第1話 昨日、ダンジョン行ってた
六時間目が終わった瞬間、教室の空気が一気にほどけた。
椅子を引く音。鞄のファスナーを開ける音。部活へ急ぐ子たちの声。
黒板の前では日直が面倒そうに文字を消していて、窓から差し込む午後の日差しが、その粉っぽい空気を白く照らしている。
「今日、数学の宿題あったっけ」
みつみは机の横に掛けていた鞄を膝の上へ持ち上げながら言った。
隣の席でスマホを見ていた千尋が、顔を上げる。
「あるよ」
「うそ」
「プリント」
「もらってない」
「もらってた」
「やば」
「みつみ、先生から直接もらってたじゃん」
「うそでしょ」
「マジ」
言われて、みつみは鞄の中を探した。
教科書。ノート。ペンケース。丸めたコンビニの袋。
その下から、二つ折りになったプリントが出てくる。
「あった」
「あるじゃん」
「なんで知ってるの」
「見てたから」
「教えてよ」
「今教えたじゃん」
「もらったときに!」
千尋が笑った。
入学して、まだ一か月も経っていない。
クラスにはまだ、話したことのない子もいる。
けれど千尋とは、いつの間にかこうなっていた。
最初に何を話したのか、みつみはもうよく覚えていない。
席が近かったからだったか、移動教室で一緒になったからだったか。
気づけば休み時間に話すようになって、昼も一緒に食べるようになっていた。
「ね、これ見て」
千尋がスマホを差し出した。
画面には、エプロン姿の女の子が映っていた。
フライパンから皿へ、きれいにオムライスを移そうとしている。
ひっくり返す。
オムライスが皿を飛び越えた。
二人とも黙った。
動画の中の女の子も黙っている。
「……どこいった?」
「床」
「終わったじゃん」
「このあと見て」
女の子が画面の外へ消える。
数秒後。
新しい皿を持って戻ってきた。
そこには、何事もなかったかのように完成したオムライスが載っている。
『できました』
「できてないじゃん!」
みつみが笑った。
「そこ好き」
「絶対別のやつ作ったでしょ」
「コメントも見て」
『床のやつは?』
「みんな気にしてんじゃん」
二人でしばらくコメント欄を眺める。
「なんかお腹すいてきた」
「オムライスで?」
「うん」
「床に落ちたのに?」
「落ちる前は美味しそうだったし」
「そこだけ切り取るんだ」
みつみはスマホを返した。
「ていうか昨日、マジで何もしなかった」
「急になに?」
「こういうのずっと見てた」
「一日?」
「ほぼ。昼まで寝て、起きてなんか食べて、またゴロゴロして」
「もったいな」
「だって日曜だよ? 日曜って何もしないためにあるんじゃないの」
「そうかな」
「千尋は何してたの?」
千尋は少し考えた。
「昨日?」
「うん」
「午前中ダンジョン行って、帰りにラーメン食べて帰った」
「へえ」
みつみは頷いた。
そのまま鞄のファスナーを閉める。
「ラーメンいいな。何系?」
「味噌」
「いいじゃん」
「美味しかったよ」
「いいなー。私もなんか食べて帰ろっかな」
「行く?」
「今日?」
「うん」
「お金ない」
「じゃ無理じゃん」
「千尋おごって」
「やだ」
「ケチ」
「なんで私が」
そこで、みつみの手が止まった。
数秒前の会話が、頭の中を逆向きに戻っていく。
昨日。
千尋。
午前中。
ラーメン。
その前。
「……待って」
「ん?」
「今なんて言った?」
「味噌?」
「その前」
「ラーメン?」
「もっと前」
千尋が首を傾げる。
「ダンジョン?」
「それ」
「うん」
「ダンジョン?」
「うん」
「行ったの?」
「行ったよ」
「昨日?」
「昨日」
「千尋が?」
「私が」
みつみは千尋を見た。
千尋もみつみを見る。
「……え、千尋ってダンジョン行く人なの?」
「行く人って何」
「いや、だって」
みつみは千尋を上から下まで見た。
制服。
スカート。
ローファー。
いつもの千尋。
もちろん学校なので当たり前なのだが、どう見てもダンジョンから帰ってきた人には見えない。
「いつから?」
「中学んときから」
「えっ」
「たまにだけどね」
「初めて聞いたんだけど」
