無所有の楽園で知る世界の広さ
蝉の時雨が学園宿舎を包む夏の終わり、田代ひかる(13)は小さなボストンバッグ一つを手に「カワギシ学園」の門をくぐった。
通された畳の部屋にはテレビも家具もなく、布団は押し入れの中にきれいに収められていた。
壁に立てかけられた自分の荷物を見つめながら、ひかるは「どうして自分がこんな場所にいるのだろう」と、遠い目になった。
――すべての始まりは、ひかるが小学校低学年の頃だった。
母親の長年の友人である近所の「ママ友」が、小さなダンボール箱を抱えて家に遊びに来たことだった。
「これ、友達から教えてもらったの。『カワギシ』の農場から取り寄せたお野菜なんだけど、食べてみて! 農薬や化学肥料は最低限しか使ってないから、味が全然違うのよ」
テーブルに並べられたのは、不揃いだけど力強い泥のついた人参や、鮮やかな緑色のほうれん草だった。
当時、ひかるの偏食やアトピー気味な肌に悩んでいた母親は、「体に良いもの」「本物のオーガニック食品」という言葉に強く惹きつけられた。
さっそく夕食の味噌汁や炒め物にその野菜を使ってみると、確かに甘みが強く、ひかるも「美味しい!」とおかわりをした。
母親の顔がぱっと華やいだのを、ひかるは今でもよく覚えている。
「やっぱり、自然のまま育てられたものは体にいいのね。ひかるの体のためにも、もっとちゃんと食生活を見直さなきゃ」
友人との会話は、最初は単なる「美味しい野菜の買い方」だった。
しかし、友人に勧められるまま地域での販売会や集会に足を運ぶうちに、母親の関心は「野菜」から、それを育てる「カワギシの生き方」そのものへと急速にシフトしていった。
「ねえ、ひかる。カワギシの人たちはね、みんなで助け合って、自然と共に暮らしているの。私たちが普段気にしている『自分だけのもの』とか『お金』にとらわれない、本当に美しい生き方なのよ」
友人に背中を押され、目を輝かせながらそう語る母親の姿を、ひかるはどこか誇らしく、同時に少しだけ遠く感じていた。
あの時は、大好きな母親が自分のために選んでくれた「体に良い美味しい野菜」だったはずだった。
それが巡り巡って、巡り巡って自分をこの学園へと導く長い道のりの、最初の一歩になるとは、当時のひかるは思いもしなかった。
そして中学に入り、周囲の空気になじめず行き詰まっていたひかるに、母親は迷わず「カワギシ学園」への入学を勧めたのだった。
「ひかるちゃん、今日からよろしくね!」
案内してくれた紬の声で、ひかるはハッと我に返った。
現金の持ち込みは禁止。許可されたのは服や文房具、わずかな私物だけ。
覚悟を決めてバッグのジッパーを開け、荷解きを始めたひかるは、次の瞬間青ざめることになる。
大事に持ってきた家族の写真立て、愛用のヘアブラシ、そして内緒で底に隠していた現金がなくなっていたのだ。
犯人は同世代の仲間でも、泥棒でもなかった。
大人が「私物チェック」と称して勝手に部屋に入り、持ち去っていたのだ。
隠していた現金が見つかったことで、ひかるは世話係の大人からキツく怒られ、食事の時間まで誰とも会うことを許されず、一人個室に軟禁され世話係が持ってきた弁当を食べた。
最初は戸惑いばかりだった。
スマホもない、個人のプライベートも曖昧な世界。
しかし翌日からの暮らしは、想像していた暗いものとは少し違っていた。
子どもたちの日常そのものはどこか明るく、活気に満ちあふれていたのだ。
「ひかるちゃん、見て! このトマト、すごく赤くて美味しそうだよ!」
日焼けした顔をほころばせながら紬が声をかけてきた。
広大な畑には、中等部生たちの賑やかな話し声と弾けるような笑い声が響いている。
ここでの暮らしは、自分たちの手で作り上げる「自主性」に満ちていた。
テレビや漫画といった大人の作った娯楽はない。
だからこそ、子どもたちは自分たちで楽しみを見つけ出す天才だった。
図書室にある数少ない本をみんなで回し読みして感想を語り合ったり、作業の合間に敷地内を個人の自転車で風を切って駆け抜けたり。
工夫次第でどんな時間も遊びに変わった。
「洗い終わった洗濯物」をコンテナから個人の棚へ手際よく服を振り分ける作業も、まるでゲームのようだった。
「はい、ひかるちゃんの Tシャツ!」「あ、それ私の!」と声を掛け合い、あっという間に終わらせてしまう。
そして何より、みんなが心待ちにしているのが食事の時間だった。
「今日の採れたてナス、めちゃくちゃ美味しい!」
「おかわり、まだあるかな?」
自分たちで汗を流して収穫した野菜や、搾りたての牛乳が並ぶテーブルは、いつだって大にぎわいだった。
自分たちの手で生活を動かしているという実感が、料理の味をより一層特別なものにしていた。
一日の終わり、みんなでゾロゾロと向かう大浴場も一番の楽しみだった。
大きな湯船にドブンと飛び込み、一日の汗を流しながら「今日の作業、あそこが大変だったよね」「明日の自由時間、何する?」と湯気の中で無邪気なおしゃべりが弾む。
夜、6人部屋に二人一組で敷いたダブルの布団に入り込むと、隣の紬のぬくもりが伝わってきた。
「ひかるちゃん、おやすみ」
「うん、おやすみ」
理不尽なルールや監視の目が背後に存在しているのは確かだった。
それでも、仲間たちと汗を流し、笑い合い、自主的に助け合って生きる毎日の生き生きとした楽しさもまた、嘘偽りのない本当の現実だった。
朝6時に起き実学と呼ばれる作業をこなし、美味しい食事をとり、搾りたての牛乳を飲み、仲間と語り合う「研鑽」の時間を重ねるうちに、ひかるの心からトゲが消えていった。
誰も人を評価せず、ただそこに存在する命を認め合う空気。
「ここには、私を縛るものが何もないのかもしれない」
ある夕暮れ、牧草地に寝転びながらひかるが呟くと、隣にいた紬が優しく笑った。
夕日が山肌を赤く染めていく。
中学1年生の秋、ひかるは「自分だけのもの」を手放した代わりに、今まで感じたことのない世界の広さを知りはじめていた。




