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無名にて終了。  作者: 一課八太朗
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生い立ちと青春時代

ボクの自叙伝をベースに芸人時代を絡めて小説にしてみました。


マスコミ及び出版関係者の皆さま、無料での宣伝及び出版依頼お待ちしております。(笑)

第1話 生い立ちと青春時代




ボクは千葉県に生まれた。




両親共に教師だったので、赤ん坊だったボクの事を末は博士か大臣かなどと壮大な事を期待してくれていたに違いない。




それはたまたま父親が飲み屋で出くわした手相占い師に見てもらった所、




「お宅のお子さんは〇〇首相と同じ位有名になりますよ!」




と、当時の首相を名指しして断言されたらしい。




そのためか姓名判断の本を10冊位買って1ヶ月位かけて考えに考え抜いて命名してくれたそうである。




ただひとつの難点は女難の相があるとの事だった。




大して気にしてなかったのだが、あとで嫌というほど思い知らされる事になるとは…(笑)




だから間違ってもお笑い芸人になるとは親は夢にも思わなかったであろう。




なんたって子供の頃のボクは人前で何かをする事が大嫌いだった。





若干お調子者だったかもしれないが、人前に立つとすぐアガるし、何より赤面症を指摘されるのが物凄くイヤだった。




あくまでもコソコソと少しふざけるのが関の山だった。その際何を言って笑わせようかと考えるのが好きだった。





何を話してたかは全く覚えてないけど。





しかし今にして思えば家庭内において芸人育成的な兆候はあった。




昔はお風呂が今みたいに自動ではなくガスを手動で回して、いい湯加減で止めるのが相場だった。




なので止めるのを忘れてたりすると、あっという間に熱湯風呂が出来上がる。




一番風呂にこだわってた父親が入ろうとしたら熱湯風呂だったので、先に入れと命じられ熱湯に入った事がある。




当然ただひたすら熱かったので水で湯船を冷ました。




子供の頃は芸人志望ではなかったが、なぜか『これでは芸人にはなれない』と思った記憶がある。




あと子供の頃、間違って口に入れてた百円玉を飲み込んでしまった事がある。




その時の恐怖感たるや想像を絶するが、きっちり排便したことにより出てきた。




これがお腹の中で10円玉に両替出来れば人間ポンプおじさんならぬ、人間ポンプ両替人間としてテレビに出演できたかもしれない、30年前だったら…




…ってその排便の様子を大体どうやって放送するんだよ!(笑)






兄弟は姉が一人いるんだけどボクと違って成績優秀、運動神経バツグン、なおかつ人に与える影響力があり、美人!




片やボクはいつも居残り勉強、運動神経ゼロ、人畜無害、ブサイク!




と、全くもって対称的だった。





どうしてこうも違うのかと、幼心に




『人類は皆平等ではないのか?』




というテーマについて深く考え混んでしまった。




そんなだったから学校もあまり好きではなかった。




朝礼で気持ち悪くなって倒れるタイプで、ひどい時は吐いちゃった。




ある時なんかクラス毎に行進して教室帰る時にゲボゲボ吐いちゃってどのルートで教室戻ったか一目瞭然だった。




特別体が弱かった訳じゃないんだけど運動も苦手だった。




やたら小学生の時は体力作りとやらで走る事が多かった。




しかしいくら走っても速くはならず、努力してどうにかなるようなシロモノではなかった。




だからマラソン大会だの運動会なんてイベントは、ただひたすら苦痛なだけで終始冷めっぱなしだった。




どうせ運動神経いい奴らの御披露目会みたいなもんで、元々異性にモテモテの奴らのダメ押し大会みたいなもんだと思ってた。(笑)




そんなボクが少しだけハマったスポーツはソフトボールだった。




動機は単純で振ったバットがボールに当たって気持ち良かったから。




カキーン!!