「言ってないし」
「なんで言わないの?」
「聞かれてないから」
「普通言わなくない?」
「だから言ってなかったんだけど」
「あ、そっか」
納得しかけて、やっぱり納得できない。
ダンジョン。
もちろん、知っている。
ニュースでも見るし、ネットにも動画は山ほどある。
駅で大きなリュックを背負った探索者を見かけたことだってある。
けれど、それはどこか、自分とは関係のない人たちがやるものだった。
登山とか、キャンプとか、スキューバダイビングとか。
存在は知っている。
やっている人がいることも知っている。
でも、自分がやるとは思わない。
そういうもの。
そのダンジョンに、昨日まで隣でくだらない話をしていた千尋が行っていた。
「何しに行くの?」
「何しにって……探索?」
「モンスターいるんでしょ?」
「いるよ」
「戦うの?」
「戦うよ」
「千尋が?」
「だからそうだって」
みつみはまた千尋を見た。
「その目やめて」
「だって全然そんな感じしない」
「どんな感じならダンジョン行ってそうなの」
「もっとこう……」
考える。
出てこない。
「強そうな人」
「雑すぎ」
千尋が笑った。
けれど、みつみの頭にはもう別のものが浮かんでいた。
薄暗い洞窟。
ライト。
知らない道。
モンスター。
ゲームなら何度も見たことがある。
動画でも見た。
だけど、その中へ本当に入る。
「怖くない?」
「最初は怖かったよ」
「今は?」
「まあ、慣れた」
「モンスターも?」
「うん」
「何で戦うの?」
「ショートソード」
「剣!?」
みつみの声が大きくなった。
近くにいた何人かがこちらを見る。
「あ、ごめん」
声を落として、もう一度聞く。
「剣使うの?」
「使うよ」
「千尋が?」
「さっきからそれ何回目?」
「だって剣だよ?」
「ショートソード」
「同じじゃん」
「違うけど」
「剣は剣でしょ」
「まあ、剣だけど」
みつみは千尋の腰のあたりを見た。
当然、制服姿のそこに剣なんてない。
昨日、この子が剣を持ってモンスターと戦っていた。
そう考えると、急に千尋が知らない人みたいに見えてくる。
でも、目の前にいるのはいつもの千尋だった。
「ねえ、実際どんな感じなの?」
「どんなって?」
「中。ダンジョンの中」
「場所によるよ」
「昨日行ったとこは?」
「洞窟っぽいとこ」
「暗い?」
「暗い」
「やっぱ暗いんだ」
「洞窟っぽいからね」
「スマホのライト?」
「それはやめた方がいい」
「なんで?」
「バッテリーなくなるじゃん」
「あ、そっか」
「ライトは別に持ってく」
「なるほど」
聞けば聞くほど、みつみの知っているゲームのダンジョンから離れていく。
もっと不思議な場所だと思っていた。
実際、不思議な場所には違いないのだろう。
けれど千尋の口から出てくるのは、ライトとか、靴とか、荷物とか、妙に現実的な話ばかりだった。
「宝箱とかある?」
「あるとこにはある」
「マジで!?」
「また声でかい」
「あ、ごめん。だって宝箱だよ?」
「うん」
「開けたことある?」
「あるよ」
「何入ってた?」
「ポーション」
「おおー!」
「と、銅貨」
「ゲームじゃん」
「ダンジョンだからね」
「すご」
さっきまで帰ったら何を食べようか考えていたのに、もうどうでもよくなっていた。
「モンスター倒したらなんか落とす?」
「落とすこともあるよ」
「レアドロとか?」
「ある」
「レベルは?」
「ある」
「魔法は?」
「ある」
みつみは黙った。
千尋が笑う。
「なに」
「いや……」
「うん」
「めっちゃ楽しそうじゃん」
「楽しいよ」
即答だった。
その一言だけ、千尋の声が少し弾んだ気がした。
みつみはそれを聞き逃さなかった。
「そんな楽しいの?」
「私は好き」
「へえー……」
千尋は鞄を肩に掛けた。
「帰んないの?」
「あ、帰る」
みつみも立ち上がる。
二人で教室を出た。
廊下には部活へ向かう生徒が行き交っていた。
運動部らしい子たちが階段を駆け下り、誰かが先生に「走るな」と怒られている。
いつもの放課後。
