終章
部屋の中はガランとしていた。
さっきまでの慌ただしさが嘘のよう。
シュルマが暖炉に火を入れると、あたしの着替えを手伝ってくれる。
白いドレスを脱ぐと、貰ったばかりの若草色のドレスに着替える。それは羽のように軽く、肌になじみ、とても動きやすかった。
着替えると、大輪の百合から野に咲く小さな名も無い花になれた。元の自分に、ただのスピカにようやく戻れたような気がした。
朝からずっと気を張りっぱなしだった。失敗は出来なかった。誰が見ているか分からない。
立太子の儀のことも披露宴のこともほとんど覚えていない。覚えているのはあたしの手を引くその大きな手と微笑みかけるその漆黒の瞳だけだった。
――大丈夫。僕がついてるから。
その手もその瞳もずっとあたしをそうやって支えてくれていた。
彼はあの短い時間で、全ての賓客の名前とその地位を全部頭に入れていた。あたしが名前に詰まると、さりげなく横から助けを入れてくれた。意地悪な質問からも庇ってくれた。その姿はいつものシリウスじゃないみたいで、彼は一人で何でも出来るかに見えた。自信が溢れてた。あたしの助けなんかいらないんじゃないかって、そう思えるくらいだった。
扉がそっと開く音がして、そちらを見ると、シリウスがそこには立っていた。シュルマがニヤニヤした笑顔をこちらに向けると入れ替わりで部屋を出て行く。
閨に呼ばれないから、変だとは思ってた。呼ばれないという事は来るのかなとも思っていた。今夜逢わないということはあり得なかった。
あたしはテーブルの上に置いておいた手紙をそっと差し出す。
彼に陛下の、彼のお父さんの気持ちを、ちゃんと愛されてるってことを、教えてあげたかった。
「なに?」
彼はあたしが渡した手紙に目を落とす。その顔には次第に驚愕が浮かんできた。
父と子がまた少しだけ距離を縮めるのが目に見えるようだった。
やがて手紙を閉じると、彼は溜息とともに呟く。
「父上……」
「厳しいけれど、……いいお父様よね。……うちのとは大違い」
あたしは父を思い浮かべて、少しだけ羨ましくなる。あたしの父さんは明らかに過干渉だもの。
「いや……レグルスをそんな風に言っちゃ駄目だ」
なぜか彼は父を庇う。昨日は真っ向から対立していたというのに、不思議。
あたしは……どうしても聞きたい事があった。『あれ』は、うまく行ったのかしら。
考え事をしているのか、遠くを見るような目をした彼に問いかける。
「ねえ、シリウス。……あのね……えっと」
「……どうした?」
シリウスは寝台に腰掛けると、あたしに隣を示す。あたしはなんと言おうか考えながらその隣に腰掛けた。寝台の足が二人分の重みに小さな悲鳴を上げる。
もしうまく行ってなかったら……どうしよう。
収賄といってもアレクシアの独断だったみたいだし、ジョイアではよほどの事が無い限りは親の罪を子が被る事は無い。あんな事になったからこそ、彼女とその家族はその地位に執着するかもしれなかった。
あんな人とシリウスを奪い合うのは嫌だった。
「他の妃候補たちは……」
「ああ……」
シリウスは深くため息をついた。その横顔が陰り、あたしは急激に不安になる。
――まさか……
ドキドキするあたしの目の前でその唇が開く。
「シェリアは、親の収賄容疑のあおりを受けて、結局辞退したよ。あと、本物のエリダヌスは……事件にショックを受けてガレへと帰った。あと……タニアは知っての通りだし」
『辞退』の一言に、飛び上がりたいのをぐっと堪える。
あたしは例のあの下書きをセフォネ経由で本人に届けてもらったのだ。セフォネはシリウスの侍女。セフォネがそれを手にしている、それがどういう事か、彼女はうまく誤解してくれたみたいだった。
言いつけるような真似も……したくなかったし。ひっそりと去ってもらえればそれで良かった。
でもなんでそんな浮かない顔……。ミネラウバの事があるから、手放しで喜べないのは分かるけれど、そうだとしても様子がおかしかった。――ほんとは残ってほしかったのかしら?
