第7章 駆け上がる階段(4)
バー『Forest』の仕事はそのままつづけた。
実はミスジャパンになりたての頃、一度やめようと思ったことがある。二足のわらじはとても無理だと思ったのだ。両者のあまりのギャップに戸惑ってもいた。
「バーはやめようと思う」
母に相談したら、意外な答えが返ってきた。
「だめよ、ここでやめたら天狗になる。夜の仕事だって誇りをもってやりなさい」
へえ、とヒロは思った。そういう考えもあるんだ。
その母の意見に従って、昼はミス・ジャパン、夜は世を忍ぶ仮の姿としてバーのカウンターに立ちつづけた。
カクテルの技では、すっかりプロになっていた。
そうした中、芸能界の大手プロダクションからオファーがくる。
――やったね、ついに来たね。
ヒロは有頂天。一歩一歩、階段を登ってきた。そして来るべきものが来たという実感があった。
けれども、そこへすんなり進んだわけではない。
その大手プロダクションと時期を同じくして、もうすこし規模の小さいプロダクションからもオファーがあったのだ。
母方の伯母が理髪店をしていたのだが、その理髪店の客の一人にプロダクションの経営者がいた。
彼がヒロを訪ねてきて、熱心に誘った。
大手プロダクションのプロデューサーの場合は、いかにも仕立てのいいスーツに、ブランド物のセカンドバッグといういでたちだったが、理髪店の客のほうはといえば、かなりくたびれたスーツに、なんと背中にデイパックを背負うという格好なのだ。
でも、ヒロは次第にその人の誘いのほうに耳を傾けていく。伯母との関係もあったが、なによりその人に誠意を感じたのだ。
そして、いよいよ芸能界へ。
ついにここまできたか、という高揚感があった。が、張りつめてきた心、そしてそれを支える身体に、気づかぬうちに疲労が堆積していることにはヒロは気づかなかった。
気づくはずもない。なにしろ、無我夢中だ。疲労の代謝が追いつかなくなっていることなど、察知できようはずがない。
世話になることになったプロダクションの社長から、
「女優か歌手か、きみの志望を選びなさい」
と言われた。
ヒロは、即座に、
「女優」
と答えた。
すると、まもなく、幾人もの監督に面通しとなった。
――えっ、あの有名な!
というプロデューサーも多くいた。
「来月からの高視聴率ドラマに起用」
などというおいしい話もちらついた。
が、そこには「交際次第で」という条件もつく。要するに、プロデューサーと深く親しくなれば道が開けてくるということだ。
――それでいいのなら……
ヒロは心が揺れに揺れたが、踏み切れなかった。
そして、「女優」をいったん封印し、「歌手」の道を選ぶと社長に告げた。
それは、思いがけない試練の道となった。
基礎のボイストレーニングから始めることになる。子どものときに、夏祭りなどで舞台に立ち、カラオケで歌って拍手を受けたのとはわけがちがう。
そこそこにうまいというくらいでは、とうていプロになれない。
プロは、「うまい」のはあたりまえ、そのうえに「すごい」を身につけなければ成り立たない。
それを思い知らされた。
青山のスタジオで行われた週に2回のハードなボイストレーニングに欠かさず通ったが、上達しない。壁が破れない。平凡な歌唱力のままだ。中途半端にカラオケが上手かったせいで、自分の癖がなかなか直らなかったのだ。
前途が暗澹としてきた。
ミス・ジャパンということで安住していれば安住できる気もするのだが、それはできそうにない。
――あれは、もうすんだこと。
と、自分の中から、その栄光を追い出そうと努力した。
その肩書に寄り掛からず、できれば、周りには隠したまま、ワンステップ上を目指していこうと覚悟した。
ボイストレーニングのない日は、カラオケボックスでアルバイトをした。正午から夕方の五時まで。そこは一人で店番をするので、いつでも練習できる。部屋の掃除をしながら、懸命に、たった一人のカラオケボックスで歌った。
もちろん、夜はバー『Forest』のカウンターに立つ。
疲労は、いっそう堆積した。
トレーニングの帰りに東京駅から出る最終バスで、窓に映る自分の顔がいつ見ても泣き顔だった。
――なに泣いてんだよ、いまさら。
ヒロはその窓にぼそぼそ話しかけていた。