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 ♪


 俺、高橋勝也は現役のフィギュアスケート選手だ。そう、音楽に乗せて、氷上を縦横無尽に滑る、芸術とスポーツが融合したあの競技の選手である。

 と言っても、ただの選手じゃない。俺は昨年、歴代最年少・かつアジア人として初めて、世界選手権を制した。つまり現世界チャンピオン、世界で一番強いスケート選手ってわけだ。もちろん世界ランクも1位。

 といっても、それもあくまで暫定の話だ。俺はその程度の人間じゃない。

 半年後に迫ったオリンピック。それが俺の目標。といっても、出場するのが目標じゃない。

 俺の目標は、誰も成し遂げれなれなかった限界に挑むプログラムを演じ切り、その上で金メダル取ることだ。

 それで初めて、本当の世界一になれると思っている。

 もちろん口だけじゃない。そのために、俺は毎日の練習は欠かさない。

 朝5時に起きて、誰よりも早くリンクに向かう。まずは、リンクサイドでウォーミングアップをして身体を温めていく。

 そしてスケート靴に履き替え、ブレードについたカバーを外し、氷上へと足を踏み入れる。

 静まり返った白銀の世界。月曜日のこの時間、60m×30mのリンクは俺だけのものになる。この広大な世界にただ一人。この瞬間が、たまらないのだ。この世界を独り占めしたくて、スケートをしてると言っても過言ではない。

 スケーティングで身体を慣らしていき、ちょうど身体がほぐれてきたところで、一人の女性がリンクに入ってきた。

 ストレートの黒髪と、ジャージの上からでもわかるスラッとした体型、まさに美女というに相応しいこの人が俺のコーチだ。 

 神崎麗華。御年28歳。

 元々ペアスケーティングの選手で、オリンピックでは日本人として最高位8位入賞を果たした実績がある。そして26歳で引退後、コーチに転身。現在に至る。

 実は神埼コーチは、元々俺のリンクメイトで姉弟子だった。その縁もあって、俺は彼女がコーチになってすぐに彼女の生徒になった。だから神崎コーチにとって俺が生徒第一号なのだ。

 まぁこのままいけば、コーチは、初めて育てた選手が五輪王者になり一気に一流コーチの仲間入り、ということになる。

「おはようー」

 コーチと言っても、小さい頃からずっと同じリンクで滑ってきたこの10年の関係はいきなり変わったりしない。だから会話は基本的にはタメ語だ。

「はい、おはよう」

「ところでコーチ、俺に感謝しろよ」

「いきなりどうしたの」

「優秀な弟子をもったおかげで、コーチは一生食いっぱぐれないよ。来年からは“日本人初の五輪王者を育てたコーチ”だからな」

「ああ、そうだね。ありがとう」

 めちゃくちゃ棒読みだった。まぁムリもない、まだ実感がわかないのは当然だ。なにせオリンピックチャンピオンは4年に一度しか生まれない。しかも、男子シングルで日本人はメダルさえとったことがないのだ(もっというとアジアにも五輪メダリストはいない)。

 ある意味、日本のスケート界において、オリンピックチャンピオンの誕生は夢物語だった。俺が登場するまでは。

「まぁ、万が一コーチがくいっぱぐれるようなことがあっても、俺が養ってやるから安心しろよ!」

「はい、ありがとう。それはそうと」

 コーチは、今までの話を完璧になかったことにしてきた。

「勝也に言っておかないといけないといけないことがあって」

「なに?」

「今日から、新しい生徒が来るから」

 それはまったくもって予想だにしていないことだった。

「新しい生徒? こんな時期に?」

 フィギュアスケートは言うまでもなくウィンタースポーツだ。室内リンクが当たり前になった現代でもそれは変わらない。主要な大会は、国内・国外問わず、全てが秋から冬に開催される。したがって、この10月というまさにシーズンが始まりますよ、という段階で、コーチを変更するなど普通はありえないのだ。

「後住み込みになるから」

 野球やサッカーならどこでも練習できるが、フィギュアスケートはそうもいかない。スケートリンクはどこにでもあるものではないからだ。家から通える場所にリンクがある方が珍しい。だから、コーチの家に住み込みで教えを請うというのは、フィギュアスケートの世界ではまぁまぁあることだ。

