猫じゃなかった声
同棲を始めて、二ヶ月目だった。
部屋は駅から徒歩七分。
築年数は少し古いけど、二人で住むには十分広い。
家賃も相場より安かった。
安い。
駅近。
角部屋。
その三つが揃った時点で、もう少し疑うべきだった。
人間、家賃が下がると警戒心も下がる。
財布の防衛本能だけで生きているから、こうなる。
さつきは最初、その部屋を気に入っていた。
「ベランダ広いね」
「洗濯物干しやすそう」
「日当たりも悪くないし」
あきらも、そう思っていた。
ただ、夜だけが少し変だった。
⸻
【LINE】
00:42 さつき
ねえ
00:42 あきら
なに
まだ風呂入ってるよ
00:43 さつき
また猫鳴いてる
00:43 あきら
外?
00:43 さつき
ベランダの下
00:44 あきら
この階、四階だぞ
00:44 さつき
でも聞こえる
00:44 あきら
野良猫じゃない?
00:45 さつき
見ても、、見当たらなくて
00:45 あきら
窓開けるなよ
00:45 さつき
開けないもん
⸻
最初は、さつきも猫だと思っていた。
夜中になると聞こえる。
みゃあ。
みゃあ。
細くて、弱い声。
子猫みたいな声だった。
けれど、ベランダから下を覗いても猫はいない。
隣の建物の屋根にもいない。
植え込みにもいない。
駐輪場にもいない。
それなのに、声だけがする。
しかも、聞こえるのはさつきだけだった。
あきらには聞こえない。
「また?」
「うん」
「俺、何も聞こえないけど」
「今も鳴いてる」
「エアコンの音とかじゃなくて?」
「違う」
そう言いながら、さつきはベランダの窓に近づく。
あきらはそれが嫌だった。
さつきが怖がっているというより、何かに呼ばれているみたいに見えたからだ。
⸻
さつきには、霊的な話が苦手な理由があった。
祖母の静江が、そういう家の人だった。
陰陽師の家系。
子どもの頃、祖母の家にはお札や塩や鈴があった。
さつきはおばあちゃん子だった。
祖母の膝の上で寝たこともある。
夏休みに泊まりに行って、井戸で冷やしたスイカを食べたこともある。
祖母が作る甘い卵焼きが好きだった。
でも、小学生の頃。
学校で誰かに言われた。
「さつきのおばあちゃん、インチキ霊能者なんでしょ」
そこから、しばらくからかわれた。
お札。
呪い。
霊能力。
インチキ。
子どもの悪意は、語彙が少ないくせに刺さる。
本当に無駄に鋭い。
さつきは、それ以来、祖母の話を人前でしなくなった。
祖母にも、少し距離を置いた。
会えば普通に話す。
でも、昔みたいに甘えられなくなった。
それでも、祖母は変わらなかった。
同棲を始める時も、さつきに小さな包みを渡してきた。
中には、岩塩のブレスレットと、古い和紙のお札が入っていた。
「持っておきなさい」
「おばあちゃん、そういうのもういいって」
「嫌なら引き出しに入れておくだけでいいから」
「……分かった」
「それと、塩も置いておきなさい」
「塩?」
「多めに」
後日、祖母から宅配便が届いた。
中身は、業務用の塩だった。
五キロ入り。
さつきは笑った。
「多めって、限度あるでしょ」
あきらも笑った。
「こんな量、業者かよ」
その塩は、台所の下にしまわれた。
お札は、リビングの引き出しへ。
岩塩のブレスレットだけは、さつきがなんとなく左手につけていた。
認めたくはなかったけれど。
祖母がくれたものだから。
⸻
その夜は、いつもより暑かった。
七月の終わり。
冷房をつけても、部屋の隅に湿気が残っている。
時間は午前一時半。
あきらは翌日が休みだったので、ソファで動画を見ていた。
さつきはベッドに座って、スマホを触っていた。
突然、さつきが顔を上げた。
「また」
あきらはイヤホンを外した。
「猫?」
「うん」
「聞こえないよ」
