第14話 ミリア先生
ミノタウロスが敗北したことにより現実との境に「門」が出現してしまう。混乱する直人にミリアが現実に現れる予告。これは夢か?
朝は、現実が正しくて、異界が間違っているはずだった。
直人は昨夜のログを思い出すたびに、胃の奥がきしむ。
ミノタウロス撃破。扉解放。外部接続判定。場所:幼稚園。
眠っている娘の顔を見て、直人は一度だけ思った。
――これは夢だ。
仕事のストレスが変な比喩を作っているだけだ。
しかし、朝になっても通知は消えなかった。
ひなは熱が少し下がり、頬の赤みも引いていた。
「ようちえんいける?」と妻が聞く。
「いける」とひなが答える。
その声がまだ少し細い。
直人は言った。
「今日、俺が送るよ」
妻が不思議そうに眉を上げた。
「在宅でしょ。会議は?」
「午前は調整した。……昨日の分、取り返さないと」
嘘ではない。仕事の会議は調整した。
ただし、本当の理由は別にある。
幼稚園を、自分の目で見ないといけない。
妻はダンジョンを知らない。
だから直人は“父親の言い訳”だけを出す。
「心配だから」
それだけで通る。
通ってしまうのが、現実の怖さでもある。
1 幼稚園の入口
幼稚園の門の前は、いつもと変わらない。
出勤前の親たち、先生の声、子どもの靴の音。
変わらない。
変わらないはずなのに、直人の視線だけが変に冴えている。
ひなが小さな手で直人の指を握る。
「パパ、きょうもくる?」
「……今日はいけない。仕事がある」
「ふーん」
納得していない返事だ。だが、歩く。
門のところで、先生がにこやかに迎えた。
いつもの担任――の隣に、もう一人。
その人は、そこに“ずっと前からいた”みたいに立っていた。
白いエプロン。名札。柔らかい笑顔。
不自然なほど整った所作。
直人の脳が、勝手に結論を出す。
(新任の先生だ)
(よくある)
(気にするほどのことじゃない)
――その思考が、ぬるりと滑る。
“納得”が早すぎる。
彼女が言った。
「おはようございます。佐倉ひなちゃんですね♡」
声が、記憶の奥を撫でる。
直人の背中が冷たくなる。
名札には、こう書いてあった。
「ミリア(補助)」
直人の脳がまた勝手に処理する。
(海外出身の先生もいる)
(ミリアは名前としてあり得る)
(偶然だ)
偶然の割に、笑顔が“昨日の画面”と同じだ。
ミリア先生は、ひなの目線にしゃがんだ。
「ひなちゃん、きょうはだいじょうぶ?」
ひなは小さく頷く。
「うん」
「えらい♡ じゃあ、きょうはむりしないで、ゆっくりね」
そのやり取りが、あまりに自然で。
周囲の先生たちも親たちも、誰も違和感を示さない。
直人だけが、遅れて気づく。
――違和感を感じる“回路”が、鈍っている。
ミリア先生が立ち上がり、直人に向けて微笑む。
「お父さまも、ご安心ください♡」
直人は反射で答えそうになる。
(ありがとうございます)
口が動きかけて、止めた。
謝罪や礼を言うと、何かが増える世界を知ってしまった。
代わりに、固い声で言う。
「……新任ですか」
ミリア先生は首を傾げる。
「え? ずっといましたよ♡」
その瞬間、直人の脳が「そうだったかもしれない」と思いかける。
――危ない。
直人は視線をずらし、園舎の端を見る。
“候補”と表示されていた場所だ。
そこに、あった。
園庭の隅、物置の裏。
誰も近づかない、遊具の死角。
空気が薄い膜みたいに揺れている。
まるで、見えないビニールカーテン。
直人は息を止めた。
見えてしまう。
見えるということは、ここが“接続先”だ。
ミリア先生が、優しい声で言う。
「お父さま、目が疲れてます? 無理なさらないで♡」
直人は低く返す。
「……大丈夫です」
大丈夫じゃない。
でも、ここで騒いだら終わる。
ひなが、手を振る。
「いってきます」
「……いってらっしゃい」
直人は娘を見送りながら、心の中でだけ言った。
(ごめん。今日は“仕事”じゃない)
2 魅了は、違和感を消す
門から少し離れたところで、直人は立ち止まった。
帰るべきだ。仕事もある。妻にも説明がつかない。
なのに足が動かない。
“あの先生”が、そこにいることが当たり前みたいに思えてしまう。
それが怖い。
直人はポケットの中でスマホを握りしめた。
昨夜のログ。障害報告書。扉。位置情報。
人間の脳は、都合よく現実を整形する。
「平常化バイアス」というやつだ。
“面倒な事実”を避けるために。
いま直人の脳は、その機能を全力で使っている。
ミリア先生を、ただの先生として受け入れようとしている。
――魅了。
直人は、言葉で自分を殴る。
(違う。あれはミリアだ)
(昨日画面の中にいた)
(扉が開いた)
(ここが接続先だ)
(いま俺は、騙されている)
言葉にすると、少しだけ霧が晴れる。
思考が“自分のもの”に戻ってくる。
同時に、耳の奥でミリアの声がする気がした。
「直人さま、定義して下さい♡」
直人は唇を噛む。
定義なんて、いまはしたくない。
定義したら、何かが加速する。
でも、やるしかない。
3 結界と、ミュート
直人は園の外から、もう一度だけ物置裏を見た。
揺らぎの前に、薄い光の筋が何本も走っている。
結界。
理屈は分からない。
でも分かる。あれは“安全柵”の類だ。
そして“自分だけ”が、それを認識できている。
直人は、スマホで仕事用の通話アプリを開いた。
午前の会議はキャンセルしてある。
しかし“会議枠”そのものは残しておいた。
理由は一つ。
ミュートが必要だからだ。
ワイヤレスイヤホンを耳に入れる。
誰もいない通話に接続する。
表示が出る。
「通話中」
直人は、ひとつ息を吸って、ミュートを押した。
ミュート:ON
世界が、わずかに軋んだ。
物置裏の揺らぎが、濃くなる。
結界の光の筋が、目に見える“格子”へ変わっていく。
「……来いってことかよ」
背後から、声。
「お待ちしてました♡」
振り向くと、”ミリア先生”がそこにいた。
さっきまで門のところにいたはずなのに。
直人の脳が「先生は園内を歩くものだ」と処理しようとする。
しかし今日は、その処理に乗らない。
直人は低い声で言った。
「……幼稚園の先生の移動速度じゃない」
ミリア先生は笑う。
「直人さまがミュートにしたので♡」
直人は言う。
「つまり、ミュートで加速は本当なんだな」
「はい♡ 現実で黙るほど、こちらでは進めます♡」
直人は、物置裏へ近づいた。
おかしい。自分が歩いている間、周囲が止まっているような感覚。
これが”ミュートの世界”なのか。
結界の格子が、彼の前で“扉”みたいに割れる。
ミリア先生が、当たり前みたいに手を差し出した。
「行きましょう♡ 片付けないと、もっと大変になります♡」
直人は苦々しく笑う。
「……“片付け”って言い方やめろ。仕事みたいじゃないか」
ミリア先生は極上の笑顔。
「お仕事です♡ 魔王さま♡」
直人は、最後に園舎を見た。
娘がいる。
現実だ。
この場所は、現実だ。
「……触るなよ」
ミリア先生は、いっそ優しく頷いた。
「触りません♡」
その言い方が、いちばん信用できなかった。
(第15話に続く)
「ミリア先生」に連れられ、ひなの身近に迫る不安を排除すべくいざダンジョンへ。直人の混乱は続く。




