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グレーゾーンな恋人  作者: 久遠夏目
第二章 神話は語られる
13/32

04

「神様、ねえ」


 吐き捨てるように黒羽の口から出た言葉は、今までで一番こいつに似つかわしくないもので、ぼくは思わずその単語を反復してしまった。ただし、少し嘲るように。そして、どこか呆れたように。


「あら、わたしが神様を信じているのが意外?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

「そうよね、むしろ信じていないほうがおかしいもの。神と悪魔なんてよくある組み合わせだし、天使だっている。天使は文字通り、天からの使いよ。つまり、真白を遣わした存在がいるってことでしょう?」

「それが神様だっていうのか?」

「そうよ。そうやって、神様はわたしを改心させるために真白をここによこしたのよ」


 今にも舌打ちが聞こえてくるのではないかというくらい、憎らしげに顔を歪めて吐き捨てる黒羽。

 しかし、その天ヶ原さんは、自分が天使だなんていう記憶をすっかり忘れていて、あのときの電流も季節外れの強い静電気くらいにしか考えていないのだろう。せっかくの天使も、記憶がなければ何の意味もない。


「あなたは、神様を信じていないの?」

「どうかな。いるかもしれないけど、ぼくにとっては神様じゃない」

「どういうこと?」

「お前も同じクラスだったから覚えてるだろ、中三のときの担任が始業式の日に言った言葉」

「中学三年生のときの担任? ――ああ」


(困難は、それを乗り越えられる者にしか訪れない。だから、神様は試練を君たちに与えるんだ。君たちには、それを乗り越える力があるということだよ)


 ぼくが思い浮かべていたものと同じ言葉に行き着いたらしい黒羽は、唇に指を当てて薄く笑った。その笑みは、その担任の言葉をバカにしているようにも、ぼくを憐れんでいるようにも見える。


「確かに、あなたに与えられた試練は、どう足掻いても乗り越えられないものだものね」

「お前が言うな。ああ、でもこれは神様じゃなくて、悪魔であるお前が与えた試練だもんな。なら、乗り越えられなくて当たり前か」


 いや、でも、悪魔がぼくに試練を与えるということもひっくるめて、それがすべて試練だというのなら、やはりこれは神様からの試練なのかもしれない。

 だけど、それは決して乗り越えられない試練だ。だから、それを与えたのは神様じゃない。むしろ、悪魔に近いだろう。そう考えると、やはりこれは悪魔からの試練なのだろうか。


「じゃあ、あきらめるの?」


 自分で考えておいてわけがわからなくなってきたところに、耳障りなセリフが飛びこんできた。その声は愉快そうに弾んでいる。

 神様からの試練だろうが、悪魔からの試練だろうが、関係ない。どちらにせよ、乗り越えられないことはわかっているのだから。だけど、


「まさか。お前の思い通りになるのだけは絶対にごめんだね」


 乗り越えられないとわかっていても、あきらめることだけはしたくない。自分の人生や自由がかかっているのなら、なおさらだ。


「ふふ、それでこそあなたね。そんなところも含めてすきよ。でも」


 黒羽の声のトーンがわずかに低くなる。しかし、そこには艶やかな音色が含まれていた。


「呪いの力は絶対よ。あなたは、わたしから逃れることはできない」


 くすり、勝ち誇ったような笑みがこぼれる。ぼくはただ、黙ってそれをにらみつけることしかできない。


「それに、人間には誰にでも『死』という乗り越えられない試練が与えられているわ。人間はみんないつか死んでしまうの。あなたはそれが人より早かったというだけの話よ」

「ふざけるな。お前が早めたの間違いだろ」

「ふふ、そうだったわね」

「ったく、神様が全能なら、何で悪なんて造ったんだよ」


 そのせいで、こんな悪の権化みたいなやつがぼくのところに来たのだから、やっぱりこれは神様から与えられた試練なのだ。しかし、それならば乗り越えられるはずなのに、今のところまったくそんな気配はない。ふざけるな、自分で造ったものには責任持てよ。もしくは、途中でもいいから造っちゃいけないってわかれよ。

 勝手で不毛な八つ当たりをしていると、黒羽が穏やかな声で語り始めた。


「神様はね、悪という実体を造ったわけではないのよ」

「ウソつけ」

「ウソじゃないわ。キリスト教ではね、悪は善の欠如だって考えられているの。神様は世界のすべてを善いものとして造った。けれど、そこから善が欠如してしまったものがある。具体的には、神様の意思から離れていったもの、それが悪なのでしょうね。だから、神様はわたしのところに天使をよこしたのよ。改心して、善いものに戻すために」