ウチの町内にはチームが無かったから、他の地区のソフトボール大会に参加してたんだけど補欠要員だった。




当然不満だったけど足が遅かったので諦めるしかなかった。




それでも当時はプロ野球を見るのは好きだった。





親の勧めもあって剣道も1、2年やってた。




剣道は防具をつけてても、下手なのと稽古するとモロ竹刀が防具をつけてない所に入る。




腰なんか打撲だらけになるし、自分よりも背の高い人に面を打たれると頭が痛い。




稽古中に頭きて仕返しでバコバコ竹刀で叩いてたら先生に怒られた。




「そんなに強く叩くんじゃないよ!」




それで相手には「大丈夫か?」だって。




逆だったら何も言わないクセに。




そんな不条理ばっかりだった。





結局先生が大人の事情により外国に行ってしまうとの事で道場自体が閉まってしまった。





内心ホッとした。





何が楽しくて叩かれなきゃいけないんだと思っていたから。





おまけにこの道場には、父子家庭で家に冷蔵庫が無い月謝を滞納している先輩がいた。





この先輩からちょくちょく小銭をせびられた。





それを見かねたウチの親から交遊禁止令が出ていた。





道場が閉まればあんまり顔を合わせなくて済むと思った。





中学生になる少し前、部活動に入るように勧められた。




必修ではないものの入るのが普通だといった風潮があったからだ。




それは一説によると帰宅部は不良になりやすいという見解もあったようだ。




ウチの父親が毎晩聞いてきた。




「何部に入る事にしたんだっけ?」


「まだはっきり決まってないよ。」


「まあお前辺りはテニス部がいいんじゃないか?」


「そうだね。」



と、曖昧な返事を繰り返していた。




自分的には野球部か剣道部も気になっていた。




しかしなぜか両部共に丸坊主にする決まりになっていた。




あとウチの父親いわく『野球部は不良が多い』という、ほぼ偏見に近いアドバイスや、以前剣道の道場に通ってた時、父子家庭で家に冷蔵庫が無くて月謝の払えない先輩にジュース代をせびられたし、このバカが剣道部に入部しているという情報を入手していた。





「野球部も剣道部も坊主にしなきゃならないし、練習も厳しそうだからテニス部に入るよ。」




と、自分で決めた事にした。





というわけでめでたく義務教育第2弾の中学校に入学した。





大体が小学校からの持ち上がりで約1クラス分位は川向こうからの入学で、小学校時代7クラスだったのが、中学校からは8クラスになった。





まあ中学生からは制服などを着る事になってなんとなく大人の仲間入りみたいな感じがした。




おまけにまあまあ真面目なクラスに配属されて若干肌の毛並みが違う気がした。





早速部活云々の話になった。





ウチの中学校のテニス部は毎年入部志願者が多かった。




本当にテニスが好きな者かスポーツは苦手だけど何か入ってないと格好つかないからとりあえずテニス部って者に分かれる。




ボクは当然後者だった。




入ってみてわかった事だが、運動部の中で一番楽なのが他ならぬテニス部だった。




そのためか他の運動部からは




「テニス部は楽でいいよな〜。」

「あんなの部活じゃないよ。」

「遊んでるだけじゃん。」




などと誹謗中傷された。




自分の意思で他の部活に入ったくせに被害者ヅラである。




始末が悪い。




そんな事も手伝ってか退部や転部する者も多かった。




最初に入部した人数の半分位しか残らないのが毎年の相場だった。




それに加えて唯一このテニス部だけが他の中学校と揉めた事があった。




この中学校は以前ウチの父親が赴任していた所で地元では『悪の巣窟』との異名を持った、選ばれし不良のエリートでお馴染みだった。






テニス部の大会の際にラケットを折った折られたで、その中学校の番長がオヤジ狩りならぬ、テニス部狩りをしているというのである。




というのはラケットを持って下校しているとその番長が近づいて来て、



「お前テニス部か?」


「そうだよ。」




なんて答えたら情け容赦無く殴られるとのもっぱらの噂であった。





幸いボクの前にその番長が現れるという事は一度も無かったが、若干校内では不穏な空気が流れ、血の気の多いガラの悪い連中はやたら漢字の書いてある鉄の棒などを自宅から持ち出して