「今、すごい近い」
さつきは立ち上がった。
「窓に近づくなよ」
「見るだけ」
「だから見るなって」
「だって、ずっと鳴いてるんだよ」
さつきはベランダの窓へ近づいた。
カーテンを少しだけ開ける。
外は暗い。
向かいの建物の窓がいくつか光っているだけ。
「どこ?」
あきらが後ろから聞く。
さつきは答えなかった。
ただ、窓の外を見ていた。
その横顔が、ぼんやりしていた。
寝ぼけているみたいだった。
「さつき?」
「下」
「下?」
「ベランダの下にいる」
「だから四階だって」
「でも、いる」
さつきは窓の鍵に手をかけた。
あきらは慌てて立ち上がった。
「開けるな!」
さつきの手が止まる。
でも、目は外を見たまま。
「声がする」
「猫?」
「違う」
「違うって何」
さつきは、ゆっくり言った。
「赤ちゃんみたい」
その瞬間。
あきらの背中に、冷たいものが走った。
さつきは窓を開けた。
むっとした夜風が入ってくる。
でも、その風の下から、別の冷気が混じっていた。
濡れた布みたいな匂い。
病院でも、風呂場でもない。
もっと重い匂い。
さつきがベランダに出る。
「戻れ」
「待って」
「戻れって」
「泣いてる」
さつきは手すりに手をかけた。
そして、大きく身を乗り出した。
あきらの心臓が止まりそうになった。
「さつき!」
彼は後ろから抱きとめた。
さつきの体は、異様に軽かった。
というより、前へ引っ張られていた。
あきらが腰を掴んでも、さつきの上半身は外へ行こうとする。
「何してんだよ!」
「いる!」
「いない!」
「下にいる!」
「戻れ!」
その時。
ぱきん。
乾いた音がした。
さつきの左手首で、岩塩のブレスレットが砕けた。
透明に近い白い石が、ベランダの床に散らばる。
同時に、外から声がした。
みゃあ。
ではなかった。
「ま」
小さな声。
「ま」
さつきの顔が真っ白になった。
あきらにも、今度は聞こえた。
「ま、ま」
猫じゃない。
赤ん坊の声でもない。
赤ん坊の真似をする、何かの声。
あきらは力いっぱいさつきを部屋の中へ引き戻した。
二人は床に倒れ込んだ。
慌てて窓を閉める。
鍵をかける。
カーテンも閉める。
そこで、窓の向こうから音がした。
ぺた。
小さな手でガラスを触る音。
ぺた。
ぺた。
カーテンの隙間から、白っぽい手形が見えた。
小さい。
小さすぎる手形。
一つ。
二つ。
三つ。
それが、下から上へ増えていく。
四階のベランダの外側に。
小さな手形が。
⸻
【LINE】
01:47 あきら
やばい
01:47 あきら
さつきが落ちかけた
01:48 あきら母
どうしたの?
01:48 あきら
部屋がおかしい
今から行っていい?
01:48 あきら母
いいけど何があったの
01:49 あきら
説明できない
⸻
あきらが母にLINEしている間、さつきは震えていた。
床に座り込んで、左手首を見ている。
ブレスレットの跡が赤くなっていた。
「ごめん」
さつきが言った。
「何が」
「私、落ちようとしてた?」
「落ちようとしてた」
「自分では、覗いただけのつもりだった」
「覗きすぎだろ」
「違うの」
さつきは唇を噛んだ。
「抱っこしてって聞こえた」
あきらは、何も言えなかった。
その時、リビングの引き出しから音がした。
かさ。
かさかさ。
紙がこすれる音。
二人は顔を見合わせた。
引き出しの中には、祖母のお札が入っている。
さつきがゆっくり引き出しを開ける。
和紙のお札が、勝手に少し折れていた。
まるで、中から押されたみたいに。
スマホが震えた。
祖母からだった。
普段、祖母はあまりLINEを使わない。
でも、その時は短い文章が届いた。
⸻
【LINE】
01:51 祖母
窓を開けてはいけません
01:51 さつき
おばあちゃん?
