第2話 まかないの味は生存の執着
朝の『潮騒亭』は、まだ客の声を知らない静かな海のようだった。扉は半開き。床は洗い立て。潮風が白布のカーテンを揺らしている。そのカウンターの端に―――当然の権利であるかのように、主が座っていた。
レオナルド・ル・グランバルト。
昨夜の泥は落ち、簡素ながら清潔な衣に替わっている。だが、その背筋の伸び方も、組んだ指先も、王宮の玉座に座る者のそれだった。黄金の髪は朝光を弾き、琥珀の瞳は一点を射抜いている。
その先。店先で箒を動かすアリアの背中。彼は一言も発さない。ただ、見ている。獲物の項を狙う獅子のように。
(逃げぬか。消えぬか。―――誰かに、奪われぬか)
彼は確認していた。自分の命を繋ぎ、その味覚を、精神を、一皿で完全に「所有」してしまった少女の輪郭を。
「……まだいらしたんですか?」
振り返ったアリアが、穏やかに首を傾げた。
「毒見が必要だ」
「うち、毒出し専門店なんですけど。入れる方はやってませんよ」
「だからだ。お前が毒を抜く瞬間まで、私の命は危うい」
理屈は破綻していた。だが声音は地を這うように低く、絶対だった。アリアは少し考え、あっさりと頷く。
「なるほど。食への真摯な姿勢ですね。素晴らしい心がけです」
理解の方向が絶望的に斜めだった。
「アリアー! 今日も可愛いな!」
扉の外から響く大声と共に、漁師のジャンが魚籠を担いで入ってきた。日焼けした肌、白い歯。港の陽気そのものの男だ。
「見ろよこれ! 珍しいトゲウオだぞ!」
「まあ、本当。棘の並びが綺麗。……これ、うまく抜けば最高の下出汁になりますね」
彼女がジャンに歩み寄り、魚を覗き込んだ、その瞬間。店内の温度が劇的に墜ちた。錯覚ではない。空気が鉛のように重く沈む。ジャンの背筋に、冬の海に放り込まれたような冷水が流れた。
「……なんだ、この金髪の怖え野郎は!?」
視線の先。カウンターの主は、瞬きすらせずジャンを睨みつけていた。王族の覇気。言葉にならぬ圧。それは自らの「餌場」に踏み込まれた上位捕食者の威嚇。ジャンは本能で悟る。
(勝てねえ。……こいつ、俺がアリアに触れたら、ここで俺を食い殺す気だ)
「ただの腹ぺこな行き倒れさんですよ、ジャンさん」
アリアの無機質な一言で、張り詰めた殺気が台無しになった。
「行き倒れ!?」
「ええ。よく食べる美形って、見ていて気持ちいいですよね。活きがいいというか」
「基準、魚と一緒かよ!?」
ジャンが混乱している間も、レオナルドの視線は獲物―――ジャンから逸れない。その琥珀の瞳は、まるで不快な羽虫を見定めているかのようだった。
昼下がり。厨房に火が灯る。
「今日は少し、刺激を強めますね」
アリアは雷イカを持ち上げた。触れれば感電死する危険種。彼女は迷いなくそれを特殊な酢水に沈める。液面が青白く発光した。電撃袋に溜まった「死の電荷」が溶け出している証だ。
「この子は繊細なので、怒らせないように。……優しく、神経を解いてあげればいいんです」
囁きながら、ミリ単位の精度で神経節を切り離す。次は緋色ウニ。幻覚作用のある毒針を砕き、中身をすくう。
「毒は、あえて少しだけ残します。その方が、味覚が『覚醒』しますから」
鍋で米を炒める。パチパチと弾ける音。イカの身を入れた瞬間―――厨房に青白い火花が散った。微細な放電。香りは潮の匂いと、雷雨の後のような鋭いオゾンを混ぜた官能的な響き。仕上げに重厚な生クリーム。猛毒を抱きしめるように包み込み、刺激を多幸感へと反転させる。『雷イカと緋色ウニの、痺れ中和リゾット』。
「どうぞ。死なない程度に痺れてください」
差し出された皿を、レオナルドは奪うように受け取った。
一口。
舌先が、爆辞的な衝撃に震えた。痺れ。だがそれは痛みではない。麻痺していた神経を、奥底から強制的に叩き起こす暴力的なまでの「生」の快感。
「……毒か」
低く、甘い吐息が漏れる。
「いや、これは……劇薬だ。体が、芯から熱い……」
血が巡る。思考が陶酔に焼かれる。世界の色が、かつてないほど鮮明に塗り替えられる。生きている。その事実を、彼女の料理が神経に刻み込んでくる。匙が止まらない。彼は獣のように、皿の上の「生」を食らい尽くした。
アリアが満足げに頷いた、そのとき。レオナルドの逞しい手が、アリアの細い手首を掴んだ。
骨がきしむほどの力。彼は彼女の指先を自分の口元へ引き寄せ―――そこに付いていたソースを、深く、舐めとった。
逃がさぬように。自らの所有印を刻み込むように。視線は外さない。琥珀の瞳が、アリアの青い瞳の奥を、底知れぬ独占欲で覗き込む。
「……足りぬ」
熱を帯びた声で、彼は告げた。
「次を作れ。お前の毒なしでは、もう、私は生きてゆけぬ……」
それは願いではなく、逃れられぬ呪いのような命令だった。
夜。閉店後の静まり返った港町。トニの店。ジャンの船。そして、潮騒亭。それらを遠く、冷徹な目で見つめる影があった。厚い外套を纏った男たち。
「……あの店だな。間違いあるまい」
「噂は本当か。あの死に損ないの獅子が、生きていると?」
「ああ。だが―――」
一人が、忌々しげに囁く。
「……あそこには、毒を飼い慣らす魔女がいる」
闇の中で、紫の不気味な煙が揺らいだ。王宮から放たれた、逃れられぬ追跡の気配だった。




