01
「黒羽!」
ふわり、たしなめるような声とともに空から突然現れたのは、本来ならこの場にはいないはずの黒羽だった。
「ダメじゃない、灰人。そうやって無理に記憶を思い出させようとするのはよくないわ」
「お前、つけてたな」
「ええ、もちろん」
「用事があるってのもウソだろ」
「当然じゃない。こんな面白いもの、直接見ないわけにはいかないでしょう?」
悪びれるわけでもなく、むしろ堂々とそう言って、黒羽は嘲笑う。
「ふざけるな。話は聞かないって条件だっただろ」
「ええ、そうね。でも、わたしが約束を守ったこと、あるかしら?」
「お前……!」
「黒羽、さん……?」
怒りが頂点に達し、殴りかかろうかとまで思ったとき、震えるか細い声が聞こえてきた。その方向を振り向けば、天ヶ原さんが信じられないというような表情で黒羽を見つめている。恐怖のせいなのか、驚愕のせいなのかはわからないが、その顔は真っ青だ。
そんな天ヶ原さんを見た黒羽は、ふっと薄い笑みを浮かべ、今度は彼女の前にふわりと舞い降りた。
「ごめんなさいね、真白。灰人がいきなりあんなことを言って、びっくりしたんじゃないかしら」
「黒羽さん、どうして浮いていたんですか……?」
「さあ、どうしてだと思う?」
「あなたは、本当に悪魔なのですか……?」
「あらあら、すっかり灰人に毒されちゃって。悪いコね」
するり、黒羽の手が天ヶ原さんのほおを流れるように撫でる。あまりも自然で一瞬スルーしそうになってしまったが、こいつは天ヶ原さんに触れることができなかったはずだ。天使と悪魔という対局の存在が触れ合うと、拒否反応が起こって強い電流が流れる。それは、今さっきぼくが天ヶ原さんに説明していたことでもある。
「お前、何で天ヶ原さんにさわれるんだよ」
「そんなの簡単よ。わたしが真白に悪意を送っているのだもの」
「は……?」
「初めて会った日、まだ真白が天使だと気付かなかったわたしには、その善性と聖性が流れこんできた。けれど、わたしがそれを急いで拒否したから、反発が起こって強い静電気みたいになったの。だけど、反対にわたしからも悪意を流しこめば、反発ではなく相殺ということになるでしょう? だから、わたしは自分から真白に触れるとき、あるいは真白からわたしに触れてくるとき、悪意を流しこんで力を相殺していたってわけ」
まあ、わたしに善性や聖性が効かないのと同じで、真白にも悪意が入りこむことはなかったようだけれどね。そう付け足して、黒羽は一息ついた。
今まで普通にこの二人のやりとりを見ていたけれど、まさか水面下でそんなことが行われていたとは思わなかった。まあ、結局互いに影響はなかったらしいし、ぼくから見ても二人に変化はまったくない。黒羽は性悪のままで、天ヶ原さんは純粋無垢なままだ。
「そんなの、全然知りませんでした。悪意を流しこむだなんて……やっぱり、黒羽さんは悪魔なのですか?」
ほおにそえられた黒羽の手をぎゅっと握りながら、天ヶ原さんが尋ねる。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。こんな悪魔に涙を流す必要なんてないのに、彼女はどこまで慈悲深いのだろう。これが天使という存在なのだろうか。
しかし、それとは対照的に、黒羽の顔はとても冷めていた。そこに浮かぶ笑みはあまりにも場違いなもので、思わず背筋がぞっとする。そして、
「そうよ、わたしは悪魔なの。そして、あなたは忌むべき存在――天使よ」
氷のような冷たい声が、黒羽の正体を告げる。天ヶ原さんははっとしたように顔を上げ、ただただ硬直していた。まるで黒羽の冷たさで凍ってしまったかのように。
「わたしはね、灰人を自分のものにするために、彼が二十歳になったら命を奪うって決めているの。わたしは自分を悪だとは思っていないし、改心する気もないわ。だから、あなたは必要ないの。さっさと神様のところへ帰ってもらえないかしら」
お前にはそれしかないのかよ、と突っ込みたくなるくらい聞き飽きた目的。昔から揺るがなさすぎて、いっそ清々しい。
「……そんなの、ダメですよ。いくら灰人さんがすきだからって、殺すのは間違っています」
「あら、お説教? さすが記憶を失っても天使ね。わたし、人に指図されるのが大っ嫌いなのよ」
いくらか落ち着いたらしい天ヶ原さんの言葉に、黒羽はイラつきをあらわにしながら、彼女に掴まれていた手を乱暴に振り払った。
「わたしが天使かどうかは関係ありません。人として、自分の欲のために誰かの大切なものを奪うのが間違っていると言っているのです」
しかし、天ヶ原さんは負けじと黒羽に詰めより、さらに説得を続ける。きっとその真っ直ぐな目で見つめられたら、誰もが改心してしまうことだろう。ただし、こいつは例外のようだけれど。
「そう。あなたは本当に純粋で、無垢で、正しいわ。だけど、その正しさがわたしにも通用するだなんて思わないでくれるかしら。わたしは悪魔よ。まず『人として』なんていう前提が間違っているし、悪魔が悪を好むのは当然でしょう?」
創造より破壊を。生より死を。そして、絶望より希望を。こいつはそういうやつだ。正義という言葉も、善という概念も通じない。むしろ、こいつにとっては悪が善なのだ。天使である天ヶ原さんの言葉が通用するはずがない。
「だけど、だけど……!」
かぶりを振って必死に説得する天ヶ原さんに、黒羽は呆れたようなため息をこぼした。そして、
「あなたがそこまで必死になるのは、あなたが天使だからという理由だけなのかしら」
「え……?」
「だってあなたは今、記憶喪失なんだから、ただの人間も同然じゃない。もちろん、記憶がなくてもあなたが天使だということに変わりはないから、善良な人間としてわたしを諭しているというのもわかるわ。まあ、善性や聖性が本質みたいなものだから、当然よね。だけど、あなたがわたしを説得するのは、わたしを改心させるためだけにやっていることなの?」
「どういう、意味ですか……?」
「あなた、灰人がすきなんでしょう?」