01:52 祖母
塩を出しなさい
01:52 祖母
台所の下
01:52 さつき
なんで分かるの
01:53 祖母
今は聞かないで、言うことを聞きなさい
01:53 祖母
あきらさんに手伝ってもらって
01:53 祖母
窓の内側に塩を撒きなさい
⸻
さつきは震える手でスマホを見せた。
あきらは、もう信じるしかなかった。
台所の下から、業務用の塩を引っ張り出す。
五キロ。
こんな時でも、袋がでかすぎて腹が立つ。
「どれくらい撒く?」
「分かんない」
「全部?」
「それは床終わる」
「床とか言ってる場合か?」
人間、非常時にも掃除のことを考える。
脳が律儀すぎる。
二人は窓の内側に塩を撒いた。
リビングの窓。
ベランダのサッシ。
玄関。
風呂場の窓。
排水口の前にも少し。
祖母からまたLINEが来る。
⸻
【LINE】
01:58 祖母
お札を窓に貼る
01:58 祖母
字が外を向くように
01:59 祖母
さつきは札を持つ前に手を洗いなさい
01:59 祖母
あきらさんは声に返事をしないこと
⸻
あきらは、ぎくっとした。
ちょうどその時。
窓の外から声がした。
「まま」
さっきより、はっきりしていた。
「まま」
さつきが耳を塞いだ。
「やめて」
「聞くな」
「私じゃない」
「うん」
「私、お母さんじゃない」
窓の外で、声が増えた。
「まま」
「まま」
「まま」
一つじゃない。
二つでもない。
いくつも重なっている。
泣いているようにも聞こえる。
甘えているようにも聞こえる。
怒っているようにも聞こえる。
小さな手形が、カーテン越しにも分かるほど増えていく。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
さつきは洗面所で手を洗い、お札を持った。
その瞬間、和紙がふっと熱を持った。
「熱い」
「大丈夫か」
「でも、持てる」
さつきは震えながら窓へ近づいた。
あきらが隣に立つ。
カーテンを開ける。
ガラスの外側は、手形で白く曇っていた。
小さな手。
小さな指。
その向こうの暗闇に、何かがたくさんいた。
形は見えない。
でも、いる。
ベランダの床。
手すりの外。
窓の隙間。
そこに、いくつもの気配が詰まっていた。
さつきは泣きながら、お札を窓に貼った。
その瞬間。
ガラスの向こうから、悲鳴のような泣き声が上がった。
「まま!」
「まま!」
「まま!」
窓が揺れる。
サッシが鳴る。
塩が、床の上でざらざらと動いた。
あきらはさつきの肩を抱いた。
「大丈夫、大丈夫」
「おばあちゃん」
さつきはスマホを握りしめた。
「おばあちゃん、ごめん」
通話がかかってきた。
祖母からだった。
さつきはすぐに出た。
⸻
【通話】
祖母
「さつき」
さつき
「おばあちゃん、ごめん、私」
祖母
「謝るのは後でいいから」
さつき
「怖い」
祖母
「怖くていいのよ。怖いと思えるなら、まだあちらに引っ張られていないから」
さつき
「何なの、これ」
祖母
「母を探している子たち」
さつき
「子ども?」
祖母
「子どもになれなかった子たち」
あきら
「どうすればいいですか」
祖母
「あきらさん、さつきを部屋の中心へ。窓から離して」
あきら
「はい」
祖母
「さつき。私の声だけ聞きなさい」
さつき
「うん」
祖母
「外の声に返事をしない」
さつき
「うん」
祖母
「かわいそうと思っても、手を伸ばさない」
さつき
「うん」
祖母
「あなたは母ではない」
⸻
その言葉を聞いた瞬間。
窓の外の声が変わった。
「ちがう」
「ちがう」
「まま」
「まま」
「ままじゃない」
「まま」
あきらには、もう猫の鳴き声には聞こえなかった。
小さな声の群れだった。
母を求める声。
でも、それは優しさだけではなかった。
