとえば断崖に生えた木の、一本の枝にぶら下がっているとする。下は地獄の熱湯の池だとする。
力尽きて、枝を離してしまえばまっさかさま。
あきらめない、というのは、ただただ、その枝を握りしめつづけることである。それ以外にはない。
握りしめていれば助かるか、そんな保証はいっさいない。
けれど、握りしめつづけるしかない。
それが「あきらめない」ということだろう。
だから、あきらめてしまって枝から手を離してしまった場合、それは人が枝を見捨てたのではなく、枝が人を見捨てたと言うことだ。
枝を「運命」と言い換えてもいい。
回復の気配を見せた父と、ヒロや母たちとの本格的なリハビリの戦いはそれからが本格的な開始だった。
看護士とぶつかることもあった。
折れるべきは折れ、しかし譲らないところは譲らず、そういうやりとりは母にはできない。すべてヒロが受け持った。
リハビリは、長丁場の戦いとなった。
ヒロの日課はこうである。
午前中に病院へ行く。夕方までリハビリを手伝う。はじめに鉛筆で直線や円を書く練習、それができたら箸を持つ練習、という具合に簡単な動作から徐々に複雑な動作へと移る。へとへとになるが、父を叱咤してやらせなければ、それまでの努力が水の泡になる。ヒロは父とマラソンを併走しているような気分だった。
夕方、家に戻る時間はないから、そのまま車を飛ばしてバー『Forest』へ。そして深夜まで働く。
その間、店が終わるまで母は車の後部シートで毛布にくるまり寝て待っていてくれた。母はヒロが1分でもバーに遅れて出勤することを嫌がって家に立ち寄るのを許してくれなかった。
ある朝、歯を磨こうとして洗面所で目の前がまっくらになった。無意識にタオル掛けのタオルにつかまったが、ずるずるとそのままへたりこんだ。
しばらくして気がつき、起きあがったが、鏡を見て思わず声が出そうになった。目の下に、パンダのような隈ができていた。
明らかに過労である。母には黙っていた。
けれども、もう限界だった。
バー『Forest』は辞めることになる。
「しばらく休養ということで、また帰ってきてほしい」
とマスターは言ってくれた。
「ありがとうございます」
そう答えたが、もう無理だろうと確信していた。
最後の夜、常連のみんながさよならパーティをやってくれた。ヒロは感傷的になる力も残っていなかった。一日でいいから、眠りこけたい、とそればかりを思っていた。




