第一話 脚本家、悪役令嬢に転生する
婚約破棄イベント、そろそろですわよね。
「――リゼット嬢、少しよろしいか」
夜会の片隅、声をかけられた瞬間、リゼット・ヴァイセンブルクは頭の奥で、忘れかけていた前世の記憶が弾けるのを感じた。シャンデリアの光が、磨き抜かれた大理石の床に反射して揺れている。楽団の奏でる優雅な三拍子に合わせ、着飾った令嬢たちが囁き交わす声が、夜会の広間に低く満ちていた。
(――ああ、この台詞。知ってますわ)
目の前に立つ婚約者、ユリウス・グランヴェイル王太子の硬い横顔。その後ろで、おろおろと視線を彷徨わせる聖女ミア・ハーヴェイ。
そして自分。
完璧な淑女として振る舞ってきた公爵令嬢リゼットの体に、二十六年間、日の目を見なかった脚本家の魂が宿っていることを、目の前の二人はまだ知らない。
「話とは?」
リゼットは、扇の陰で静かに微笑んだ。心の中では、猛烈な勢いで記憶を掘り起こしていた。
(これ、『聖華のプリンセス』の第三章、婚約破棄イベント。ここでユリウス様が「婚約を解消したい」と切り出して、わたくしが逆上して醜態を晒し、断罪されて国外追放される流れのはず……!)
前世、売れない小劇団で脚本と演出を兼任していた彼女にとって、この乙女ゲームは何周もプレイした思い出深い作品だった。台詞回しも、立ち絵の角度が変わる瞬間も、今でも鮮明に思い出せる。
三十歳を目前にして、書いた脚本はどれも小さな劇場を満席にすることすらできず、稽古場の隅で台本を書き直し続けた日々。最後に手掛けた芝居の初日は、観客席にわずか三人しか座っていなかった。それでも幕を下ろさなかったのは、意地というより、他にできることが何も無かったからだ。誰にも読まれない脚本を、それでも諦めきれずに書き続けていた。
その人生は、駅の階段から足を踏み外したところで、唐突に終わった。
まさか、その続きが、まったく別の世界の、しかも自分が何度も遊んだ乙女ゲームの中で始まるとは、想像すらしていなかった。
最初にこの世界で目を覚ました日、リゼットはしばらく声も出せなかった。天蓋付きの寝台、見知らぬ天井画、鏡に映る見知らぬ美しい少女の顔。誰にも顧みられなかった前世の自分と、何もかもを持っているはずの公爵令嬢という今世の自分。その落差に、笑っていいのか泣いていいのかも分からなかった。
公爵である父は、政務に忙殺され、娘の内面に興味を向ける余裕など無かった。完璧な淑女としての振る舞いさえ身につけていれば、それで十分だと言わんばかりの距離感。誰にも深く踏み込まれない生活は、ある意味で、前世の孤独な創作生活とよく似ていた。
それでも七年かけて、少しずつ折り合いをつけてきたつもりだった。淑女教育に励み、社交界での立ち振る舞いを覚え、公爵令嬢リゼットとして生きることに、ようやく慣れてきたところだった。
だが今は、プレイヤーではない。
舞台に立たされる、当の『悪役』だ。
「今日のところは、まだいい」
ユリウスはそう言うと、話を切り上げて踵を返した。ミアが慌てたようにその後を追いかける。二人の後ろ姿を見送りながら、周囲の令嬢たちが扇の下でひそひそと囁き合う気配が伝わってきた。
残されたリゼットは、扇を閉じ、小さく息を吐いた。
思えば、今日の夕刻からずっと、妙な胸騒ぎがあった。夜会の支度で鏡の前に立ち、侍女の手で髪を結い上げられながら、鏡に映る自分の顔をじっと見つめていた時のことだ。完璧な淑女の仮面。その下に、誰にも見せたことのない素顔が隠れている――今夜も、いつも通りの夜会のはずでしたのに。長年の勘というものは、馬鹿にできないらしい。
(――「今日のところは」ってことは、本番は数日以内。準備期間、そんなにありませんわね)
屋敷へ戻る馬車の中、リゼットは窓の外を流れる夜の街並みを眺めながら、静かに算段を立て始めていた。石畳を照らす街灯の光が、規則正しい間隔で車内を過ぎていく。
このイベントを回避しようとは、微塵も思わなかった。
なぜなら、これは物語の『必要な転換点』だからだ。ユリウスとミアが本当の意味で向き合うためには、この婚約破棄という舞台を、誰かが用意してやらなければならない。ゲームのシナリオ通りに進めば、リゼットは醜く取り乱し、断罪され、国外追放される。それは物語としては予定調和だが――脚本家としての目から見れば、あまりにも粗い展開だった。
ふと、前世の恩師の顔が思い浮かんだ。若い頃に師事した老演出家は、生涯無名のまま、小さな稽古場で息を引き取った。「誰にも評価されなくても、舞台を作ることそのものに意味がある」と、いつも笑って言っていた師の言葉を、リゼットは長らく綺麗事だと思っていた。
だが今、こうして誰かのために脚本を書こうとしている自分がいる。認められるかどうかではなく、誰かの物語を最後まで見届けたいという気持ちが、確かに胸の中にあった。
(前世、何十本と舞台を作ってきましたもの。台本もない、演出もない、素人の即興劇に付き合わされるくらいなら――)
リゼットは、馬車の窓に映る自分の顔を見つめた。
(誰にも認められなかった脚本家の人生に、意味なんて無かったと思っていましたわ。でも――)
「わたくしが、台本を書いて差し上げますわ」
その声には、これまでの完璧な令嬢としての仮面には無かった、どこか楽しげな響きが滲んでいた。
――もっとも、もし演出に失敗すれば、断罪される役どころは自分自身のままだ。舞台裏に回ったつもりでも、脚本が破綻すれば、真っ先に舞台へ引きずり出されるのは演出家その人だということを、リゼットは前世で嫌というほど思い知っていた。楽しげな高揚感の裏で、その恐れだけは静かに胸の奥に居座り続けていた。
最後に誰かのために幕を上げられるのなら、あの人生も、まるきり無駄ではなかったのかもしれない。そんな気がした。
屋敷に着くなり、リゼットは自室の椅子に腰を下ろし、しばらく天井を見上げていた。窓の外では、夜警の巡回する足音が、遠くから規則正しく響いている。
脚本家として、これほど気合の入る依頼は久しぶりだった。同時に、これほど失敗が許されない舞台も、初めてだった。
もし演出に綻びが出れば、ユリウスとミアの未来はもちろん、自分自身の立場も危うくなる。国外追放どころでは済まないかもしれない。証人の選定、台詞の説得力、当日の天候や時間帯まで――計算すべき要素は山のようにあった。
それでも――と、リゼットは静かに笑った。
「わたくし、腕は落ちていませんことよ」
机の引き出しから、真新しい紙の束を取り出す。羽根ペンを握る手には、前世で何百枚と原稿用紙を埋めてきた記憶が、確かに宿っていた。指先が紙の上を滑る感触に、懐かしさで胸が熱くなる。
「――さあ、幕を上げましょうか」
窓の外、月明かりが、決意を固めた令嬢の横顔を静かに照らしていた。遠くで鳴る鐘の音が、まるで開演の合図のように、静かな夜に響いていった。
第一話、いかがだったでしょうか。
婚約破棄イベントを「回避」でも「見返し」でもなく「自分で演出する」という、ちょっと変わった悪役令嬢のお話を書いてみました。次話では、いよいよ本番に向けた準備が本格化していきます。
最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