求める力が強すぎた。
生きている人間を引きずり落とすほどに。
祖母の声が、通話の向こうから響いた。
「静まれ」
さつきのスマホから聞こえる声ではないみたいだった。
部屋の空気そのものが震えた。
「その子は違う」
窓が、どん、と鳴った。
「その子は母ではない」
塩が白く光ったように見えた。
お札の端が、黒く焦げる。
さつきが泣きながら、祖母の声を聞いていた。
「帰る場所が分からぬなら、私が道を開く」
祖母の声は低く、強かった。
「泣くなら泣け」
「恨むなら恨め」
「だが、生きている子を連れていくな」
窓の向こうで、何かが一斉に動いた。
手形がずるりと下へ落ちる。
水滴みたいに。
泣き声が遠ざかる。
「まま」
「まま」
「まま」
それは、少しずつ小さくなっていった。
最後に。
窓の外から、ひとつだけ声がした。
「だっこ」
さつきが反射的に立ち上がりかけた。
あきらが抱き止めた。
「だめ」
さつきは、あきらの腕の中で崩れるように座り込んだ。
祖母が通話の向こうで言った。
「よく堪えた」
その直後。
窓に貼ったお札が、真ん中から裂けた。
部屋が静かになった。
あまりにも静かだった。
冷房の音だけがしていた。
⸻
【LINE】
02:31 祖母
今すぐ部屋を出なさい
02:31 祖母
塩の上を踏まずに
02:32 祖母
荷物は最小限
02:32 祖母
今夜は戻らないこと
02:32 あきら
俺の実家に行きます
02:33 祖母
それでいい
02:33 祖母
玄関を出たら振り返らない
⸻
二人は最低限の荷物だけ持った。
財布。
スマホ。
鍵。
充電器。
さつきの薬。
着替え少し。
玄関へ向かう途中、ベランダの方からまた小さく声がした。
「まま」
さつきは振り返りそうになった。
あきらが手を握った。
「行こう」
さつきは頷いた。
玄関を開ける。
廊下は普通だった。
深夜のマンションの廊下。
薄い蛍光灯。
誰もいない共用廊下。
遠くの車の音。
普通すぎて、逆に怖かった。
部屋を出て鍵を閉める。
その瞬間。
室内から、ばたばたばた、と小さな足音がした。
一つではない。
たくさんの足音。
玄関の向こう側まで来る。
ドアの下の隙間から、冷たい空気が漏れた。
あきらはさつきの手を引いた。
振り返らなかった。
階段を降りる。
一階まで降りる。
マンションの外へ出る。
そこまで来て、さつきはようやく息をした。
あきらの実家までは、タクシーで十五分だった。
車の中で、さつきはずっと泣いていた。
あきらは、何も言えなかった。
⸻
あきらの実家では、母親が起きて待っていた。
事情を全部話すことはできなかった。
ただ、さつきの顔色と、砕けたブレスレットの跡を見て、何も聞かずに布団を出してくれた。
「今夜は寝なさい」
その声が優しかった。
さつきは、そこでまた泣いた。
その夜、二人はほとんど眠れなかった。
明け方。
さつきのスマホに、祖母からLINEが来た。
⸻
【LINE】
05:12 祖母
夜は越えました
05:12 祖母
まだ終わっていない
05:13 祖母
今日は不動産屋へ行きます
05:13 祖母
私も行く
⸻
祖母は新幹線で来た。
昼前、駅に着いた祖母は、小柄な人だった。
白髪をきちんと結っている。
薄い灰色の服。
古い布袋。
さつきは祖母を見た瞬間、言葉に詰まった。
祖母の顔は疲れていた。
昨日の夜、遠くから力を使ったせいだと分かった。
「おばあちゃん」
「怪我はないね」
「うん」
「よかった」
その一言で、さつきはまた泣きそうになった。
「ごめん」
「何に謝るの」
「ずっと、避けてた」
祖母は少し笑った。
「子どもが大人になる時は、そういうものよ」
「でも」
「今、戻ってきたでしょう」
祖母は、さつきの左手を見た。
「よく守ってくれたね」