「でも住み込みって、どこに住むのさ。うちの部屋はいっぱいなのに……」

 今、神崎コーチの家には、既に俺以外に2人の生徒がいる。コーチの家は決して狭くないが、特別に広いわけでもない。これ以上生徒を受け入れるスペースはない。

「あ、そうかコーチは明日からリビングで寝るってことか。でも女性がソファーで就寝なんて、そりゃあんまりだよ。よかったら俺の部屋で寝れば」

「はいはい、お気遣いありがとう。でもそんなわけないでしょ」

「じゃぁ、まさかその生徒さんがリビングで……それはあまりに可哀想だよ。練習の疲れが取れないじゃないか」

「あんたは何言ってんの……部屋なら1個余ってるでしょうが」

「へ、いや、家には部屋は4つしか――」

「やっぱり高校に行ってない弊害が出ちゃったのね。生徒が算数もできないなんて、コーチとして責任を感じるよ。明日からジャンプ、スピン、ステップに加えて算数もトレーニングに加えなきゃいけない?」

「いやだって、部屋は4つとも使ってる――」

「あんたの隣の部屋は空き部屋でしょうが」

「何言ってんの!? そこは、俺の部屋だよ!」

「あんたが占拠してるだけでしょうが」

「占拠なんて。有効利用してるのに」

「週に1回映画見るか音楽聞くくらいしか使ってないじゃない」」

「頻度は関係ない。イマジネーションを高めるためには、必要なんだよ! あの部屋がなければ、世界チャンピオンになれなったって断言できるね」

 フィギュアスケートはスポーツであると同時に芸術でもある。様々な映像作品や音楽に触れて感性を高めることも、重要な練習の一つなのだ。

「ああ……あの部屋を奪われたら、もう金メダルどころから五輪出場さえ危うい……」

 俺の懇願を、

「はいはい、とにかく決まりだから」

 しかしコーチはバッサリ切り捨てた。磨きたてのエッジのような鋭さだった。 

「……ところで、誰なんだよ。その新しい生徒は」

 住み込みでスケートを習うということはそれなりに力のある、有名な選手だろう。

 だが、コーチの口から出できた名前は、予想を遥かに超えた有名人だった。

「君崎凛」

 その名前は、おそらく日本人なら誰でも知っている。

 俺と同じフィギュアスケーターで、女子シングルの選手。

 多分君崎は、日本で一番人気のあるスケーターだ。その理由は、ひとえに彼女の美貌にある。透明感のある人気若手女優、といった雰囲気で、明日から朝ドラに出てきてもなんの違和感もない。

 それで、去年全日本選手権で優勝したもんだから、さあ世間がほっとかないってわけだ。

 といっても人気の割に、スケートの方はたいしことない。確かに、昨年は全日本選手権とグランプリアメリカで優勝したが、それも俺に言わせれば、手堅い演技でこぼれ玉を拾ったに過ぎない。実際世界選手権は12位だったわけだし。彼女ぐらいの演技をする選手は、世界を見渡せば掃いて捨てるほどいる。

 その華やかな容姿故にスケートを知らない一般人に騒がれているというだけの選手なのだ。

「それにしても、こんな時期にコーチを変えるなんてなんかあったのか」

「ま、いろいろあるのよ」

 あれだな、実はあんなに可愛い顔して、めちゃくちゃ問題児なんだな、きっと。性格悪すぎて、コーチに捨てられたのか。なるほど。

「まぁその話は後でまたするとして、とりあえず練習しようか」

「あーい」

 基本的に、神崎コーチに見てらもらうのは、演技全体の質だ。

 個人的には、フィギュアスケートにおいて最も重要な要素はジャンプだと思っている。実際、フィギュアスケートで演技中に行われるエレメンツのうち、半分以上はジャンプで、その得点もスピンやステップよりはるかに高い。

 だが、難しいジャンプを決めれば勝てるというほど、フィギュアスケートは簡単なものでない。

 もちろん基礎点の小さいスピンやステップもおろそかにはできないし、演技全体の流れや密度といったところも大事になってくる。そのあたりのバランスをコーチに客観視してもらうのだ。

「まずはフリー、通しでやってみようか」

 フィギュアスケートの試合は基本的にショートプログラムとフリースケーティングの2つのプログラムで競われる。

 ショートとフリーは、演技時間の長さと、行うエレメンツ(技)の数が違う。男子だと、ショートは3分弱で7つの技を、フリーは4分半で13個までの技をこなす。

「じゃぁ、30秒後に曲流すよー」

 今すぐに曲を流さないのは、できるだけ本番と同じようにするためだ。

 試合では、名前がコールされてから30秒以内に演技を始めなければいけないのだが、その30秒の使い方次第で、演技への集中力が変わってくる。だから直前に集中力を高めるところまで含めて練習したいのだ。

