エピローグ
「おはよう、灰人」
次の日の朝、ささやくような声が聞こえた。ずっと一緒にいて、すごく聞き慣れた声だったけれど、いつもより少しやさしいような気がする。
「……お前はまた勝手に……」
もぞもぞと布団の中で動きながらいつものようにつぶやくと、寝ぼけまなこでとらえた彼女がにこり、と笑った。
「勝手にじゃないわ。今日はちゃんと玄関から入ってきたもの。おばさんに起こしてきてって頼まれたのよ」
「母さんに……? ――ってことはお前、」
「もちろん、実体よ?」
「うわああああ!」
するり、とほおに触れた彼女――黒羽の手には、確かに体温があった。勝手に壁をすり抜けていたこれまでとは違った行動に驚き、声を上げて飛び起きたぼくを見て、黒羽が呆れたようにため息をこぼす。
「人間になったんだから、当たり前じゃない。もう壁を通り抜けることなんてできないわ」
「あ、ああ、そうだった、な」
至極残念そうに、しかしどこか嬉しそうにつぶやく黒羽。そうだ、彼女は昨日、神様の力で人間になったのだ。ぼくに今まで乗り越えられない試練を与えていた神様は、ようやくそれを乗り越えさせてくれた。ただし、それには天ヶ原さんという天使の存在がとても大きく関係していたけれど。
そんなことを考えながらベッドから下り、制服を取り出していると、横目でベッドに腰かけている黒羽が確認できた。
「おい、着替えるから出ていけよ」
「別に恥ずかしがらなくてもいいのよ? わたしとあなたの仲じゃない。一緒にお風呂も入ったわね」
「幼なじみだからってそこまでしてないぞ。話を捏造するな」
「ケチ」
「うるさい、さっさと出ていけ」
「はいはい」
まったく、人間になってもその性格はあまり変わっていないようだ。あれは本当に改心したと言えるのだろうか?
いや、よく考えてみれば、ぼくは神様に「黒羽を人間にしてください」と願っただけで、「改心させてください」とは言っていない。まさか、神様は本当に前者だけを叶えたっていうのか? くそ、神様まで言葉を額面どおりにしか受け取ってくれないのか。
でも、
(神様は世界のすべてを愛しているがゆえに、一人ひとりの救いがおろそかになりがちなのよ)
きっと神様は、そういう存在なのだ。おそらく今も、世界とそこに存在するすべてを愛するのに忙しいに違いない。だから、ここは仕方ないと思うことにしよう。一番の願いを叶えてもらっただけでも十分じゃないか。
それに、あいつが人間になったということは、改心する可能性が格段に上がったということだ。天ヶ原さんが言っていたように、あとはぼくの力で何とかするしかないだろう。
ふう、と一つため息をついてからドアを開けると、そこに黒羽の姿はなかった。おかしいな、と思いながら一階に降りると、何故か黒羽はキッチンで朝食を前にして座っているではないか。その光景に思わずほおが引きつってしまったが、母さんがいる手前、笑顔を繕わなくてはならない。
「……何で黒羽がいるのかな?」
「あら、せっかく灰人を起こしに来てくれたんだし、たまにはいいじゃない。黒羽ちゃんと一緒に朝ご飯を食べるなんて、いつぶりかしら」
「わたし、おばさんの手料理、大すきなんです」
「うふふ、嬉しいわあ」
にこやかに会話をする二人を見て、密かにげっそりしたのは言うまでもない。ここに父さんがいたら、「未来の家族が見えるようだなあ」なんて言っていたことだろう。
――未来、か。
(あなたはわたしとずっと一緒に生きていくのだもの。先に死なれては困るわ)
そうだ、ぼくには、ぼくたちには未来ができたのだ。これでぼくの平凡な夢もきっと叶う。中学三年生のときの担任の言葉が、ようやくぼくにも当てはまるようになったのだ。あとは、ぼくとあいつ次第だ。
「じゃあ、行ってきます」
朝食を食べ終え、黒羽と玄関に向かう。そういえば、魔術ももう使えないから、今日からは昼休みも演技をしなくてはならないのか。ホンモノの恋人になったのに、演技をしなくてはならないというのもおかしな話だが、こいつはいつもどおりだし、ぼくもずっとそうやって口悪く接してきたのだから仕方ない。おそらくそれが、ぼくたちにとって一番自然な形なのだ。
さて、じゃあどうやって学校でごまかそうかな――そう考えながら玄関のドアを開けると、
「灰人さん、黒羽さん、おはようございます!」
「……え?」
また聞き覚えのある声が聞こえてきた。ただし、この声は黒羽と違ってまだ新鮮味がある。
そうやって、目を見張った先にいたのは、
「真白じゃない」
「天ヶ原さん! どうしてここに……」
黒羽とほぼ同時にその名前を呼んで駆け寄ると、天ヶ原さんは不満そうに口を尖らせた。
「どうして? おかしなことを言いますね。わたしはお二人のご近所さんではありませんか」
「いやそうだけど、君は天使だから、次の使命が……」
「ええ、わたしには次もその次も、たくさんの使命があります」
「じゃあ、どうして?」
「わたし、黒羽さんを改心させるために遣わされたのではないのです」
「え?」
「正しくは、黒羽さんだけを改心させるために、でしょうか。つまり、わたしの担当区域はこのへん一体なのです。だから、これからもこの区内にいる方々をすべて改心させるまでは、この家でお世話になることになりました!」
「な、」
「これからもよろしくお願いしますね!」
天ヶ原さんは元気よくそう言って、にこっ、といつものように無邪気な笑みを咲かせた。
「マジでか……」
「さすがのわたしもこれは予想外だわ」
互いに顔を見合わせ、二人でゆっくりと天ヶ原さんを見つめる。ぼくは唖然としながら、黒羽は呆れながら。
すると、天ヶ原さんは急に駆け出したかと思うと、途中でくるり、と振り返った。そのミルクティー色の髪をふわりとなびかせながら。そして、
「お二人とも、早く来ないと置いていっちゃいますよ!」
「――だそうよ」
「ああ、わかってるよ」
ぼくと黒羽は、ふ、と笑い合いながら、今度はその笑みのまま、天ヶ原さんのほうに顔を向けた。
まるで光のような笑顔を咲かせる彼女に向かって歩みを進めるぼくたちは、未来に向かって歩いているようだった。