砕けた岩塩のブレスレットのことだった。
さつきは、唇を噛んで頷いた。
⸻
その日の午後。
三人は不動産屋へ行った。
担当者は最初、事故物件ではないと言った。
「告知事項はありません」
「前の入居者様も普通に退去されています」
「家賃が安いのは築年数と立地の関係で」
よくある説明だった。
祖母は黙って聞いていた。
そして、静かに言った。
「では、その前の前は?」
担当者の顔が、少しだけこわばった。
「それは」
「その部屋で亡くなった女性がいるでしょう」
部屋の空気が変わった。
担当者は、上司を呼んだ。
奥の部屋で、少し待たされた。
出てきた年配の社員は、ため息をついた。
「正式な告知義務の範囲では、現在は対象外です」
その言い方が、嫌だった。
法律的には。
書類上は。
対象外。
便利な言葉で、人の死が部屋の履歴から薄められていく。
社会という掃除機、本当に吸っていいものまで吸う。
祖母は、表情を変えなかった。
「何があったかだけ、話してください」
年配の社員は、しばらく黙ったあと、話し始めた。
昔、その部屋に一人の女性が住んでいた。
優しい人だったらしい。
けれど、悪い男たちに何度も利用された。
妊娠と喪失を繰り返し、誰にも守られなかった。
相談できる人もいなかった。
最後には、その部屋で命を絶った。
詳しいことは、もう古い話で分からない。
ただ、そのあとから、あの部屋では夜に赤ん坊の声がすると言われるようになった。
誰も供養していなかった。
誰も、ちゃんと聞こうとしなかった。
さつきは、椅子の上で手を握りしめた。
怖かった。
でも、それ以上に、胸が痛かった。
昨夜の声。
「まま」
「だっこ」
あれは、殺意ではなかったのかもしれない。
ただ、母を求めていただけ。
でも、だからといって安全ではない。
寂しさは時々、人を引きずり込む。
祖母は、年配の社員に言った。
「部屋を清めます。供養も必要です」
「費用は」
「あとで話しましょう」
「できるんですか」
祖母は静かに答えた。
「やるんです」
その声に、誰も何も言えなかった。
⸻
夕方。
祖母とさつきとあきらは、あの部屋へ戻った。
不動産屋の社員も同行した。
玄関を開けた瞬間、昨日よりも空気が重かった。
生ぬるい。
なのに、足元だけ冷たい。
リビングに入ると、窓に貼ったお札は黒く焦げて落ちていた。
床の塩は、ところどころ濡れて固まっている。
ベランダのガラスには、もう手形はなかった。
でも、窓の下のサッシに、小さな白い跡がいくつも残っていた。
祖母は部屋の中央に座った。
布袋から、新しいお札と鈴、小さな器を出した。
それから、業務用の塩を見て少しだけ笑った。
「役に立ったね」
あきらが言った。
「笑いながらしまっててすみません」
「笑っていいのよ。怖がりすぎても、ああいうものは寄ってくる」
祖母は塩を器に盛った。
そして、静かに祈り始めた。
聞き取れない言葉だった。
古い言葉。
でも、不思議と怖くはなかった。
部屋の空気が、少しずつ変わっていく。
窓の外から、また声がした。
「まま」
さつきの体が強張る。
祖母は目を閉じたまま言った。
「違うよ」
その声は優しかった。
「あなたたちのお母さんは、もう苦しまなくていい場所へ送る」
「あなたたちも、ここで泣かなくていい」
「遅くなって、ごめんね」
その瞬間。
部屋のどこかで、何かが泣いた。
赤ん坊の声。
猫の声。
風の音。
全部が混ざったような声。
さつきは泣いていた。
あきらも、目を伏せた。
不動産屋の社員は、青ざめて立っていた。
祖母は鈴を鳴らした。
ちりん。
その音が、部屋の隅々まで広がった。
何度も。
何度も。
やがて、声は小さくなっていった。
「まま」
「まま」
「……まま」
最後に、窓の向こうで何かが離れていく気配がした。
