蓮葉
神は待っていた。愛しい、愛しい姫が来るのを。出会いは突然だった。たまたま神が禁池の池から顕現した時、出逢った。
姫は皇家一族以外の者がいるはずもない禁池に現れた存在に、ひどく驚いた。姫の名は蓮華といい、神は自らを蓮葉と名乗った。姫と神は何度も会う内に次第に惹かれあうようになった。この関係に皇家は気が付かなかった。姫は普段から気晴らしに禁池を散歩するのが好きだったからだ。蓮葉は、作られた神だった。彼を作ったのは、燕泓という神だ。燕泓は特殊な神だった。様々な者を創り出す能力に長けていた。その気まぐれで生まれたのが蓮葉だ。蓮葉は他の神々とは異なっていた。普通の神々には持ち得ない、極めて柔軟な精神を持っていた。
「蓮華、毎日のようにこちらへ来るとは中々に姫というものは暇なのだな」
ある時の蓮葉はそんなからかいの言葉を用い、ある時は
「そなたは……何故そのように純粋な存在で居られるのか?
余には分からぬ」
と優しそうに言った。彼は気まぐれで、気むずかしい性格でもあった。時に誘拐紛いの事をした時もあった。そんな神に姫は振り回されなからも愛おしいと感じていた。互いに、本当に愛し合っていたのだ。
ある日蓮葉のもとへ蓮華が来たとき、姫は鬱ぎ込んでいた。神が姫へどうしたのかと聞くと、姫は一言言った。
「妾は、他国の殿方と祝言を挙げねばならぬようだ……」
神には意味が分からなかった。否、理解しようと思っていなかった。いつまでも共に居てくれると思っていた神は、よもやそんな言葉を言われるとは思っていなかったのだ。神は再び姫を攫ってしまおうかと思案していたが、やめた。それは姫を侮辱する事と同様であるように感じたからだ。
「蓮華、そなたはどうするのだ?
余は……そなたが決めた事に従おう」
姫は、一瞬悲しそうな顔を見せた。神は言葉の選びを間違えたのだろうか、と考えた。だが、すぐに姫がいつも通りの表情に戻ってしまったために考えるのをやめた。
「蓮葉、妾たちは……結ばれなくとも、永遠に共に――」
よく蓮華が口に出すようになった言葉だ。蓮葉は、姫が他国の皇子と結ばれる覚悟を決めたのだと思った。だがそれは間違っていた。姫はある決意を秘めていたが、そういう決意ではなかったのだった。
「蓮葉は……妾の事を永遠に想ってくれるのかえ?」
ある時そう姫に聞かれた神は、こう答えた。
「余は、永遠に想っているさ。
例え……そなたの命尽きようとも、余は想い続ける
何度、死が我らを別つとも……必ず巡り会い、愛し合う。
余はそれを信じて疑わぬ」
蓮華は安心したように、久々に落ち着いた笑みを浮かべた。しかしそれは蓮葉の見る、蓮華の最後の笑みであった。
一人の美姫が禁池にある、神の住まう池に入っていった。入るのには着物が重かったのか、襦袢のみを身に纏っていた。一歩一歩着実に歩みを進めていく。その様子はとても落ち着いていた。
「蓮葉……妾は、あなた様を永遠にお慕い致します。
この命、潰えようとも――」
池の中心に近づくにつれて、姫の体は沈んでゆく。そして肩が飲み込まれ、とうとう姿が見えなくなった。
蓮葉がこの異変に気が付いたのは、それから数刻ほど経った時だった。池が歓喜に満ちている。神はそう思った。それと同時に禁池中が荒れていた。彼らから聞こえてくる情報はすべて断片的で理解が困難だった。それらからの情報を組み合わせ、導かれた答えは一つだった。
それは悲しい事実。愛しい姫が死んだ、それだけだった。
「この池の……贄となったのか」
神は悲しそうに呟いた。
「余が、余が人であったならば……そなたは自らの命を絶つなどという事をせずに済んだのであろうか」
神は嘆いた。今までにこれほど辛い事はあっただろうか。おそらくなかった。神にとって、これ以上に衝撃的な事はないように思われた。
「余は、神を捨てるぞ。もはや神でいる理由はない」
そう一言、神は言い捨てると輪廻の渦に身を投じた。




