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第8章 あきらめないということ(1)

 ボイストレーニングに通うようになって、一年半が過ぎた。

 ヒロは苦痛になり始めていた。トレーニングが辛くて、というのではない。「夢疲れ」とでもいえばよいか。

 目標をもって、張りつめてがんばるということは、いつも自分のテンションを高めつづけていることだ。そのテンションで身体の疲れを押さえつける。しかし、先は見えない。

 それは、霧の中で、ぎゅっと拳を握りしめているようなものだ。次第に握力がなくなってくる。

 それでも練習中は常に一生懸命だった。トレーナーとマンツーマンのレッスンルーム。ボーカルブースの中で、ヒロは練習用に手渡された歌詞の意味を考え、感情を込めて歌ったが、

「歌に心が入ってねーんだよ」

 トレーナーの容赦ない声がヘッドフォン越しに響いた。

――心を込めて歌っているのに……。

 何でこの気持ちが伝わらないの? どう歌えばいいんだよ。

 それなら、と半ばやけ気味になったヒロは、今度は心を込めずに歌ってみた。カモを失ったあの頃の気持ち、心をなくした人間の歌声だ。

 すると「オーケー、やれば出来るじゃないか」と思い掛けなく褒められた。心を込めれば怒鳴られて、心のないものが評価される。何が正しいのかわからなくなり、ヒロの頭は混乱した。

――このまま、挫折かもしれない。

 と、ふと気弱になる日が増え、そういう気分を振り払う力そのものが弱まっていった。

 が、何かが降ってくるときは思いがけないものだ。

 ある日、ボイストレーニングを終え、ミネラルウォーターを飲んでいるヒロの横に、先生がすっと立つ。

「ヒロ、そろそろ、いいか」

 そう言った。何がそろそろなのか、何がいいのか、ヒロにはわからない。ひょっとすると、もうこのへんであきらめろと、そういう最後通牒か、ひやりとした。

「そろそろ?」

 おそるおそる聞く。

「いってみよう」

 先生は言う。

「どこへ?」

「出すんだよ、CDを。いやか?」

 ヒロは一瞬、耳を疑う。いま、シーディー、と確かに言ったよね、聞きまちがいじゃないよね。頭の中に、CとDのアルファベットがくるくるまわる。

「ほんとですか!」

「ああ、そろそろいける。曲を用意しよう」

 先生はさりげなく言った。



 曲が上がってきた。

『スターティング・ラブ』『ゴッド』という二曲とも英語のタイトル。タイトルチューンの『スターティング・ラブ』は、エレガントなポップスで優しげな曲調。カップリングの『ゴッド』はアップテンポのサンバ調でノリのいい曲だ。

 ちょっとインパクトが足りないかな、とヒロはちらりと思ったが不安も不満もない。なんといっても、CDデビューなのだ。とうとうきたか、という高揚感があふれた。

 バー『Forest』でデビューイベントが開かれた。

 中心になって企画したのは、マッちゃんである。

 マッちゃんは、バー『Forest』の常連だ。しかし、あのマッちゃんがまさかこんなふうに積極的な男になろうとは、ヒロもマスターも常連たちもはじめは想像もしていなかった。

 いつも、どんよりした影のように店にあらわれ、カウンターの隅にこそこそと腰かける。

 常連たちが交わす会話には入っていかない。

 ときおりだれかが気をつかって、

「ねえ、そう思わない? 松本さん」

 と、せっかく振っても、

「ちょっと、分かりません……」

 小声で言って、そよそよと首を振るばかり。そして、相手があきらめると、背を丸めて薄い水割りを少しずつ飲む。

 勘定を済ませるときも、もぞもぞと景気が悪い。マッちゃんが帰ったあとは、

「ありゃあ、ほんとに暗いね」

「もしかしたら、モグラの生まれ変わりじゃねえの」

 などとみんなが言い合う。

 けれどもそういうマッちゃんをヒロは敬遠しなかった。どの客とも同じように接し、

「どうしたの、マッちゃん、不精ヒゲなんか生やしちゃってさ」

 とか、

「マッちゃん、ごはんちゃんと食べてる?」

 などと、あっけらかんと話しかけた。

 そのうちに、変化が訪れたのである。マッちゃんが、カウンターにうつむいてばかりいなくなった。

 ヒロに、仕事のことをぽつりぽつりと話すようになった。

 ずっとあとになってからだが、マッちゃん自身がヒロにこう打ち明けたことがあった。

「ヒロちゃんがあんなふうに声をかけてくれなかったら、おれはもうとっくにドツボにはまっていたよ」

「あら、どうして?」

「人が怖くてしかたなかったのさ。きっとみんなおれのことをみっともないと思っているにちがいないってね」

「ばかねえ」

「ほんとうにふしぎだ。ヒロちゃんは女神だと思う」

「よしてよ」

「おれのからだの外側にあった、ごわごわの皮をみんなヒロちゃんがむいてくれた。ああいうことは、女神じゃなきゃできない」

 本心でマッちゃんはそう思っていたらしい。

 小さな金融会社の事務だとか、運転代行など、つぎつぎ転職を重ねていたマッちゃんだが、「ごわごわの皮」を破ってもらってから、運が向いてきた。コンピュータのソフト関係の仕事に就き、うまくはまって、トントン拍子、なんといまは三人だけの会社とは言え、有限会社の社長という名刺を持っている。

 そういうマッちゃんだもの、女神のヒロちゃんがCDデビューをしたとなったら黙っているはずもない。

 そして、バー『Forest』でのデビューイベントを企画したのだ。

 当日、バー『Forest』には、よくもまあこんなに人が入れるものだというぐらい人が集まった。椅子はじゃまだから、全員が立ったままだ。カウンターの中までぎっしり。東京からも所属事務所の社長とスタッフが駆けつけて挨拶をした。

 クライマックスにヒロがCDの二曲を歌うと、マッちゃんは目を真っ赤にして、

「おめでとう、おめでとう、きみは大歌手だ。おれはきみのためにとことん働くよ」

 と声をふるわせた。

「マッちゃん、鼻かみなよ」

 ヒロはマイクを置いて、マッチャンの肩をそっとたたいた。

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