ベランダの外。
下へ落ちるのではなく、上へ昇るような気配。
祖母は深く息を吐いた。
「終わりました」
さつきは、すぐには動けなかった。
祖母が立ち上がり、さつきの頭に手を置いた。
「怖かったね」
その一言で、さつきは祖母に抱きついた。
小学生の時以来だった。
「ごめんね、おばあちゃん」
「うん」
「私、ほんとはおばあちゃんのこと嫌いになったわけじゃなかった」
「知ってる」
「知ってたの?」
「知ってるよ」
祖母は笑った。
「私は、さつきのおばあちゃんだから」
⸻
その部屋には、もう住めなかった。
清めてもらった。
供養もしてもらった。
命の危険は去った。
でも、夜にベランダを見ることは、もうできない。
さつきもあきらも、引っ越すことを決めた。
不動産屋は、今回ばかりは何も言わなかった。
むしろ、新しい物件探しに協力すると申し出た。
祖母も同席した。
内見の時、祖母は玄関と水回りとベランダをよく見た。
あきらは小声で言った。
「不動産屋より頼りになるな」
さつきは少し笑った。
「昔は、それが嫌だったんだけどね」
「今は?」
「今は、助かる」
祖母は振り返って言った。
「聞こえてるよ」
二人は黙った。
人間、霊より祖母の耳の方が怖い時がある。
⸻
新しい部屋は、前より少し家賃が高かった。
でも、明るかった。
ベランダも小さめだった。
さつきはそれでいいと思った。
引っ越しの日。
祖母は新しいお札を玄関の内側に貼った。
それから、小さな岩塩のブレスレットをもう一つ、さつきに渡した。
「また?」
さつきが言うと、祖母は笑った。
「嫌なら引き出しに入れておきなさい」
さつきは首を振った。
「つける」
そう言って、左手首につけた。
その夜。
新しい部屋で、二人は久しぶりにちゃんと眠った。
何も聞こえなかった。
猫の声も。
赤ん坊の声も。
窓を叩く音も。
ただ、明け方。
さつきは一度だけ目を覚ました。
ベランダの方から、ほんのかすかに音がした気がした。
みゃあ。
猫の声。
さつきは体を固くした。
隣で寝ていたあきらが、すぐに目を開けた。
「聞こえた?」
「……うん」
二人はしばらく黙った。
でも、その声は一度きりだった。
そのあと、窓の外で本物の猫が塀の上を歩いているのが見えた。
白と茶色の、小さな猫。
朝日を浴びて、尻尾を揺らしていた。
さつきは息を吐いた。
「本物だ」
「本物だな」
二人は少し笑った。
でも、さつきはその日から。
猫の声を聞くと、必ず一度だけ確認するようになった。
ちゃんと、猫の形をしているか。
そこに、母を探している声が混ざっていないか。
そして時々、祖母にLINEする。
⸻
【LINE】
08:12 さつき
今日、猫見た
08:13 祖母
本物?
08:13 さつき
本物
08:14 祖母
ならよかった
08:14 さつき
おばあちゃん
08:15 祖母
なに
08:15 さつき
ありがとう
08:18 祖母
どういたしまして
08:19 祖母
塩は切らさないように
08:19 さつき
また業務用?
08:20 祖母
当然
⸻
さつきは笑った。
少しだけ、泣きそうにもなった。
今でも、あの部屋のことは思い出す。
ベランダの外から聞こえた声。
小さな手形。
「だっこ」と言った声。
怖かった。
本当に怖かった。
でも、あれは誰かを殺したかったのではなく。
ただ、抱きしめてくれる人を探していただけなのかもしれない。
そう思うと、怖さの底に、冷たい悲しさが残る。
夏の夜。
遠くで猫が鳴くと、さつきは今も少しだけ窓を見る。
そして、左手首の岩塩のブレスレットに触れる。
もう、呼ばれても返事はしない。
でも。
あの子たちが、今度こそ誰かに抱かれて眠れているならいい。
そう、ほんの少しだけ思う。




