第8章 あきらめないということ(4)
会社を辞めた父は、いろんな野菜の種を買ってきては次々と庭に植え始めた。本当に家庭菜園をつくるつもりらしい。ともかく、はた目には活き活きしているように見えた。
そういう日々の中だった、父に異変が襲ったのは。
ある朝、起きてきた父が、
「目が痛い」
と言ってヒロに近ずいてきた。
「なんだか、おろし金でこすられたような痛さだ」
と言う。
ヒロが確かめてみると、あっと声がでるほど真っ赤に充血している。
それだけではない、よく見ると顔の左半分がゆがんでいた。ヒロは自分の目を疑い、口には出せなかった。
とにかく眼科に行った。すると、意外なことがわかった。
「目を開けたまま顔を洗っちゃったんだって、自分では閉じてたつもりなのに」
一緒について行った母が言った。
「それで何て言われたの、お父さん」
「顔面麻痺の疑いありだって」
「ガンメンマヒ?」
ヒロは、一瞬その言葉の意味がのみこめなかった。
眼科医の説明ではこうだった。
正確には、抹消性顔面神経麻痺。
顔面神経は、左右の脳幹から内耳道、中耳腔を通って顔面に出る脳神経だ。文字どおり、顔を動かす筋肉へ信号を送る神経。これが麻痺することによって顔の筋肉が麻痺して(ほとんどの場合、片面のみ)動かせないことをいう。
片目だけ閉じられなかったり、口を片方だけすぼめられないなどの症状が出る。
原因としては、ウイルス、とくに風邪のときや口のまわりの水泡や口内炎を起こす単純ヘルペスや、水疱瘡や帯状疱疹を起こすウイルスなどがあげられるが、おおむね、原因不明。
「おそらくストレスがたまっていたのでしょう」
医者は淡々と述べた。
――やはり会社を辞めたのは父にとって大きな心の負担だったのだ。
ヒロの胸がチクリと痛んだ。
眼科医は中央の大きな病院を勧めたが、本人の父がいやがり、結局地元の小さな病院に入った。
父は強がりのくせに、とびきり寂しがり屋なのだ。遠くに一人で入院するのは耐えられなかったにちがいない。
入院しても、屋上へしょっちゅう出る。
屋上からわが家が見えるからだ。双眼鏡で庭の家庭菜園も見える。
父は、そこから携帯電話で母に、
「おい、もう今日あたり、トマトが採りごろだ。採れ」
そう指示したりした。
医者は、三ヶ月もしないで完治する、と言っていた。
ところが、いっこうに快癒しない。どころか、麻痺は進行しているようだった。
容態が急変した。
血圧が一気に下がる。意識は遠のく。ベッドにかけつけたヒロは思わず、息をのんだ。はっきり死相があらわれていたのだ。
かすれそうな声で父は、
「俺はもう死ぬから」
と何度も言った。
冗談じゃない、こんなことでお父さんを死なせてたまるか。ヒロは父に言った。
「何が何でも死なせない、あたしが必ず治してみせる」
すぐに大きな病院へ移す。
原因は解明された。地元の小さな個人病院の処置ミスである。神経ブロック注射から雑菌が混入した疑いがある。
即刻、ICU(集中治療室)に運ばれた。呼吸・循環・代謝その他の重篤な急性機能不全の患者の容態を二十四時間体制で管理・治療するこの施設に入ったということが、父の容態の深刻さを語っていた。
担当の医師の診断は厳しいものだった。
「ここ一両日がヤマです。はっきり申し上げて、三日持つかどうかの瀬戸際まできています」
手術に賭ける方法はある。だが、さいわい生命をとりとめても、全身不随を免れることはむずかしいと言わざるをえない。医師はそう宣告した。
母が茫然自失に青ざめている横で、ヒロは、
「先生、手術をお願いします」
ときっぱりと言った。
指一本すら動かなくたっていい、一言もしゃべれず、笑えず、ただ丸太のように転がっているだけだっていい。父のいのちがつづいてほしい。ヒロは強く思った。
そのこころが医師を打ったようだった。手術は決行となる。そうなれば、一刻を争う。
その日のうちにメスが入った。八時間に及ぶ大手術となった。