 毎日の練習を少しでも本番に近づけることが肝要ってわけ。

 ――曲が流れ始める。

 今季、俺のフリーの曲は映画『グラディエーター』のサンウンドトラック。

 戦を予感させる、壮大なイントロから、最初のジャンプへ向かっていく。

 最高難易度のジャンプ――四回転クワドラプルトウループ。現在、男子がやるジャンプの中では、最も難しいジャンプだ。この技をプログラムに組み込み、高い確率で成功できる選手は、世界中を見渡しても片手で数えるほどしかいない。

 そしてその一人が、この俺、高橋勝也なのだ。

 徐々にスピードを上げていいく。

 身体の中心に一本の強い軸を作り上げる。後は、勢い良くターン。左足のトウ(スケート靴のブレードの先端部分)を氷に突き刺し、右足で踏切る。

 舞い上がり、四回転――

 完璧に着氷したときの爽快感といったらない。

 世界チャンピオンの俺にでさえ、四回転は難しいジャンプだ。助走、テイクオフ、空中姿勢、飛距離、高さ、ランディング、どこか一つでも噛み合わなければたちまち転倒してしまう。だが、逆にそのギリギリさが、自分を含めた全ての人をゾクゾクさせるのだ。

 最初がうまく行くと、残りの4分も気持ちよくいく。8つのジャンプ全てを完璧に着氷。最後のステップにも気持ちが入る。

 一通り曲が終わり、一息つくと、

「勝也兄ちゃんすごーい!」

 甲高い声が、リンクに響きわたった。見ると、リンクサイドで一人の少女が俺の方に拍手を送っていた。

 白野雪。

 齢10歳。小学生の平均身長は知らないが、多分小柄な方だろう。ポニーテールが特徴の可愛い妹弟子だ。

 彼女がフィギュアスケートを始めたのは8歳と、正直“早くはない”。一流選手の多くは、4歳・5歳と小学性になる前からスケートを始めていることが多い。その中で、彼女はやや出遅れているのだ。

 だが彼女は才能に恵まれ、しかも努力家だ。だから日々めきめき上達している。いずれ日本のスケート界を背負って立つ選手になると俺は確信している。

「そうだろ、スゴいだろ。なにせ世界チャンピオンだからな」

「どうやったら、兄ちゃんみたいに強くなれる?」

「そりゃ、難しいジャンプを跳べるようになるしかないぞ」 

「じゃぁ今度の大会でゼーッタイ、トリプルルッツ成功させるッ!」

 トリプルルッツは女子にとっては、事実上最高難易度のジャンプだ。

 スケートの靴にはブレードと呼ばれる刃がついているが、その刃の内側をインエッジ、外側をアウトエッジと呼ぶ。

 スケートをするときは、インエッジかアウトエッジのどちらか片方に体重を乗せて滑るのが基本となる。そしてエッジに乗って滑った場合、まっすぐではなくカーブをしながら進む(どっちのエッジにも乗っていないとまっすぐ進む。これをフラットエッジと呼ぶ)。

 フィギュアスケートのジャンプは主に6種類あるが、それらは跳びあがる時に、どの足の、どちらのエッジで踏み切るかで区別される。

 後向きで、左足で踏み切って跳ぶジャンプは、2種類ある。左足のアウトエッジに乗って踏み切ればルッツ。逆にインエッジに乗って踏み切ればフリップとなる。 

 そして、フリップよりもルッツのほうが難しい。

 左のインエッジに乗る場合、身体は時計回りに進んでいく。だが、ジャンプは反時計回りに回転する。

 身体は時計回りにカーブを描きながら進んでいるのに、跳ぶ瞬間から反時計回りに回転しなければならない。

 つまり、ルッツジャンプは、物理的な流れを無視したジャンプになのだ。

 それゆえに、ルッツはアクセル以外の4種類よりも難しい。トリプルルッツは、男子なら跳べて当然だが、女子だと世界選手権の上位を争うような選手でも跳べなかったりするほどだ。

 そんなジャンプに、このユキという少女はスケートを初めてたった2年で挑んでいるのだ。これは並大抵な事ではない。

「トリプルルッツが跳べたらカッコイイな」

「勝也兄ちゃんがルッツキングだから、ルッツクイーンになる!」

 そう、この子がルッツに拘るのは、俺の得意ジャンプがルッツだからだ。

 この間の世界大会フリーでは、四回転ルッツに挑み、不完全ながら着氷もしている(四回転ルッツは世界でまだ成功例のない幻のジャンプだが、初めに四回転ルッツを決めるのは、この俺だと確信している)

「俺も負けないように四回転ルッツの練習するからな。ユキもバンバン挑戦してけ! 転んでもいいぞ。とにかく跳べ」

「うん!」

「限界に挑むのがフィギュアスケートだからな」

「うん!」


 ♪

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