第五話 次の脚本
最終話です。どうか、最後まで見届けてくださいませ。
沈黙を破ったのは、リゼットの方だった。
「……お戯れが過ぎますわ、殿下」
声が、自分でも情けないほど震えていた。前世でも今世でも、これほど台詞に詰まったことは一度も無かった。
「戯れではない」
ユリウスは、まっすぐにリゼットを見つめたまま、一歩詰め寄った。
「君が、どれほど周到にこの茶番を仕組んだかは、もう分かっている。だが――その周到さの裏に、私やミアを想う気持ちがあったことも、同じくらいよく分かった」
「……それは」
「聞かせてくれ。君は、なぜここまでする?自分が悪役を演じてまで」
リゼットは、扇を握る手を、そっと下ろした。もう隠す舞台装置は、何も残っていない。夜風が、二人の間の沈黙を静かに揺らしていた。
「……わたくし、前世は売れない脚本家兼演出家でしたの」
静かに、リゼットは語り始めた。まさか自分の口から前世を語る日が来るとは、思ってもいなかった。
「十年以上、誰にも読まれない台本を書き続けて、満席になったことすら一度もございませんでしたわ。それでも、書くことをやめられませんでした」
ミアが、息を呑んでその話に耳を傾けている。
「この世界に来て、殿下とミア様の物語を知った時――お二人の間にすれ違いがあることに、気づいてしまいましたの。それを見過ごせなかった。誰かのために、まともに機能する脚本を書きたかった。それだけですわ」
「――それだけ、か」
ユリウスは、小さく笑った。今まで見たことのない、柔らかな表情だった。
「私は、そんな脚本、望んでいなかった」
「え……」
「私が望んでいたのは、君自身の物語だ。他人の恋のために自分を悪役に仕立てる君ではなく、自分のために生きる君を見たかった」
その一言に、リゼットの中で、何かが崩れる音がした。前世からずっと、他人の物語を作ることでしか、自分の存在価値を感じられなかった女の、固く閉じていた何かが。
「わたくし……」
言葉が続かない。
「殿下」
ミアが、静かに口を挟んだ。
「わたし……」
ミアは、しばらく俯いたまま、自分の胸の内を探るように黙り込んだ。
「ずっと、これが恋だと思い込もうとしていました。でも、本当は違う気がしていて……その違和感に、ずっと蓋をしていたんです」
やがて顔を上げたミアの表情には、迷いの晴れたような穏やかさがあった。
「殿下への想いは、恋ではなく、憧れでした。だから、大丈夫です。殿下の隣に立つべき方は、リゼット様なのだと、今なら分かります」
「ミア様……」
リゼットは、目の奥が熱くなるのを感じた。誰かのために作った舞台のはずが、いつの間にか、自分自身の物語の幕が上がっていたことに、ようやく気づいた。
「リゼット」
ユリウスが、リゼットの前に片膝をついた。周囲でこの様子を遠巻きに見ていた貴族たちが、思わず息を呑む気配が伝わってくる。
「私と、本当の意味で婚約してほしい。台本のない、誰にも決められていない物語を、これから二人で作っていきたい」
リゼットは、しばらく声も出せなかった。
脚本家としての人生で、これほど台詞に詰まったことは無い。だが、それでいいのだと、初めて思えた。台本の無い舞台に、こんなにも心が震えることを、彼女はまだ知らなかった。
「……台本のない舞台は、少し怖いですわ」
リゼットは、震える声で、それでも笑って答えた。
「ですが――望むところですわ。次の脚本は、殿下と一緒に書かせていただきますわ」
ユリウスが、心底ほっとしたように微笑んだ。その表情は、これまで彼女が見てきたどの「王太子」の顔よりも、ずっと人間らしいものだった。
「よろしくお願いします、殿下」
その時、少し離れた場所で成り行きを見守っていたミアが、小さく拍手をした。
「おめでとうございます、殿下、リゼット様。……なんだか、これでいいんだって、思えます」
ミアの声には、迷いの晴れた清々しさがあった。誰かの物語の脇役になることを恐れていたはずのミアが、今はもう、自分自身の物語を歩き出そうとしているように見えた。
中庭に、穏やかな拍手が広がった。証人として集められたはずの貴族たちは、いつの間にか、本物の祝福を送る観客になっていた。遠くで、アンナが目元を拭っているのが見えた。
リゼットは、扇を静かに閉じた。
(――幕が下りた。でも、これで終わりではありませんわね)
次の物語の一行目を、リゼットはまだ書いていない。
だが、それでいい。台本の無い明日を、これから誰かと一緒に書いていけることが、こんなにも心を弾ませるのだと、初めて知ったから。
「殿下、次の脚本ですけれど――一緒に書いてくださいませんこと?」
リゼットの問いに、ユリウスは迷わず頷いた。
「喜んで」
月明かりの下、二人の影が並んで長く伸びていた。誰の台本にも書かれていない、まっさらな明日に向かって。
* * *
それから数週間後。
「殿下、こちらの案はいかがですかしら。次の夜会で、若い令嬢たちの縁談を後押しする趣向を考えておりますの」
「――また、何か企んでいるのか」
執務室の机で書類を捲っていたユリウスは、呆れたような、それでいてどこか楽しそうな声で応じた。
「企むだなんて人聞きの悪い。演出、ですわ」
リゼットは、紙に書きつけた案をユリウスの前に広げてみせた。羽根ペンを握る手つきは、あの夜と変わらず、生き生きとしている。
「まったく、君の脚本はいつも大掛かりだ」
「ふふ、殿下との共同執筆ですもの。手を抜くわけには参りませんわ」
「――君の腕前は、身をもって思い知らされたからな」
ユリウスが、からかうように口の端を上げた。あの夜会での鮮やかな仕込みを思い出したのか、その声にはどこか降参したような響きがあった。
扉が開き、アンナが茶器を運んできた。
「お二人とも、随分と仲が良いご様子で」
「アンナ、あなたまで揶揄いますの」
リゼットが眉を寄せると、アンナはくすりと笑って一礼し、静かに部屋を出ていった。ユリウスは、その背中を見送りながら、小さく笑い声を漏らす。
「――前世の話、少しは聞かせてくれるようになったな」
「殿下がしつこく尋ねるからですわ」
「もっと聞きたい。君がどんな舞台を作ってきたのか、一つ残らず」
その言葉に、リゼットは束の間、言葉を失った。誰かに自分の過去を、そんな風に望まれたことは、前世を含めても一度も無かった。
「――かしこまりましたわ。長くなりますことよ」
窓の外では、穏やかな午後の光が差し込んでいた。台本のない毎日は、思っていたよりもずっと賑やかで、そして――ずっと楽しかった。
最終話、いかがだったでしょうか。
婚約破棄イベントを「回避」でも「見返し」でもなく「自分で演出する」ヒロインの物語、駆け足でしたがここに完結です。読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




