未完の書
目覚めると、コンクリートの天井が見えて現実に戻ってきたのだと自覚する。
俺はふたたび目を閉じて額に手をやる。寝過ぎた時みたいに頭が重い。どうやらあの耐え難い頭痛はバッドエンドを予兆するもののようだ。
つまり俺はどこかで道を間違えてしまったらしい。そこまで変わったことをしたつもりはないのだが、どうしてあんな結末になったのか。
早く答えを見つけたい反面、考えるには心が疲弊している。ユミルの死は見ずに済んだものの、代わりに悲しんだ顔が記憶に追加されてしまった。
助けたいと思った矢先にこれだ。情けないったらありゃしない。
「──ぐっすりと眠っていたようですが、お目覚めはいかがですか?」
いきなり右隣から聞こえてきた声に驚いてすぐに目を向けると、気づけば霧ヶ峰の姿があった。学校指定のジャージ姿で、顰めっ面の表情や腕組みをしている仕草はどこからどう見ても不機嫌に染まっている。
霧ヶ峰はぎろりとこちらを見下げる。
「私が不在なことをいいことに好き勝手やってくれましたね」
俺は起きてベッドに胡坐をかく。近くにあるはずの深緑の本は無くなっている。
「あのファンタジーな三日間が、本当にただの明晰夢じゃないのか確かめたかったんだ。でも今更そう言ったところで絶対に読ませてくれなかっただろ」
「人をネチっこいやつみたいに言わないでください。一昨日に私を変人扱いしたことを地面に這いつくばって頭を垂れながら謝罪してくれれば見せましたよ」
「やっぱり根に持ってるじゃないか」
「疑問を解消してあげようという私の誠意を無下にした清次先輩が悪いんです。それに主を差し置いて加担した雪も許せません」
「三船さんは悪くない。俺がゴリ押したから仕方なく地下室に通してくれたんだ」
「ダメです。共謀罪として一週間、お風呂の時に私の洗髪を科します」
「……たぶんそれ罰になってないと思うぞ」
あの溺愛っぷりから自ら喜んでしそう。
「…………」
霧ヶ峰が尚もこちらを睨み続けてくる。不服は収まりそうにない。
このままじゃ居心地が悪いし、本の在り処を隠されてはユミルの物語を繰り返せない。……元はといえば俺がまともに取り合わなかったのが原因だ。ここは折れるか。
「疑って悪かった。あまりの突拍子もない出来事に混乱して疑心暗鬼になってたんだ」
「心が籠もってないですね。この場を取り繕いたい気持ちが透けて見えます」
「じゃあどうしたら霧ヶ峰お嬢様の許しを得られるんですかね」
「これからは私の言葉を信用すると約束してください。それで今回の件は不問とします」
「……分かったよ。今後はお前の話にちゃんと耳を傾ける」
「信じると明言せずに煙に巻くところが狡賢い清次先輩らしいですね」
「また言質を取られて酷い目に遭いたくないからな」
「まぁいいでしょう。聞いてくれないことには信じるも何もありませんから」
霧ヶ峰は組んだ腕をほどく。
「では。まずは頑固な清次先輩に現状を知ってもらうため一昨日の説明を再度しましょう……と言いたいところですが、その前に私はシャワシャワしてきます」
「しゃわしゃわ?」
「シャワーを浴びてきます。学校から走って帰ってきたので汗をかいてしまったんです。雪から連絡をもらった時はちょうど体育の授業中でしたし」
今考えれば俺が本を読んでから二十分しか経っていない。学校から洋館までは車で往復三十分以上はかかるだろうから徒歩で帰ってきたのは事実だが、あの距離を走って息切れ一つしてないなんて華奢な見た目に反してタフすぎる。溺れた俺と猫を自力で助けたこともそうだけど、本当に人間かこいつ。
「ですので、清次先輩は二階にある書斎で待っていてください」
「あ、ちょっと待て。風呂はどのくらいかかる?」
「えぇ……私の入浴時間に興味があるんですか……?」
「変な勘繰りとその引いた顔はやめろ。もし二十分以上待たされるぐらいだったら、その間にもう一度本の中に行ったほうが効率がいいと思っただけだ」
「その意見は却下です。私の話を聞くほうが優先です」
「べつにどっちが先でも後でも変わらないだろ」
「ダメなものはダメです。それから私の入浴時間はあえて伏せておきます。清次先輩は大人しく悶々とした時間を過ごしていてください」
取り付く島もなく、そう言って足早に地下室から出て行った。
俺は重たいため息をつく。やっぱりあのお嬢様とは相容れない。
そのあとダメ元で部屋の中を探ってみたが深緑の本は見つからず、結局のところは書斎とやらに行く羽目になった。
***
書斎はこれまでの部屋と同様に広く、二つの大窓を背にどこかの社長が座っていそうな大きな机が置かれており、その前には来客用の黒い革張りのソファとテーブル、左右の壁際にはぎっしりと中身が入った本棚が隙間なく並べられている。
「ん~、やっぱり明るいうちの入浴は気持ちいいですね。身も心もさっぱりしました〜」