あたしは彼の言葉を待つ。
どうか……嫌な答えではありませんように。
「あと……アリエス王女には」
彼はそう言うと思い切り顔をしかめた。
「振られた」
……。
あたしは緊張の糸が切れたのも手伝って思わず吹き出す。
なんだ……それで不愉快そうにしてたのね……。
彼にもそういうプライドはあるみたいだった。
「あたし……あの夜、王女に出くわしちゃったのよね……」
あたしは思い出して呟く。
あの小さな王女はさぞかし怖かっただろう。あのときのあたしの姿は……普段のシリウスからは考えられないはず。あたしだって信じられないくらいだったんだから。
シリウスはやはりどこか腑に落ちないような顔をしている。
その顔を見てるとなんだか笑いが込み上げて来て、思わず彼に背を向ける。
彼が女心を理解する事は、この先も多分無い。でもあたしはそういうところも含めて彼が好きなんだと思う。
笑っていると、心底ほっとした。こうして彼の隣で笑っていられるのが嘘みたいだった。
シリウスを奪おうとする少女達に始まり、死んでしまった少女。ルティに心を捧げ、自らを罪の中へと落としたミネラウバ。その元凶となったシトゥラ。
それから、何よりも辛かった、あたしとシリウスの間に出来た溝。
押しつぶされそうだった。何か少しでも間違ったら、押しつぶされるところだった。
だから――こうして彼の隣で笑っていられるのが、嬉しくてたまらなかった。
いつしか目の端に涙が溜まる。うれし涙だった。
背中に彼のムッとしたような気配を感じて、振り向くと、――笑い過ぎだ、とその瞳が不満を訴えていた。
「ごめんなさい、……喜んじゃいけないのかもしれない。……でもなんだか嬉しいの」
涙を拭いながらそう言うと、シリウスはあたしを引き寄せる。
「……これからも、僕が君以外に妃を娶る事は無いから」
シリウスはそう言いながらあたしを抱きしめると、耳元で念を押した。
――君が僕の最初で最後の妃だ。
ふとシリウスがあたしの髪に埋めていた顔を上げる。
そして懇願するようにささやいた。
「ねえ、君にあげた手紙、……あれ、返して欲しいんだけど」
何を言い出すかと思ったら。……返すわけ無いじゃない。
あたしはつんと顔を背けてしっかりとお断りする。
「だめよ。一生とっておくんだから」
「……! や、やめてくれよ――!!」
ほんとはもう全部覚えてしまった。でも記憶はどうしても色褪せる。あたしは、あれを受け取ったときの気持ちを忘れたくなかった。
「『君が隣にいない世界は僕にとって意味は無いんだ――』」
ふと一番嬉しかった言葉を暗唱しだすと、シリウスはその大きな手であたしの口を塞いだ。いつもはひんやりしてるその手が今は珍しく熱い。きっと……真っ赤だわ。後ろのシリウスの顔を思い浮かべて、頬が緩む。
そして頬に触れるその長い指や、背にあたるその広い胸を急に意識して、心臓が騒ぎだす。
全部知ってるはずなのに、なんでいつもこんなにドキドキするの。
「……そろそろ、話をやめてもいいかな」
覗き込むその瞳に、胸の内を見透かされてるような気がして頬が熱くなる。それでもしっかりと頷く。彼が欲しかった。
彼の腕があたしの体をきつく抱きしめる。その肩越しに柔らかく甘い光をたたえた丸い月の影が見えた。
静かに寝息を立てて眠るシリウスにそっと毛布をかける。
窓を僅かに開けると夜明け前の冷たい空気がベッドの上を流れ、床へと落ちて行く。
その澄み切った空気を胸一杯に吸い込んで、天を見上げる。東の空はほのかに燃え、瞬きする間に太陽が昇りそうだった。
朝が来る。――シリウスの妃として迎える初めての朝が。
ふとシリウスが身じろぎして、その手に絡めていたあたしの髪を僅かに引っ張った。そして手応えを確認すると安心したかのようにまた寝息を立てだす。その仕草は迷い子が母の手を探すのに似ていて、あたしは思わず微笑んだ。
あたしは再び空を見上げると、宮の陰から昇る茜色の太陽に向かって、幼い頃に誓ったその言葉を改めて誓った。
……きっと守ってみせる。あなたを害する全てのものから。――あなたが泣かなくてもいいように。
第2部 解決編 fin
スピカ視点解決編、完結です。
長い間おつきあいいただきましてありがとうございました。
シリウスもスピカも根本は相変わらずですが、この話で少しだけ成長できたのではないかと思います。
まだまだスピカはシリウスのお母さん的な存在で、シリウスは彼女を簡単には守らせてもらえないようですが、次の話ではもうちょっとなんとかしてあげたいとは思っています。
このシリーズは3部構成の予定です。他にスピンオフも考えていますが、主役がこの二人の話は3部で終わりです。
プロットはだいたい仕上がっています。まだ細かい点を詰めていないので、文章を書き出すことは出来ないのですが、春くらいには連載を再開できればなあと思っています。
その時は、また読みに来ていただけると嬉しいです。
それでは、ありがとうございました!
2009.1.25 碧檎
※サイトの方ではおまけの掌編を載せています。ご興味がありましたら遊びに来てください!