第4話 深海龍の解毒食と紫の暗殺者
窓硝子に突き立った短剣が、死を告げる鐘のようにかすかな音を震わせていた。柄の隙間、封蝋からじわりと滲み出る紫の霧。
それを見た瞬間、レオナルドの体が弾かれたように動いた。椅子が激しく軋み、彼はアリアの前へと躍り出る。
庇う。覆う。遮る。
それは、自らの命よりも先に守るべき「心臓」を見つけた男の、剥き出しの防護姿勢だった。―――獲物を奪われかけた獣の、それだった。
だが―――。
「大丈夫ですよ。今の私には、これくらい」
背後から、躊躇いのない白い指が伸びた。アリアは霧に触れ、まるで積もった埃を払うようにそれを霧散させる。紫の粒子は、彼女の指先でなす術もなく散り、消えた。
「……劣化品ですね。禁忌毒〖冥府の溜息〗の模倣です。本物なら、窓枠ごと溶けていましたよ」
彼女は短剣を抜き、慣れた手つきで封書を開く。視線を落とし、流し読み、そして、おかしなものでも見るように首を傾げた。
「あら。―――王子の命と引き換えに、ベルトランの生き残りを差し出せ、だそうです」
沈黙。寄せては返す潮の音だけが、店内に不気味に響く。レオナルドが、重い口を開いた。
「……アリア。お前に話しておくことがある」
声は低く、地を這う獣の唸りのような響き。
「お前の父が、私の母を殺した毒を作った。その事実を、私は知っている」
空気が凍りついた。だが、アリアは驚かなかった。ただ、翡翠のような澄んだ瞳で続きを待った。
「だが、真実も知っている。私は父王から託されたのだ。……男爵は毒ではなく、仮死薬を作っていた。母を王宮から逃がすための救済の薬だ」
アリアの指先が、わずかに震えた。
「王妃側が本物の毒を混ぜたのだ。男爵は……救えなかったことを死ぬまで悔いていた」
静寂。アリアの胸に、かつて父が遺した言葉が、熱を持って蘇る。
―――いつか、第二王子殿下の盾になりなさい。
(盾……。ああ、そういう意味でしたか、お父様)
アリアは、ゆっくりと瞬いた。
「胃袋じゃなくて、命そのものを守れってことだったんですね」
彼女は、決意を込めて袖を捲り上げる。
「分かりました。盾になります。……最高に美味しい盾に」
調理台に置かれたのは、『深海龍の肝』。深海の奥底で、あらゆる致死毒を吸い込んで肥大した怪物の心臓部だ。
アリアの瞳には、肝の内部で脈動する無数の毒の核が、禍々しくも美しい色彩の螺旋として映っていた。彼女は祈るように指先で肝を撫で、包丁を握る。
キィン―――、と。
それは金属音ではない。アリアが包丁を通じて伝える、特定の周波数の振動。毒素の結合を物理的に断ち切る、ベルトラン家秘伝の技法。切るたびに、肝の内部に閉じ込められていた「死の澱」が、黒い靄となって弾け、解放されていく。
「大丈夫ですよ、痛くないですからね。―――悪い毒は、私が全部抜いてあげますから」
彼女は食材に語りかけながら、白ワインを注ぐ。立ち昇る蒸気。通常なら肺を瞬時に腐らせる猛毒の煙が、アリアの肺を通ることで浄化され、厨房を神聖な黄金の光が満たし始める。仕上げに、秘蔵の『黄金の雫』を数滴。破壊の象徴だった毒が、命を繋ぐ究極の滋養へと反転した。
「……召し上がれ、レオナルド様」
差し出された一皿を、レオナルドは躊躇なく口にする。
―――瞬間。
十年間、彼の神経を蝕み続けていた紫の鎖が、悲鳴を上げて砕け散った。汗が噴き出し、呼吸が劇的に熱くなる。排出、浄化、そして再生。
視界が鮮明になり、奪われていた王族の魔力が、地鳴りのような咆哮を上げて覚醒した。彼は、飢えた獣のような吐息を吐いた。琥珀の瞳が、暗闇の中でらんらんと輝く。
その時、砕けた窓から黒装束の影が飛び込んだ。暗殺者の手首から放たれた毒針が、一直線にアリアの喉元を狙う。
―――だが。
「あ、危ないですよ」
アリアはそれを、素手で掴み取った。指先一つ傷つかず、彼女は針を見つめる。そして、暗殺者の目の前で―――それを口に含んだ。ぱき、と針を噛み砕く音。舌の上で転がし、死の成分を味わう。
「……あら。調合、間違えてますよ。苦味を消すなら、あともう少し発酵を入れないと。―――不味いですね」
怪物を見るような、底知れぬ恐怖。暗殺者の呼吸が止まった瞬間、レオナルドが動いた。
剣が一閃。音すら追いつかぬ神速。
次の瞬間、刺客たちは自らが何に斬られたかも分からぬまま、床に伏していた。
―――静寂。
レオナルドは剣を払い、アリアの肩を折れんばかりの力で抱き寄せた。逃がさない。二度と、自分の視界から、手の届く範囲から消させない。その腕は守護ではない。捕獲だ。琥珀の瞳が、燃え上がるような執着と共に彼女を見つめる。
「もう、逃げる必要はない」
声は低く、傲慢なまでに甘く響いた。
「明日、王宮へ行く。……私の聖域を汚した罪、あの女にその身で購わせる」
店の外、物陰で一部始終を見ていたマルコは、膝から崩れ落ちた。あれは王子などではない。愛という名の猛毒を食らい、覚醒した最上位の捕食者だ。
「……終わりだ、すべて……」
王宮に満ちる毒よりも深い絶望が、彼を飲み込んでいった。




