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その瞬間、確かにリンクが揺れた。人の声が、この建物を揺らしたのだ。他の試合とは全く違う。
勿論、選手にとってもオリンピックは4年に一度のイベントだ。だが、それは観客たちにとっても同じなのだ。
ファンたちはこの瞬間をずっと待ち望んできた――俺と同じように。
「ぶっちゃけるとさ、今俺足震えてる」
俺が打ち明けると、コーチは笑顔で言う。
「ちなみに、私も五輪の舞台に立った時は足が震えたよ」
「やっぱり、そうだよね」
「絶対金メダル、そう思うと大抵それにとらわれて金メダルは取れない……と、いいたいところだけど、勝也にそれを言っても仕方がないよね」
「わかってるじゃん」
金メダルを意識しないで滑るなんて、俺にはできない。金メダル以外、求めてはいないのだから。
だから――素直に認めよう。この大舞台、緊張しない方がおかしいのだ。
「私から言えることはただ一つ。勝也のジャンプはすごい。だから、世界中にそれを見せつけてやって」
俺は力強くうなずいてから、拳を突き出す。コーチがそれに自分の拳を重ねる。
「いってくる」
「いってらっしゃい」
ふう、と息を吐いて、リンクの中央へ向かう。だが、心臓が高鳴る。まるで演技後みたいに、バクバクいってる。
会場が急速に静まり返って、自分の孤独が浮き彫りになる。
この広いリンクに、ただ一人。
そのことに気が付いた時、突然闇にのまれそうになった。平衡感覚を失ったようになって、目の前の景色が見えなくなる。
ヤバイ。
こんな感覚は自分でも初めてだ。
覚悟はしていた。
だが、そんなもの、この大舞台は簡単に吹き飛ばしてしまう。
ああ、スタート位置に来てしまった。動きを止めた瞬間、演技が始まる。俺は落ち着きを取り戻すため、周囲を緩やかに滑走する。名前がコールされてから1分後には演技を始めなければならない。
あと20秒ほどか。
落ち着け、落ち着け。だが、どれだけ心の中でそう呟いても、冷静になどなれなかった。
あと10秒ほどで時間切れ――
と、その時だった。
「勝也!!」
静寂を切り裂くような声が、リンクに響き渡った。
――君崎の声だ。
振り返る。そして大勢の観客の中に彼女を見つけた。その大きな瞳を見る。次の瞬間、彼女の勇姿が頭の中を駆け巡った。
そして思い出す。
孤独な挑戦者。それがフィギュアスケーターなのだ。
いつもと違う大舞台。そこでいつも通りでいる。それが難しいのは当たり前だ。
でもだからこそ、やる価値がある。
元世界界王者、オリンピックメダリストでさえ、この異常な空気にのまれてしまった。そんな中、逆に俺がいつも通りの演技をできたら?
こんなにカッコいいことはない。
体に通った一本の軸をイメージする。
そしてブレーキをかけて、静止。
一拍後、運命の一曲が始まった。
すべての準備は整った。さぁ、世界を驚かせよう。
簡単な振り付けから、助走に入る。観客たちも知っている。オリンピックでは強者ほど失敗する。世界チャンピオンがまさかの転倒をする、彼らはそんな心配でハラハラしているのだ。
だからこそ「俺が俺だ」ということを見せつけてやろう。そうすれば観客は驚くと同時に思い出す。高橋勝也はやっぱり強いんだ、と。
スピードを維持し、そしてハーフターンから、完璧な軸をイメージして、トウを突く。
四回転、トウループ!
高さは十分、だが、少しだけ勢いが余った。とっさに膝のクッションを使って勢いを吸収する。一瞬だけ次をダブルにしようかと思ったが、しかしそんな甘えは切り捨てて、力を振り絞る。渾身の力で再びテイクオフ。トリプルトウループ!
四回転+三回転成功!
降りた瞬間、リンクが大きく震えた。
だが、喜びに浸る時間などなかった。
すぐに次なる大技が待っている。
トリプルアクセル。
前回の試合の後、プログラムの難易度を高めるため、イーグルから直接入る構成に変更していた。ただでさえ難しいトリプルアクセルを難しい入り方から跳ぶのは一種の賭けだが――
練習での成功率は100パーセント近い。だから今日も――
飛翔。
そして刹那の滞空。
右足のアウトエッジが完璧に氷を捉える。
「よっしゃぁ!」
見たかといわんばかりに、俺は拳を突き上げる。
スピンも、2つともしっかりとレベルを取っていく。
そして最後のジャンプは、大得意のトリプルルッツ。難しいステップから、両手を頭上に上げて跳び上がる。完璧な回転、そして着氷。
だんだんと、体が軽くなっていく。たぶんいい演技ができてるっていう高揚感だ。
ジャンプは全て終えたが――まだもうひと盛り上がりある。
ステップシークエンス。カウンター、ロッカー、ブランケット……ディープエッジで難しいステップを氷上に刻み付けていく。
ステップを終えて、最後のスピン。疲れた身体になんとか鞭打って、バタフライからコンビネーションスピン。最後のスタンドスピンはまさに、体中からエネルギーをかき集めるように身体を絞って回転速度を上げる――最後は渾身の力で拳を突き上げてフィニッシュ。
これまで経験したことないほど大きな喝采に包まれる。
――なんとかやり切った。
オリンピックの舞台で、胸を張って自分の演技ができた。
やはり体に無駄な力が入っていたのだろう。ショートはフリーより演技時間が短い割には、いつもより体力を消耗した。
呼吸を整えてから、四方の観客にお辞儀をする。そのたび、会場からひときわ大きな声援が飛ぶ。
そしてリンクで満面の笑みを浮かべて
「お疲れ」
コーチと熱い抱擁を交わす。
「よくやったね」
「ありがとう。コーチのおかげ」
拍手と歓声は鳴りやまなかった。キスアンドクライに入ることになって、少しだけ落ち着いたが、カメラ越しに俺が手を振るとまた沸き立つ。
「トリプルアクセルよかったね」
「うん。練習より良かった気がする」
だが、だんだん冷静になってきて、演技に小さなほころびがいくつもあったことを思い出す。
「スピン、一つ取りこぼしたかな」
「うん、たぶんね」
【ザマークスフォーショーヤタカハシ】