俺の対面に座る霧ヶ峰は、三船さんに髪を乾かしてもらいながらホクホク顔をする。
──まさか一時間以上も待たされることになるとは……。普段から長いのかわざとなのか、どちらにせよ完全に舐められている。
三船さんがドライヤーを切り、懐から取り出した櫛で髪を梳かす。
「はーい。終わりだよ〜」
「ご苦労です、雪。こうもスッキリするとなんだか眠たくなってきますね~」
「おい。眠るまえに本を渡せ」
「まぁまぁそう慌てないでください。ちょっとした冗談じゃないですか」
「冗談で長い時間待たされる身にもなってみろ」
「たったの一時間程度で大げさな。乙女の入浴を急かすのは紳士にあるまじき行為ですよ」
「俺は紳士じゃないし、他人の気持ちを推し量ろうともしない自己中なやつを気遣う道理はない。茶番はいいから早くあの本について教えろ」
記憶が消えないうちにこの待ち時間で調べたことをメモはしたが、新たに確かめたいこともあるし、できるだけ早く向こうの世界に行きたい。
霧ヶ峰は「やれやれ。せっかちさんですね」と肩を竦めたあと、足を組む。
「では、お話しする前に。清次先輩が頑なに夢だと言い張っていた世界が本の中の出来事であることはさすがに理解していますよね?」
「ああ。でないと、こうやって冷静に話を聞いてない」
「ようやくスタート地点に立ったわけですね。本当に長い道のりでした」
一々嫌味を言わないと気が済まないのかこいつは。
「はいはい、頭が固くて悪かったですね。それで、あの本は一体何なんだ?」
「私たちはアレを〝未完の書〟と呼んでいます」
「アンフィニシュトの書……」
「ちなみに名付けたのは雪です」
「どうどう? 結構いかした名前でしょ」
「ちょっと言いにくいですね」
「嚙みそうな語句ほど、スパッと言えた時がかっこいいんじゃん」
よく分からない命名理念だ。普通にそのまま未完の書では駄目だったのか。
「名前の良し悪しは措いておいて。正式な名前すら知らないところをみると、まだまだ未知な部分が多そうに聞こえるけど」
「はい。清次先輩が読んだあの本も知り合いの伝手を借りてゲットしたもので、さらにその知り合いの手に入れた経緯を遡ってみましたが出自の特定には至りませんでした。本の体を成していることから日本国内にある全ての出版社を当たってもみましたが製本元は確認できず、どうやらアンフィニシュトの書は原本しか存在しないようです。もちろん作者は不明。本の中身で使用されている言語から日本人であることは濃厚ですが」
「その程度のことなら、こうやって説明の場を設ける意味はないんじゃないか」
「いえ、判明していることもありますよ。私が出会ったアンフィニシュトの書は、その全てにタイトルがなく、殆どが白紙のページで作られていました。また、冒頭を見た人間を眠らせて魂を本の中に引きずり込む不可思議な力や、成人した者はその効果の範囲外にあるという部分が共通しています」
聞けば聞くほど疑いたくなる代物だが、実際に体験している身では否定できない。
「そして、必ずバッドエンドを辿る物語であること」
「…………」
「二度、向こうへ赴いた清次先輩はもう分かっていると思いますが、アンフィニシュトの書は最悪の結末へ進むように物語が構成されています。作者が何を意図してそうしたのかは知りませんけどね」
「……さっき『私が出会ったアンフィニシュトの書』って言ってたよな。つまり俺が見たあの深緑の本以外にも複数存在するわけだ」
「清次先輩が見た本を含めて三冊の存在を確認しています」
「じゃあ他の二冊はどうしてるんだ? 今の本と同じ状態のまま保管してるのか?」
「一冊は同じで、もう一冊は変哲のない一般の本と化しています」
「一般の本……冒頭を読んでも大丈夫ってことか?」
「それだけでなく、表紙にはタイトルが刻字され、白紙のページには物語の続きが描かれています」
「それは自然とそうなったのか?」
「いいえ。弛まぬ努力の結果です」
「なるほど。必ずバッドエンドを辿ると言ってたけど、それを回避する手段もあるわけだ」
アンフィニシュトの書の一般化が自然的な現象でないのなら(俺を本の世界に向かわせたことや現状バッドエンドになって本の状態が変わってないことを鑑みるに)他の結末に辿りついてそうなったと考えるのが妥当だ。
霧ヶ峰は憮然とした表情をする。
「その理解の早さをどうして初めから発揮できないんでしょうか」
「これとそれとは話が別だ。一方的に現実離れしたことを伝えられて鵜呑みにできるか」
「いかに信じられないとはいえ否定から入ると嫌われますよ。もっと寛容な心を持ちましょう」
「言葉を返す。もっと疑いの気持ちに寄り添った説明を心掛けましょう」
「……はぁ。話を戻します。清次先輩の読みどおりで、ハッピーエンドにすることもできます。私はこれまでの調査や読んだ者を引き込む本の特殊性から、バッドエンドの原因が登場人物の欠如、もっと詳しく言えば物語の流れに大きな影響を及ぼすキーキャラがいないためだと考えています」
