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毒食みの令嬢と飢えた獅子の晩餐  作者: 宮野夏樹


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第1話 死にかけ王子と海蠍の毒抜きポトフ


 夕暮れの港町ポルト・サブルは、潮と金貨と怒号の匂いで満ちていた。競りの声、帆綱の軋み、笑い声。そんな喧騒の只中で、ひときわ甲高い悲鳴が響く。


「ぎゃあああああ!  アリアちゃんそれ捨てろ!!」


 八百屋のトニは青ざめ、震える指で彼女の手元を指した。アリア・フォン・ベルトランは、籠いっぱいの売れ残り野菜を抱えたまま、きょとんと首を傾げる。彼女のもう一方の手には、黒光りする殻と禍々しい尾を持つ生物が握られていた。漁師すら触れぬ猛毒生物―――海蠍ウミサソリである。


「大丈夫ですよ、トニさん」


 彼女は鼻歌まじりに言い、尾の付け根を指先で軽く捻った。ぱきり、と小気味よい音が響く。


「はい、大人しくなりました」

「大人しくってそういう意味じゃねえ!  針折っただけで死なねえだろソイツは!」


 悲鳴を背に、アリアは軽やかに歩き去る。潮風に揺れる亜麻色の髪。澄んだ青い瞳。袖はすでに肘まで捲られている。料理をする者の手つきだ。猛毒も彼女にとっては包丁の延長線上にあるらしい。


 店『潮騒亭』の裏口に差しかかったとき、彼女は足を止めた。視線の先。薄暗い路地の泥の中に、人が落ちている。金髪の青年だった。泥に汚れてなお輝く髪。彫刻のような顔立ち。だが頬は痩け、唇は青白く、呼吸は浅い。


 アリアが覗き込んだその瞬間。


 死に体のはずの彼が、わずかに瞼を上げた。琥珀色の瞳が、泥の中から獲物の喉笛を狙う獅子のように、鋭く、禍々しく、彼女を射抜く。その視線は、救われる者のものではない。飢えた捕食者が、最初の獲物を見定めた目だった。


 一瞬の戦慄。それは弱者の足掻きではなく、剥き出しの「捕食者」の眼光だった。


 ―――毒。


 だがアリアは動じない。彼女の視界には、青年の体内で渦巻く紫の霧が見えていた。不気味なほど澄み、甘く爛れた死の色彩。最高位の毒。しかも慢性蓄積型。


(あらまあ。随分と『良いもの』を盛られていますね)


 観察結果を頭の中で整理し終える頃、青年がかすかに呻いた。


「……毒、か……?  もう……何も……食わぬ……」


 拒絶の声音。甘い致死の麻薬に浸かり、生存本能が「食事=死」と書き換えられてしまった者の絶望。アリアは静かに頷く。


「ええ、毒ですね。ひどく不味そうな、死の味がします」


 肯定し、慈しむように微笑む。


「だから、食べましょう。毒には毒を。絶望には、それを上回る渇望を」


 青年の瞳が驚愕にわずかに見開かれた。厨房に火が入る。アリアの目は、もはや行き倒れの美青年ではなく、食材としての海蠍に向いていた。


 海蠍の殻を割る乾いた音が響く。中から現れたのは、毒々しいまでに白い肉と、神経毒を溜め込んだ黄金色の脂だ。アリアは、脂の中にドロリと流れる「毒の脈動」を視覚で捉える。


「さて、調理開始です」


 アリアは、毒腺が集中する尾の付け根に、ミリ単位の精度で刃を滑り込ませた。通常、ここに傷をつければ毒が全身に回り、肉は一瞬で腐敗する。だがアリアの包丁は、死を散らすのではなく、生へと「凝縮」させる。


 毒腺を取り囲む黄金の脂―――。


 そこに極微量のライムの搾り汁を滴らす。酸に触れた毒素が、一瞬だけ激しく「揺らぎ」、その毒性が甘美な旨味へと反転を始める。じゅう、と熱した鉄鍋にその脂を落とす。瞬間に立ち上る蒸気は、目も開けられないほど刺激的だ。だがアリアはその煙を平然と吸い込み、揮発していく毒の香気で調合を確認する。


「毒は消すんじゃない、最高のスパイスに変換するんです」


 大蒜を潰し入れ、しなびた人参を刻み、野生のローズマリーを放つ。


 脂が弾ける音とともに、空気中に淡い紫の火花が散った。致死の成分が熱分解され、蛋白質の鎖と結びつき、かつて人類が味わったことのないほど濃厚な「旨味の結晶」へと変質していく。最後に海の水を注ぎ、静かに煮る。鍋の中では、破壊の象徴だった毒が、血を巡る滋養へと再構築されていた。


 客のいないカウンター席。青年は椅子にもたれ、呼吸を荒げていた。逃げる体力すらない。そこへ、湯気の立つ椀が差し出される。


「まかないのポトフもどきです」

「……いらぬ。私は、もう……」

「食べないと死にますよ。それに、これを作れるのは世界で私だけです」


 事実だけを述べ、彼女は匙を口元へ運んだ。反射的に顔を背ける青年。だが、鼻腔をくすぐった香りが、彼の理性を一瞬で焼き切った。脳が、細胞が、飢えが。十年間拒絶し続けた本能が、咆哮を上げる。匙が唇に触れた。一滴、流れ込む。


 ―――雷。


 全身を貫いたのは、衝撃だった。喉を焼くような熱さの後に、爆発的な旨味が押し寄せる。重厚な海蠍の脂が、ハーブの香りと共に、凍てついていた彼の食道を無理やり押し広げていく。


「な、……!? っ!!」


 十年間、何を口にしても砂を噛むようだった。だが、これは違う。舌が、喉が、胃が。死に体だった肉体が、奪うように飲み込み始める。


 青年の手が椀を掴んだ。指が白くなるほどに震えている。だが離さない。飲む。飲む。呪われたように飲み干す。空になった器を見つめたまま、彼は荒い呼吸を整えた。


 ―――静寂。


 やがて、琥珀の瞳がゆっくり持ち上がる。射抜くように彼女を見据えた。


「……これは何の毒だ」


 声は低く、逃れられぬ執念に満ちていた。


「なぜ私の体が、これをもっと欲しがっている。……心臓が、煩いほどに動いている」


 アリアは瞬きを一つ。


「ただの蠍ですよ。少しだけ、元気が良すぎる味だったかもしれませんね」


 あっさり答える彼女の手首を、青年は掴んだ。指先から伝わる熱。それはかつての衰弱が嘘のような、猛々しいまでの生への渇望。


 掴む力が強まる。骨がきしむほどに。その瞬間、彼の琥珀色の瞳に、獲物を決して離さないという冷酷なまでの「所有欲」が宿った。


「明日も作れ。……いや、今後、私の前にはこの皿以外置くことは許さん」


 命令口調。王者の傲慢。


「……これは命令だ。私の命を繋いだ責任を取れ」


 港の外では、夜の波が静かに砕けていた。アリアは掴まれた手首を見つめ、少しだけ困ったように、けれど満足げに微笑んだ。

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