その中を歩きながらも、みつみの頭からダンジョンが離れなかった。
「ねえ」
「ん?」
「ダンジョンって、誰でも入れるの?」
「条件はあるよ」
「高校生でも?」
「入れる」
「危なくない?」
「危ないよ」
「危ないんじゃん」
「ダンジョンだし」
「いや、もっとこう、大丈夫だよとか言ってよ」
「大丈夫って言って危なかったら嫌じゃん」
「それはそうだけど」
階段を下りる。
「でも初心者向けのところもあるし、ちゃんと準備して無茶しなきゃ、そんな怖がるほどじゃないよ」
「へえ……」
「興味あるの?」
「え?」
「さっきからめっちゃ聞くじゃん」
言われて、みつみは口を閉じた。
興味。
ある。
たぶん、かなり。
ダンジョンというもの自体は、ずっと前から知っていた。
テレビで見ても、動画で見ても、自分が行こうと思ったことは一度もない。
なのに。
千尋が行っている。
それだけで急に、自分にも行ける場所のように思えてきた。
「……ちょっと」
「ちょっと?」
「結構」
「どっち」
「結構ある」
千尋が笑った。
昇降口で靴を履き替える。
外へ出ると、四月の午後の空気が少しだけ冷たかった。
校門へ向かう生徒たちの中に混じって、二人で歩く。
「ねえ、千尋」
「ん?」
「私でも行ける?」
千尋がみつみを見る。
「ダンジョン?」
「うん」
「行けると思うよ」
「ほんとに?」
「初心者向けなら」
「私、運動そんな得意じゃないよ」
「知ってる」
「ひど」
「体育見てたし」
「じゃあ無理じゃん」
「別に運動部じゃなきゃ入れない場所じゃないし」
「でもモンスターいるんでしょ?」
「いる」
「戦えるかな」
「最初から一人で戦わせたりしないよ」
その言葉に、みつみは一瞬だけ黙った。
「……一緒に行ってくれるの?」
「行きたいなら」
「行きたい」
今度は、考える前に口から出た。
千尋が少し目を丸くする。
「即答じゃん」
「だって気になるし」
「じゃ、今度行こっか」
「マジ?」
「うん」
「いつ?」
「いつがいい?」
「今週」
「急だな」
「ダメ?」
「準備いるよ」
「あ、そっか」
みつみは少し考える。
ダンジョンへ行く。
自分が。
まだ全然実感がない。
でも、想像しただけで少しわくわくする。
「何準備すればいい?」
「まず靴」
「靴?」
「歩きやすいやつ」
「剣じゃないの?」
「剣より先に靴」
「ダンジョンなのに?」
「ダンジョンだから」
「武器は?」
「みつみはまだいいよ」
「えー、なんか持ちたい」
「危ないからダメ」
「千尋は剣持ってるじゃん」
「私は使えるから」
「ずるい」
「ずるくない」
校門を出る。
いつもの道。
いつもの放課後。
昨日までなら、家に帰ってスマホを見て、適当に時間を潰して、それで一日が終わっていた。
でも今日は違った。
次の休みに、自分はダンジョンへ行くかもしれない。
「ねえ、服は?」
「動きやすいやつ」
「ジャージ?」
「別にジャージでもいいけど」
「ダサくない?」
「ダンジョンに何しに行く気?」
「写真撮るかもしれないじゃん」
「そこ気にする?」
「気にするでしょ」
「じゃあ自分で考えて」
「千尋、何着てる?」
「普通」
「普通って何」
「動きやすいやつ」
「参考にならない」
「じゃあ今度見せる」
「見たい」
話したいことが、次から次へと出てくる。
ライトは。
鞄は。
食べ物は。
モンスターは。
宝箱は。
何時間くらいいるのか。
帰ってくる頃には疲れているのか。
千尋は一つずつ答えて、ときどき「それは行けば分かる」と笑った。
いつもと同じ帰り道なのに、今日は妙に短く感じた。
ダンジョン。
自分がそこへ行くなんて、今朝までは考えたこともなかった。
「ねえ、千尋」
「なに?」
「やっぱちょっと楽しみかも」
「まだ行ってもないのに?」
「だから楽しみなんじゃん」
千尋が笑った。
みつみも笑う。
次の休みが、少しだけ待ち遠しくなった。
次回、ダンジョン用の装備ってなに?
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