「そのキーキャラの役割を今俺がしてるわけだな」
「はい。清次先輩の一つ一つの行動によって物語の結末は様々な形を見せます。私が『必ず』と言葉を付けたのは、そのキーキャラが何もしなかった場合においてですね」
「じゃあ俺は間違った行動を取ったわけだ。今のところ二回バッドエンドを繰り返してるけど、ペナルティみたいなのはないのか?」
「そこのところは安心してください。バッドエンドを迎えた瞬間、本に取り込まれた者の魂は現実に立ち返り、同時にそれまでのストーリーは消去されます。何度でもやり直しできるということです。何度でも」
「やけに強調するんだな」
「経験則からの忠告です。ゲームのコンティニューとは訳が違いますから」
その霧ヶ峰の言葉は十分に理解できた。
すでに俺は二巡目を過ごしたが、かなり精神をすり減らした。同じ風景に、同じ出会い、同じ言動。話を合わせないといけない苦痛と、どこかでボロが出てしまう不安が常にあった。一度繰り返しただけでそう思うのだ。これが幾度ともなれば頭がおかしくなるだろう。
だからこそ疑問に思う。
「こっちから質問いいか?」
「どうぞ」
「お前の目的についてだ。どうしてハッピーエンドを目指す? アンフィニシュトの書が普通の本になることで何か得でもあるのか?」
「実質的な得はありませんね。ただ、その体験自体が私にとって価値あるものになるんです」
「……どういう意味だ?」
「いえ。私の目的についてはヒロインのハッピーエンドを達成できた時に教えます」
結局、お茶を濁すのか。まぁべつに聞いたところで俺の意志は変わらないけど。
俺はソファから腰を上げ、霧ヶ峰に向かって手のひらを向ける。
「もう話すこともないだろ。隠した本を渡してくれ」
「おや。今の説明を聞いてもやる気満々ですね」
「ゲームは完全クリアするまで挑む派なんでね」
「クリアしたところで清次先輩に利益は一切ありませんよ?」
「べつに損得勘定はない。中途半端が嫌いなだけだ」
「ふふ、嘘が下手っぴですね」
気持ちを見透かしているなら話を広げないでほしい。ほんとに性格が悪いなこのお嬢様は。
「では。清次先輩が良き結末に辿り着けるよう、向こうに行く前に助言をしておきましょう」
「まだ何かあるのか……」
「面倒なら聞かなくてもいいですよ。せっかく人がハッピーエンドの攻略法を教えてあげようと思っていたのに。あとで聞きたいって言っても遅いで……」
「分かったから早く教えてくれ」
霧ヶ峰は勝ち誇ったように笑顔で頷くと、人差し指から薬指までの三本を立てる。
「ハッピーエンドを迎えるためには、物語の中に存在する三つの条件をクリアしなければなりません。例えば、ある登場人物との会話内容だったり、ある物を見つけることだったり、ある誰かの命を救うことだったりと多種多様です。偶然にクリアすることはよほどの運がないかぎり無理なので推察することをオススメします」
「なんか急にゲーム要素が出てきたな……信憑性はあるのか?」
「当然あります。無駄骨を折りたくなければ信じてください」
断言している様子から事実らしい。つまり俺はその条件とやらを見逃しているわけか。
「それから、物語の中でぐにゃぐにゃした風景を目にしませんでしたか?」
「あー、ちょくちょく見かけたな。あの絵の具をかき混ぜたみたいにぼやけたやつだろ」
「あれは移動不可能なエリアを示すものです。本の中の登場人物たちには視認できず、中に踏み込めば同じ場所に戻されます」
「よくあの得体の知れないものに身を投じたな……」
「私ではないですけどね。なぜあのようなものが存在するのか定かではありませんが、進めないということは作者が描かなかった部分とも取れるので、ハッピーエンドの条件に関係があるものはないと思っていいでしょう」
要は手掛かりを探す範囲が限定されるわけだ。次に行った時は森の隅々、果ては森の外まで調べようと意気込んでいたが探す手間が省けるのは助かる。
霧ヶ峰が「雪。アンフィニシュトの書を」と声をかけると、三船さんは近場にあるシリンダー錠つきの棚に行き、鍵を開けて深緑の本を取り出した。ユミルの物語だ。
霧ヶ峰は受け取り、そっとテーブルに置く。
「話は以上です。あとは清次先輩の考えで物語を進めてください」
俺は本を手に取る。
これを見ると、脳裏にユミルの様々な姿が思い浮かんでくる。
面白おかしい日々の中で常に元気であり続ける彼女の姿は、しかし最悪のラストによって全て掻き消されてしまう。
やっぱり目覚めが悪いのは嫌いだ。
霧ヶ峰は俺を見据えながら一巡目と同じ言葉を口にする。
「ヒロインのハッピーエンドを目指してください」
「言われなくてもそのつもりだ」
悪夢を終わらせるために。