「来たらぶっ殺す!!」





などとイキがっていた。






一応自分も構成員ならぬ、テニス部員なので抗争に行くつもりでいたが、当たり前のようだが父親は止めた。




「もうそんな時代じゃねえよ。」




そんな時代遅れの抗争事件になりかけたものの神様からの贈り物か、はたまたイタズラかしらないが抗争当日ものもらいができてしまい不参加となった。






そして誰もこの件に関して語る事なく、なぜか抗争自体が消滅してしまい、テニス部狩り自体が元から何も無かったように静かに終焉を迎えるのであった。





文武両道とはよく言ったもので当然部活動などの運動も大事だけど、勉強も中学からは親が厳しくなり始めた。





小学生の頃は単元毎のテスト結果なんて親に見せた記憶なんて無かったが、中学の中間期末テストの結果は親に見せなければならなかった。





中1の1学期は全体の平均位の成績だった。通信簿はオール3で可もなく不可もなく何の特徴も面白みも無い成績だった。






しかしこれは親が許さなかった。





地元の高校に入るには全然偏差値が足りなかったからだ。





当然ハッパがかけられた。





「行く高校によって人生が決まる。良い高校に入れば良い大学に入って良い会社に入れる。そうすれば一生幸せな生活が送れる。」






これは日本の景気が良かった頃の話である。




このような幻想はボクの世代もだが、少し上の世代も同じような事を言われ続けてきたと思う、多分。





これがまさか就職する頃不景気で職自体が少なくなるなんて誰も思っていない時代だから、ウチの親も人並みに心配してくれた。





やるだけ努力はした。






夏も冬も昼も夜も関係無く勉強!勉強!勉強!





ある程度の伸びシロで上位には食い込めた。





しかし地元の進学校は偏差値が最低60無いとダメだった。





当時のボクはたまに60超えがあったものの57、58、59辺りをウロウロしていたため、ウチの親は歯がゆい思いを隠し切れなかった。






「もう少しなんだが詰が甘い。これでは合格の安全圏に入っているとは言えない。この成績では必ず落ちる!!頑張れ!」





などとハッパをかけられた。





しかし苦手な国語、数学の成績が伸びなかったため常時60超えはボクには無理だった。






担任の先生もやんわりと進路変更を勧めてきた。






中3の2学期でこの成績だったので合格確実な高校を選んで欲しいと思ったのであろう。






しかしウチの親はそれを認めようとはしなかった。






ギリギリまで志望校の変更ができる事を知っていたからだ。






担任の先生とウチの親との間に立ちはだかる大きな壁との板挟みを15歳にして嫌という程味わった。






そんな思いを知ってか知らずかウチの家庭だけ三者面談の時期ではないのに特別に行われた。





特例の三者面談なんてよっぽどの不良とか問題児位しかいないんじゃないの?





いずれにしても訳ありパターンの場合しか時期外れに面談なんてしないと思う。





もう目一杯のボクと担任と母親で三者面談。





長い沈黙が続く面談だった。





この頃になると自分的には早く結論が欲しかったと同時に、もうどうにでもしてくれというある種自暴自棄に近いものがあった。





結局公立高校は受験せずに週休2日制で修学旅行が海外という、ゆとり教育を絵に書いたような私立高校に行く事になった。





今にして思えば学費の高い私立高校なんてもったいないと思うが…





しかし一応平穏に私立高校に行く事に決まった。





その高校は全てが目新しく、新鮮だった。





男子女子に関わらず今までと人種が違うかのような人々との接触を肌で感じた。





しかしその高校は私立高校であり、本来であれば公立高校のスベリ止めで受験した者が大半であった。





地元の中学校から進学した連中は大半が第一志望の公立高校に落ちての入学だった。





当然そこには失意と落胆といった表情と発言が満ち溢れていた。





「志望校に受かっていればなあ〜。」


「学校つまんねえ。」


「やめてえよ。」





といった マイナス表現ばかりがボクの周囲を取り巻いていた。





しかしボクは親の庇護と考慮もあり、そういった挫折感からは程遠い位置にいた。





まあわかるけど仕方ないっしょ!結果が結果なんだから!





