第1話
寺坂吉右衛門は、石畳に積もった枯れ葉を箒で丁寧に払うと、久しぶりにスッキリと晴れた空を見上げた。
あの事件から、もう何年経ったか。
志を同じくした者はみんな死んだ。
寺坂は、あのあと、夢うつつに漂うように生きてきた。死ぬのが怖かったのではない。決してそうではないと、自分に言い聞かせながら。
最初から間違っていたのだ。
武士の誇りは寺坂にもわかる。ただ、斬れば済むという安直な考えにはどうも馴染めなかった。
自分だったら…そう考えること自体が、主君への忠義に反することは、重々承知していた。
しかし、土壇場で決めたのだ。
この泰平の世に、あえて争いを起こすことはない。
話し合うことができれば、悲しむ人も減るのではないか。
奥方は気丈に振る舞っていたが、時折、涙していたのを見かけた。
様々な人に会った。皆、それぞれの事情を抱えて生きていた。
事情はどうあれ、命のやりとりはもう沢山と感じる。
「サムライ」というのは、難儀なものだ。
空にかつての仲間の顔が見えた気がした。
その瞬間、寺坂はその場で崩れ落ちた。
享年83歳。悪くない人生だった――
「…ょう…所長!」
「は、はいぃ!」
寺坂は、突然の大声に思わず返事をした。
「もう、所長!仕事中に居眠りってどうなんですか?組織のトップが率先して、職務専念義務を疎かにするのはいかがかと思います。」
「ああ、吉良くんか。まぁ、そう固いこと言うなって。ほら、電話、鳴ってるよ。」
「ほんと、しっかりしてくださいよ!」
寺坂はぼんやりとした頭で、周りを見渡す。
ここは、社会保険労務士法人労曹会。
10年前、40歳になったことを機に、一念発起して、サラリーマンから社労士へ転身した。
たまたま、近所の社労士事務所で、求人がかかっていたので応募して今に至る。
前の所長は、僧侶との兼業という、珍しい開業形態だったが、今は引退して実家の寺を継いでいる。
寺坂は、手元に灰皿を引き寄せ、タバコに火をつけた。
「所長!何度言ったらわかるんですか!タバコは喫煙所で吸ってください!」
「まあまあ、吉良くん、固いこと言うなよ。」
彼は吉良義久。この事務所の社員だ。
大学時代に社労士資格をとり、そのまま労曹会に入社した。
入社2年目だが、真面目で、仕事もできる。なんなら、彼がいれば寺坂がいなくても事務所は回る。
口うるさいのが玉に瑕だ。
メガネにツーブロック、インテリ系イケメン…顔はいいのに、内弁慶で彼女もいたことがないらしい。
――もったいない。本人にそんなこと言ったら、「セクハラです。」とか言われそうだ。
「電話、何だったの?」
「ああ、それがですね…って、話をすり替えないでください!まったくもう。」
吉良はそう言うと、手元のメモに目を落とした。
「赤穂建設の社長からです。残業代の計算がおかしいって。」
「いや、システムで計算してるし、君もチェックしてるだろう?」
「そうなんですが…認めてない残業までつける必要があるのかと…」
「それは…また…まあ、あの社長なら言いそうだな。」
「記録をみると、夜8時まで働いていたので、向こうの事務員にも確認したら、確かにその日は工期が迫っていて、現場監督が張り付いていたと…」
「じゃあ、しょうがないんじゃない?」
吉良は黙って寺坂をじっと見つめている。
寺坂はタバコを灰皿に押し付けながら、ため息をついた。
「はぁ、僕が対応すればいいんでしょ?」
「すみません。私、あの社長だけはどうしても苦手で…」
「あーいいのいいの。僕はあの社長嫌いじゃないから。まあ、昔ながらの、って感じだよね。」
寺坂は、ひらひらと手を振りながら返事をする。
「すみません。」
「いいって。じゃ、あとよろしくね。たぶん、戻らないから。」
「…そのまま飲みにいく気ですね。」
吉良の目がつり上がる。
「いや、仕事。仕事だよ?!」
社用車の軽に乗り込み、寺坂は赤穂建設に向かった。
――帰りはまあ代行だな。飲んだら乗るな、だ。
代行料金を経費で落とせないか、と思考を巡らしたところで、吉良の顔が浮かんで止めた。
間違いなく怒られる。
赤穂建設は、創業80周年を迎える老舗だ。
従業員は12名。うち、1名は事務員。
社長は2代目だが、60歳を超え、そろそろ次代への引き継ぎを考えている。
「ちわー。社労士の寺坂ですー。」
「あ、おまちしてました、寺坂先生。社長が奥でお待ちです。」
寺坂は、慣れた手つきでスリッパに履き替え、社長室に向かった。
寺坂はノックもせずに社長室のドアを開ける。
「ちわー。社長、お呼びいただいたようで…」
「おー、寺坂くん!今日は暑いねぇ。ひとまず座ってすわって。」
大石社長が、応接セットに広げていた新聞から顔を上げて手招きする。
寺坂は大石社長の向かいに腰掛け、ポケットからタバコを取り出して火をつけた。
大石社長が灰皿を寺坂に寄せる。
「ども。」
寺坂は、軽く会釈して口から煙を吐いた。
「ごめんね、寺坂くん。なんか、うちの勘違いだったみたいで。」
大石社長は申し訳なさそうに眉を下げて、ソファーに深く掛け直した。
「まあ、話を聞いてみれば、そっちの事務所の間違いじゃなかったみたいでなぁ…」
そう言って、大石も懐からタバコを取り出して火をつけた。
寺坂は黙って大石の顔を伺っている。
