第8章 あきらめないということ(2)
しかし、それからのヒロのデビュープロモーションは順風とはいかなかった。
父も母も、懸命に応援してくれた。
母は、親戚はもちろんのこと、思いつく知人のすべてに連絡をして、ヒロのCDの宣伝をする。
父はさらに熱が入っていた。大きなボストンバッグを持ち、肩からショルダーバッグも提げて、しょっちゅう出かける。
いったい、どこへ行くんだろうとヒロはふしぎだったが、あるとき、へとへとの顔で帰ってきた父が風呂へ入っているすきに、そのボストンバッグとショルダーバッグの中身を見て、驚いた。
中には、いったい何枚だろう、ヒロのCDが詰まっていた。知人を訪ねているのか、レコード店をまわっているのか、まるで行商である。ヒロは風呂場へ向かって頭を下げた。
しかし、そうした応援の甲斐もなく、売れ行きはさんざんだった。
事務所の力不足もあった。大々的なキャンペーンでもやれば、どこかで火がつくのだが、それをやれる資力がない。
そのかわり、徹底したドサまわりとなった。
マッちゃんは、バー『Forest』でのデビューイベントのときに宣言したように、ヒロの地方プロモーションには仕事を放り出してほとんど随行した。私設マネージャーである。メカに強いマッちゃんは機材を手際よくセッティングしてくれ、事務所のメンバーよりもはるかに心強かった。
小さな町の祭礼に行った。
小さな村の花火大会にも行った。
小さな遊園地の五周年記念イベントにも行った。
地方都市のデパートの屋上で、無名お笑い芸人との抱き合わせイベントにも行った。
なつかしい、会津の町へも行った。ヒロの家族が住んでいた家の跡地は十字路になっていた。そのまんなかに立って、事務所の女の子が、
「ここが、星野ヒロの生まれ育った場所でーす」
とあいさつし、通りかかる人にビラを配った。
舞台の上からは近所のおじさんや、おばさん、小学校時代の友達がたくさん見えた。十数年振りに見る皆の顔は年相応に変わっていたが、かつて盆踊りで歌った頃と同じように、「ヒロちゃん、頑張ってー」と熱心に声援を送ってくれた。改めて会津の人々の温かさが心に染みた。
ほんとうに、どれほどドサ回りを重ねたことだろう。そのどれひとつも、実ることはなかった。
あるとき、地元の市会議員が自分の後援会の主婦達を紹介してくれた。会長宅へ招待されたヒロは、緊張して食事も喉を通らない中、突然お披露目パーティーと題して歌うことになった。今日は事務所のマネージャーもマッちゃんもいない。まごついていると、会長夫人が買ってくれたCDを誰かがデッキで流してくれた。CDとマイクの音の大きさが合わないまま、並み居る奥様方を前にして、ヒロは緊張しながら歌った。
きわめつけといえば、福島のホテルだった。
事務所から依頼したのだろう、支配人から、「プロモーションに来てもいいよ」の返事があって、ヒロは大勢の人にアピールするチャンスがきたと喜んで出かけていった。
支配人は、
「部屋を回っていいよ」
と言う。それがプロモーションだった。宿泊している部屋をひと部屋ひと部屋、しらみつぶしに全て回った。その日は母と次女の妃鶴も応援に来てくれた。もちろん私設マネージャーのマッちゃんも一緒だ。皆で正座して挨拶をする。宿泊客達の反応は芳しくなかった。当然だろう。ホテルに着いて夕食前のひと休みの時間にいきなり部屋に入って来られるのだから。困惑するか明らかに迷惑そうな顔をするかのどちらかだった。もちろん歌を聞かせるチャンスなど無い。ただひとつだけ、「ミスジャパン星野ヒロCDデビューイベント」と書かれた垂れ幕の下に長テーブルとパイプ椅子がホテルの入り口に設置されていたので、CDの販売とサイン会だけはできた。
卑屈とは思わなかったが、疲労感が強く漂う。
「あたし、やっぱりだめかなあ……」
福島からの帰りの列車で、ヒロはマッちゃんにぽつりともらした。
「そんなことない、女神が気の弱いこと言うもんじゃない」
マッちゃんはそう言ってくれたが、そのマッちゃんもうすうすそう感じていたにちがいない。
「だから演歌をやりなさいって何度も言っているでしょ。おまえは小さいときから演歌がとびきりうまかったんだから」
ここぞとばかりに母親がまくしたてた。「またはじまったか」と、となりで妃鶴は苦笑している。
母は、この世でいちばん貴い音楽は演歌だと思っているふしがある。ヒロが中学生のとき、こんなことがあった。
部活の朝練をしていると校内放送がある。
「二年D組の星野ヒロさん、職員室に至急来てください。お母さんから電話が入っています」
ヒロはあわてて職員室へ行って受話器を受け取った。
教師たちは、いったい何事が起きたかと興味しんしんでヒロを見つめている。
「もしもし、ヒロだけど……」
ヒロ自身も胸騒ぎでドキドキしながら言った。すると、なんと母は泣いている。
「ど、どうしたの! お母さん!」
母は涙声でこう言ったのだ。
「美空ひばりが死んじゃったよう、さっき」
テレビの臨時ニュースで知ったらしい。
「ヒロ、もう美空ひばりはこの世にいないんだよう、あとはおまえががんばれ、いいね、じゃあね」
涙声でそれを伝えるために職員室に緊急電話をかけてきたわけだ。電話を切ってから教師たちが、
「どうした星野?」
と聞いてきたが、
「いえ、親戚の人がちょっと病気とか……」
と言って逃げるしかなかった。
そういう母が、ヒロに演歌を歌ってもらいたがっているのは、よくわかっていた。
「でもね、あたしはダメなの、演歌は。子供の頃は素直に歌えたんだけど……」
演歌は人の情念をストレートに歌いすぎるところがある。自分がそれをやったら壊れてしまいそうな気がするのだ。あたしはそんなにタフじゃない。
「うん、わかるわかる」
マッちゃんはしきりにうなずいてくれた。
結局、刀折れ矢尽きるといった感じで、ヒロは二枚目のCDを断念した。それは、事実上、歌手からの撤退を意味していた。
ふと、映画監督と「交際次第で」というあの条件に従っていたらどうだったのだろうと、思うこともあった。けれども、
――だめ、ぜったいそれは嫌だ。
それが、いつも結論だった。
どんなことをしても世に出る、手段を選り好みしているうちはプロじゃない、きれいごとを言うのは甘いんだ。
そういう意見もあるだろう。
――でも。
とヒロは思う。私は、表現がしたいのだ。自分の全体を投げ込んでの表現を。
有名になりたいだけだったら、どんなことをしてもやるという考えになるけれど、そうじゃないんだ。すくなくともそれだけじゃないんだ。
じれったいながら、ヒロは自分の気持ちをのぞきこんで、そういう気持ちを確かめた。
――でも、あんなに応援してくれたのに。
ヒロは思った。
父がずっしりCDの入ったボストンバッグとショルダーバッグを持ってへとへとになって出かけていた姿がありありと目に浮かぶ。
――お父さん、ごめん。ほんとにごめん。
両親の捨て身の応援に報えなかったという事実が、ヒロの気持ちを急激に落下させた。口もきけなくなった。