毎日表情にはおくびにも出さずに、平然と通学していた。





通学途中で友人が『帰ろうぜ』などと言っても笑ってごまかした。





学校に行ったら行ったでそんな少数派の意見も大人数のうねりに飲み込まれる。





そうすればどうって事は無いのだ。





まあ帰った事もあるけどね。(笑)




そんなつまらない事に悩まされるよりも、新しい友人たちといかに楽しく過ごしていくかを考える事が賢明だ。




そんでもつまんなかったけどね。(笑)





まあ色んな地区から来ている友人達からの、ほぼハッタリ半分な中学時代の悪行を聞く方が目新しくて新鮮だった。




へ〜!そうかい、そうかいと相槌をうった。





というのもボクの中学生時代の同級生はマジメで素行不良も無く先生方からすれば全く手のかからない絵に書いたような良い子ばかりだったそうだ。






あくまで先生方いわくの話で、そうだったらしい。(笑)




まあ軒並み普通でしょう。





なので他の中学から来た友人の数々の悪行を聞く事は、多感な高校生の何かを刺激した。





よってなんとなく今まで自分のしてきた事が、ダサくて白々しくてデタラメ臭くて蓋をして隠してしまいたいような衝動に駆られるのであった。





今思えばなんでだったんだろう??





女子も明るくて垢抜けてて輝いて見えた。もちろん全ての女子ではないものの半数以上が可愛げのある大人びた女性達に見えた。(褒めすぎかな?笑)





人間性に強く女性を感じる者が多かった。(制服マジックかな?笑)






ザ・女子!





中学時代は体は違えど男子も女子も中身は一緒位の感覚だった。





しかし今度はハッキリと男は男!女は女!と見せつけられた感じがした。





それも否応なしに多感な時期のボクには軽い劣等感を覚えた。






それに黄色い声援で「〜ちゃん」だの愛称で呼ぶんだもん、ボクちゃんの事を。(笑)





そんなザ・女子!に好感が持てた。






ボクはバカである。(爆)





しかし多感で不安定な自分が夏休み明けには不登校気味になった。






気味なだけで不登校ではない。





ただ遅刻、早退、欠席を進級するのに支障のない範囲で計算して、しただけ。






なんとなく億劫で行くのがしんどい。





思春期によくあるやつで、誰にでもあるでしょ?





地元の友人たちと意見が合いそうなもんだが、なぜかその間にも大きな溝を感じてしまった。





そんな気分のままずっと通ってたら世の中が終わってしまうような感じがしていた。





きっと何かがおかしくなっている、地球が滅亡してしまうに違いない、などと思ってたらインフルエンザにかかっていた。






それも無意識に、いつのまにやら高熱の42度3分という記録的な数字を叩き出していた。





もちろん即入院で検尿で尿瓶に出した尿は見事コーラと同じ色だった。






そんな死ぬか生きるかの瀬戸際にウチの父親ときたら病室で能天気に英単語覚えネタをベラベラと大声で話していた。





病院中に聞こえていて他の患者さんからクレームが来た。





正直全て終わったと思った。





たった16年で人生が終了してしまうという気持ちが全神経をまっとうしていた。





しかし生死の境をさ迷ったものの、入院してわずか4日間でほとんど元通りになった。





退院してからもほとんど代わり映えしない日々が続いた。







高校はゴルフ部に入った。




色々誘われたんだけどキャディーさんのバイトが出来るっていうし、仲の良い友達が入ってたからね。




そしたらそのバイトの資格を得るのに申請が必要だったみたいで許可が降りるのになぜか2年位かかった。





許可降りた頃には立派な幽霊部員になっていた。(笑)