長年の付き合いだ。文句を言いたかったのではなくて、なんとなく話がしたかったのだろうと「あたり」をつける。
「……るり子、いや、うちの事務員は真面目すぎてなぁ。この業界でやっていけるか……寺坂くん、どう思う?」
「どう、もなにも…何とかなりますよ。るり子さんなら。」
「いや、知ってるとは思うけど、遅くまで働いてた社員っていうのが、浅野のじいさんなんだ。珍しく、ポカをやらかしてなぁ…」
「それで、残業?」
なんとなく話が見えてきて、確認する。
「うちの下請の話と浅野のじいさんの話、どっちが間違ってるって話じゃないんだ。問題は、じいさんが引退したい、なんて言い出して、な。」
「なんでまた……」
寺坂は思わず聞き返した。
大石はまだ長く残るタバコを灰皿に押し付けて続ける。
「……寺坂くん、カスハラって、聞いたことある?」
「まあ、一応、社労士の仕事でもあるらしいので。」
この前、吉良の研修で聞いたばかりだ。
「あれって、なんか、コンビニとかだけの話じゃないんだって?」
大石は顔を寺坂に近づけて、小声で呟いた。
「まあ、そう、らしいですね。」
「下請が若い奴でね、やたらと法律がとうの、契約がどうのって、うるさいやつなんだ。」
「まあ、大事、ですよね法律とか。」
「……寺坂くん。俺が言うのなんだけど、一応法律って、社労士の仕事なんじゃないの?」
大石はあきれ顔だ。
「いえ、まあ確かに社長のおっしゃる通りなんですが、でも、人って、法律だけじゃ、割り切れないですからねぇ。」
「まあ、君のそういうところは買ってるんだが…」
「で、カスハラがどうかしたんですか?」
寺坂もタバコの火を消して、背もたれから体を起こして座りなおした。
「いやな、あいつらの言い分だと、じいさんがカスハラだって言うんだ。怒鳴ったり、無理な要求をしたり……」
大石は手元に目を落として続ける。
「じいさんは……」
と、そこでドアがノックされた、返事を待たずにるり子が入ってきた。
大石るり子。大石社長の娘だ。
今は、赤穂建設の事務員として働いている。
事務員、といっても、労務管理から経理、営業、工程管理まで、なんでもこなすマルチプレイヤーだ。
「よろしければ。」
と言って、ペットボトルのお茶を寺坂の前に置いた。
るり子はそのまま、大石の横に座った。
大石は気まずそうに、目をそらした。
「何の話ですか?」
一事務員に聞かせる話ではない。
しかし、「次期」社長としては、知っておきたい話でもある。
「まあ、浅野のじいさんの…話だわ」
大石は独り言のように呟いた。
「…さのじいちゃん、の…」
るり子もある程度は事情を把握しているらしく、複雑な表情を浮かべた。
浅野は、先代から勤めている言わば赤穂建設の長老のような存在だ。
元々は宮大工だったらしい。
今の社長が継いだ際に一線を退き、主に施工管理の補助や現場での監督業務をしてもらっている。
るり子とも、生まれた時からの付き合いだ。
「……時代、なのか、なぁ、先生。」
大石社長が「先生」と呼ぶ時は大抵、面倒ごとの解決を期待している。
大石本人には自覚はないかもしれないが、少なくとも、寺坂はそう感じている。
「…社労士の仕事、ってわけでも無さそうだけどねぇ…」
寺坂は指を組み、口元に当てた。
「企業のカスハラ対策に関する措置は、社労士の仕事ですが…外部の業者との関係の中でのトラブルは、弁護士先生、の仕事ですかね。」
寺坂は、そうは言いつつも、どうにかならないかと、頭の中で策を巡らした。
(設定メモ)
【寺坂】
社労士法人労曹会の所長。やる気はあまりないが、やるときはやる。あまり人と争うのが好きではない。のらりくらりしているように見えるが、経験と人間観察から、何もしていないように見えて、何となくトラブルを解決してしまうことがある。
【吉良義久】
社労士法人労曹会の社員。
採用2年目。シゴデキのイケメン。
ただ、人付き合いは苦手。自分が安心して話ができると確信を持てた人にしか強く言えない。内弁慶。モテるが、コミュ症なので、いつも付き合うまでに至らない。
(※名前を変更しました。義友⇒義久)
【赤穂建設】
土木・建設業
戸建て住宅の建築、土木工事の受注などが主な事業内容
昔から、地域の住宅建築や、土手の補修などを請け負っていた。
当初は、神社仏閣の建築補修にも関わっていたが、代替わりの際に手を引いている。
【大石雄三】(名前の変更:平蔵⇒雄三)
赤穂建設代表取締役。
厳つい顔をしているが、怒っているわけではない。まわりには大雑把な人だと思われているが、割と人の細かいことを見ている。
合理主義者で、いかに効率よく事業を運営するかが第一。感情をあらわにするときは何か目的がある。計画的な部分も。人はいつのまにか、社長の思うとおりに動いてしまう。
【大石るり子】
大石社長の娘。一人暮らし。
東京の大学で経営学を学んで、地元に帰ってきた。
今は、赤穂建設の事務員として雇用されている。
事務員、といっても、労務管理から経理、営業、工程管理まで、なんでもこなすマルチプレイヤー。
【浅野匠三】
赤穂建設に先代のころから働いている。
元は宮大工。代替わりしてからは、施工管理の補助をしたり、現場の監督業務をしている。気が短くて、声が大きい。年のせいか耳が遠いので、よく「あー?」と聞き返すが、本人に悪気はない。