「へえ、何か性善説みたいだな」

「そうね、それに近いかも知れないわ。どう? 少しはあなたにも希望が見えてきたんじゃなくて?」

「希望?」


 再び出てきたこいつらしくない言葉を、ぼくもまた声にしてみる。「神様」はまだわからなくもないけれど、「希望」なんて単語は、こいつには一番似つかわしくないのではないだろうか。


「お前も本来は善いものだったっていうのか?」

「わたしとしては、今でも十分善いものだと思っているわよ?」

「死ね」


 確かに、こいつが改心する可能性があるというのは、ぼくにとっては「希望」だ。だけど、天使である天ヶ原さんが記憶喪失なうえに、そもそもこいつに改心する気なんてないというこの状況では、あまりに頼りない「希望」だ。それどころか、これはこいつの大すきな「絶望」でしかない。

 自分を悪だと思っていないやつが、どうすれば改心できるのだろうか。罪意識なんて、こいつにはこれっぽっちもないのに。

 でも、


(まあでも、わたしの具合が悪くなるってことは、やっぱりわたしは改心するべきものだということかしら。それはきっと、あなたや彼女の主観なのではなく、すべての人やこの世界から見てもそう思うよう、仕向けられているのね)


 そういう客観的な認識があるということを、こいつは知っているのだ。結局は主観で決まるのかもしれないけれど、その主観を変えることは可能なのだろうか。

 もしそうならば――ぼくは、それを「希望」と呼んでもいいのだろうか。


「なあ、お前と神様って、どっちが強いんだ?」

「さあ、神様と直接会ったことはないからわからないけれど、悪魔も神様の被造物だというのなら、神様じゃないかしら」

「ふぅん」


 曖昧な定義だな。ていうか神様に会ったことがないなんて、いないも同然じゃないか。別に見たことのあるものだけがすべてだとは思わないけれど、信憑性が一気に欠ける。そんなものにこいつは怯えているのか? いや、怯えているんじゃなくて、忌々しいと思っているんだっけ。まあどっちでもいいか。

 それに、もし神様がいないのだとしたら、ぼくの「希望」は余計に薄れてしまう。こいつが改心する可能性が一かゼロかというだけでも全然違うというのに。そもそも、そのために遣わされた天使だという天ヶ原さんが記憶を失っている時点で、その可能性はほぼ断ち切られたようなものなのだけれど。

 結局、ぼくにとってその神様は神様じゃなくて、こいつのほうが強いということになるのか。そう思ったら、ため息をつかずにはいられなかった。


「そんなにわたしに改心してほしい?」


 こぼれたため息を受けて、黒羽が静かにそう尋ねてきた。ぼくは弁当の玉子焼きを口に運びながら、ぶっきらぼうに答える。


「当たり前だろ」

「どうして?」


 どうして? そんなの、決まっているじゃないか。


「ぼくの人生はぼくのものだ。お前が決めることじゃない」


 そうだ、ぼくはあと数年だけではなく、その先もまだまだ生きていたいのだ。それなのに、どうして寿命を勝手に決められなくてはならない? どうして将来の恋人を勝手に決められなくてはならない? ぼくの人生はぼくのものだ。ぼくの将来はぼくが決める。悪魔になんか心臓をとられてたまるか。

 そういう意味をこめて、余裕綽々な表情を浮かべる黒羽をにらみつける。これほどまでに憎しみを前面に出したやりとりを見たら、天ヶ原さんも含め、ぼくたちの仲を信じている人はみんなひっくり返るだろうな。ぼくの素顔を知っているのが嫌いなやつだけだなんて、何とも皮肉だ。

 自嘲気味にそんなことを考えていると、黒羽がふ、と眉を下げて微笑した。


「嫌われたものね。昔は本当に仲が良かったのに」

「お前が悪魔だなんて知らなかったからな」

「わたしをすきになればいいのに。そうしたら、すべてを受け入れられるでしょう?」

「有り得ない」

「もし、わたしが改心しても?」


 真っ直ぐな黒羽の視線がこちらに向けられ、ぼくはそれに囚われる。あまりにも真剣な顔で問うものだから、一瞬こいつに改心する可能性があるのかと錯覚してしまったほどだ。

 しかし、


「まあ、それこそ有り得ないけれどね」


 きっぱりとそう言って、黒羽はにやり、と笑った。ああ、やっぱりこいつは人を弄ぶ悪魔だ。希望を与えたかと思えば、すぐに絶望に突き落とす。


「そこで相談なのだけれど」


 かと思えば、ぱっと話題を変えた黒羽だが、こいつからの相談なんてろくなことじゃない。だが、黒羽はぼくの気持ちなんてお構いなしで、間髪入れずに続きを口にした。


「あのコを、懐柔してもらえないかしら」

「……は?」




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