結果キャディーさんのバイトは一回も行ってない。





通常の部活動は打ちっぱなしゴルフ場でひたすら玉を打つだけ。




ホールは一切回らない。




だからゴルフ部だけどゴルフのルールはあんまり知らない。





知ってるのは少ない打数でボールを穴に入れた人が勝ちという最低限のルールと、紳士のスポーツであるという事だけ。





中学時代のテニスも練習は乱打ばっかりだったからあんまりルール知らない。





知ってるのは2回下手打つと相手のポイントになるのとコートの枠の中に打つというルール位かな。





プロを目指していたわけじゃないからさ、テニスもゴルフも。





ほとんどポーズに近いよね。







あと高校時代のイベントといえば修学旅行だ。




せっかく行き先が海外でニュージーランドだったのに、また大風邪を引いてしまい当日になって入院してしまった。






親に申し訳ない思いで病院のベッドで寝ていた。






ちょうど退院する頃になって修学旅行が終わり、初めて海外へ行って来た友人のワクワク感や海外かぶれしてきた話を聞いて雰囲気をお裾分けしてもらうしかなかった。





嬉しかったのはこんな自分でも忘れずに海外のお土産をたくさん友人が買って来てくれた事だった。




その後、家族で父親の故郷宮崎に行った際にお土産のボールペンを渡して歩いた。






なんだかんだで高校3年生になってしまい進路の話もチラホラ出始めた。







ウチの高校は進学がメインの高校であったため、何としても大学に行くのが当たり前といった風潮があった。






確かに大学に行くのも悪くはないなと思ってはいたのだが、中学時代から芸能界に憧れを抱いていた。






小学生の頃は人前で何かをするのがキライだったけど、成長するにつれ人目を引くことが快感でたまらなくなっていた。






恐らく今までの詰め込み教育の延長線上で心身ともに気力が充実していたのだと思う。







それと中学時代に友人がラジオの話をしてきたので聞いていたら、意外にハマってしまい高校でも同じ番組を聞いてる友人がゴルフ部にいたのでゴルフ部に入ってしまった位だ。







そしてさらに不登校気味になった頃、たまたま父親がつけたお笑いのネタ番組で毒舌がウリの漫才師がチャンピオンになった時のネタが衝撃的だった。






全身に心地良いショックが走ったのを今でも覚えている。






それは新鮮かつ強烈で一人の落ちこぼれた高校生を救う事など容易く、そればかりか人生の道しるべとなってしまったのだ。





もうそれ以外の事は考えられなくなっていた。





『高校さえ卒業すればいいよ。』という父親の甘い言葉を、この頃は全て鵜呑みにしていた。






高校を出れば好きな事がやれる!憧れのお笑い芸人になって世間をアッと言わせてこの世に名を轟かせてやるのだ!





と、バカみたいに意気込んでいた。






それが全てのエネルギーの源であり、これがあったからこそ高校を卒業できたようなもんだ。







しかし周囲は全て大学に行くのがこの世の常と言わんばかりに受験勉強に命をかけていた。








確かに大学に行く口実で上京できれば何らかの足がかりができるかもしれない、などと淡い期待もあった。







だからとりあえず自分も東京に行きたい一心で猛勉強するのであった。








中学時代もそうであったが、自ずと自分の学力レベルというものが残酷なまでに現実という形で見せつけられた。








ほとんどどこの大学も受かるレベルには達していなかった。







この結果を鑑みてウチの親も諦めるかと思われた。







なので兼ねてから行きたいと思っていた専門学校の資料を取り寄せてアピール作戦に打って出たものの、ウチの親の心には少しも響かないのであった。








今みたいな少子化で大学全入の時代ではないので、結果5校受験して全て不合格。








桜も散りすぎて昭和枯れすすきになってしまった。







それでも挫けずに専門学校アピールしてみたものの、ウンともスンとも響かずに半強制的に父親の勧めで地元近くの短大の二次募集を受ける事になり、4月からそこへの進学が決まってしまった。






なんだか騙された気分だった。






結局勝手に自立できると思い込んでいた18歳の春は桜吹雪の竜巻となって、自分の頭や内臓をえらくかきむしられる衝動に耐える他なかった。























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