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グレーゾーンな恋人  作者: 久遠夏目
第四章 たった一つの願い事
31/32

07

「さて、と。では、わたしはこれで失礼しますね」


 握っていた手を離し、ふわり、とぼくたちからも離れてゆく天ヶ原さん。


「待って、どこへ行くつもり?」

「もちろん、神様のところへ帰るのですよ。わたしの使命は遂行されましたから」


 黒羽に呼び止められて振り返った天ヶ原さんは、至極当たり前だとでもいうようなカオで笑った。そこで、ぼくには一つの疑問が浮かぶ。


「そういえば、いつ記憶が戻ったの?」


 ぼくはデートの終盤に「神様」という単語を使って彼女の記憶を取り戻そうとしたけれど、それが成功したという実感はまったくない。

 しかし、そんな微妙なタイミングで黒羽が現れたせいか、彼女が天使であるということを前提として(いや、天ヶ原さんが天使であることは事実なのだが、記憶を失っている天ヶ原さんにとってもすでに前提として、という意味だ)、普通に話を進めていた。

 しかも、天ヶ原さんが話を主導権を握ってからは、その発言はまさに天使そのものだったと言えるだろう。神様への篤い信仰、清く正しい態度。彼女のもともとの性格を合わせたとしても、それ以上にやはり天使なのだと確信することができた。

 だから、きっと彼女は途中で記憶を取り戻していたのだろう。では、それはいつ、どこで?


「そんなもの、最初から失ってなどいませんよ」

「……はあ?」


 またしてもさも当然だという態度の天ヶ原さんから告げられたのは、まさかの事実だった。


「記憶喪失というのは、あなたがたと接近するためのウソです。いくら神様が試練を与える存在でも、天使にまで試練を与えてもらっては困りますよ。しかも記憶喪失だなんて、仕事に支障が出ますし」

「あらあら、天使がウソをつくなんて酷い話ね」

「これも使命遂行のためには必要なことなんですよ。結果的に成功したわけですから、悪ではありません。目に見える行動が不正だとしても、行為者はよかれと思ってやっていますからね。これも一つの善ですよ」


 ち、ち、ち、と立てた人さし指を左右に動かして、自慢げに種明かしをする天ヶ原さん。

 ここに来て、彼女のイメージが崩れてきた。彼女が本当に天使なのか、逆に疑いたくなってきたくらいだ。黒羽も同じことを思ったのか、腕を組んで、はあ、と盛大なため息を漏らした。


「呆れた。あなた、本当にしたたかだわ」

「ふふ、黒羽さんみたいな人物までだませたなんて、わたし、少し自信がつきました」

「天使が『だます』なんて言っちゃいけないんじゃなくて?」

「はっ、そうですね。次から気をつけます!」

「――じゃあ、ぼくのことをすきだっていうのも、ウソだったの?」


 二人の会話に割って入り、頭の隅をかすめていたもう一つの疑問をぶつける。わずかな沈黙を破ったのは、にこっと飛びきりの笑顔を咲かせた天ヶ原さんだった。


「もちろん、ウソです!」

「……は、」

「――と言いたいところですが、それはウソではありません。最初はそういう態度をとって黒羽さんの気を引かせる作戦だったのですが、わたしに向けてくれるやさしい眼差しがとても心地よくて。わたしは、灰人さんのことが本当にすきでした」


 にこ、と笑う天ヶ原さんのカオは、ただの恋する少女のそれだった。先ほどまでの天使らしからぬ腹黒さは消え、恥ずかしそうにうっすらとほおを赤く染めている。


「でも、灰人さんが素を見せるのは黒羽さんだけなんですよね。わたしとは穏やかに話をするだけで、あっ、そこがすきでもあったんですけど、少し淋しくもありました」


 さっと曇った表情に、胸が痛む。ああ、ぼくはこんなにも純粋無垢な女ノコを傷つけてしまったのか。

 すると、しんみりした空気を打開するように、天ヶ原さんは明るい声で黒羽に話を振った。


「黒羽さんは改心させるべき対象でしたけど、わたしは黒羽さんのことも大すきだったんですよ? 悪魔だっていうわりには灰人さん以外にはとてもやさしくて、正直ちょっとびっくりしちゃいました」

「わたし、すきなコには意地悪したくなっちゃうタイプなのよね」

「えっ、ということは、わたしはすきではないと?」

「まさか。わたし、あなたにもたくさん意地悪したわ。あなたが天使だってわかって鬱陶しく思ったけれど、かわいい妹ができたみたいで楽しかったのも事実だもの」

「黒羽さん……!」


 天ヶ原さんの顔がぱあっと一気に輝き、そのまま黒羽に抱きつく。黒羽もとてもやさしいカオをして、天ヶ原さんの頭を撫でていた。うん、何かぼくがすきだとか結構どうでもよくなってきた。傷つけたのは申し訳ないと思うけど、天ヶ原さんには黒羽がいればいいんじゃないかな。

 複雑な気持ちで傍観していると、二人は名残惜しそうにゆっくりと身体を離し、今度はじっと見つめ合っているではないか。何だか自分が蚊帳の外にいるような気がして、余計に複雑だ。


「真白、色々ごめんなさいね。そして、ありがとう」

「その二言が聞けただけで、わたしは使命を遂行してよかったと思います。やっぱり、神様は正しいのですね」


 ふわり、微笑んだ天ヶ原さんが宙に浮く。羽根は生えていなかったけれど、ぼくにはそれが見えたような気がした。


「ではお二人とも、これからも仲良くしてくださいね。わたしは二人が大すきなんですから、別れたりしたらゆるしませんよ!」

「もし別れたら?」

「天罰が下ります!」

「ええ……?」


 もう脅しとも言えるセリフをきっぱりと言い放った天ヶ原さんは、もう天使なんだか悪魔なんだかわからなかった。使命遂行のために人間の中に長くまじっていると、こんなふうになってしまうのだろうか。

 だけど、これだけは伝えなければ。


「――天ヶ原さん!」

「はい、何でしょう?」

「ぼくもごめん。でも、ありがとう!」


 さらに空高く浮かんでゆく天ヶ原さんに向かって、謝罪と感謝の言葉を叫ぶ。彼女には謝っても謝りきれないし、感謝しても感謝しきれないだろう。


「当然のことをしたまでですよ。わたしは、天使ですから!」


 堂々と胸を張り、飛びきりの笑顔でそう言うと、天ヶ原さんは完全にこちらに背を向け、夕陽の中へと消えていったのだった。

 最後に意外なしたたかさを垣間見せたものの、あの気高さ、そして純粋さは、確かに天使そのものだった。


「行っちゃったな」

「淋しい?」

「まあ、な」

「あら、妬けるわね」

「お前こそどうなんだよ」

「もちろん、淋しいに決まっているじゃない」


 眉を下げ、苦笑する黒羽は本当にそう思っているのだろう。さっきも妹みたいな存在だったって言っていたし、何だかんだで二人はいいコンビだった気がする。

 まあ、それはさておき。ぼくは天ヶ原さんが消えていった方向を見続けていた黒羽に、じとりとした視線を向けた。


「もう一度確認するけど、お前、人間になったんだよな?」

「真白が言うならそうなんじゃないかしら」

「主観としてはどうなんだよ。何か変わったとかわかるのか?」

「そうね。とりあえず、もう霊体化はできないみたい。浮くことも不可能ね。あとは、誰かの前でやってみなければわからないけれど、魔術も使えなくなっているでしょうね」

「……そっか」


 あれ、ってことは来週からは昼休みも演技をしなくてはならないってことか?

 ――いや、そんなことよりも一番重要なのは、


「ぼくの呪いは、解けたのか?」


 詰め寄るように尋ねても、黒羽は肩をすくめて苦笑するだけで。おいおい、それが何よりも重要なんだぞ。ぼくはそのために天ヶ原さんを利用したというのに。


「それはあなたが二十歳にならなければわからないでしょうね」

「最悪だ……」

「今までだって似たようなものだったじゃない」


 がくりと肩を落としたぼくに、軽い慰めの言葉がかけられる。こんなの、あんまりだ。無責任だ。

 すると、黒羽がくすり、と笑みをこぼした。


「でも、生きていてほしいわね」

「……へえ?」

「だって、あなたはわたしとずっと一緒に生きていくのだもの。先に死なれては困るわ」


 ずっと一緒に生きていく、か。そんなことを考えられるようになったなら、こいつはもう大丈夫だ。ちゃんと人間になっている。


「わたしたちも帰りましょうか」

「ああ。――黒羽」

「なぁに?」

「ん」


 ぶっきらぼうに、しかし真っ直ぐに自分の手を黒羽に向かってのばす。それを見た黒羽は大きく目を見開いたものの、すぐにはにかみ、ぼくの手をとった。


「ふふ、嬉しいわ。すきよ、灰人」

「うん。ぼくも、すきだよ」


 ああ、ようやくぼくは呪いから解放された。黒羽は人間になり、ぼくは自分の気持ちを伝えることがやっとできたのだ。この試練を乗り越えられることができたのは、神様のおかげであり、そして天使である天ヶ原さんのおかげだろう。

 ぼくは今日、初めて神様という存在に感謝することができたのかもしれない。




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