第8話:鋼鉄の魔獣と絶対零度の罠
獣人属の村、ガムリガムリ。
そこは、石黒賢治がこの一年間で初めて「安らぎ」という言葉を脳裏に浮かべた場所だった。
かつて日本の象牙の塔で味わった権威主義の腐臭も、信じていた同僚や上司に裏切られた
冤罪の絶望も、ここには届かない。
あるのは、ただ生きるための剥き出しの活力と、少しばかりおせっかいな、だが打算のない
温かさだけだった。
だが、安住は停滞を意味し、停滞は死を招く。
石黒は、自分を「こちら側」へ繋ぎ止めている唯一の糸であるドバイの地下ラボ――
アブラやサイダといった、不遜だが信頼に足る科学の狂信者たちとの契約を果たす義務がある。
そして何より、自分を信じて付いてきたこのお人好しな後輩、井口を五体満足で現実世界へ
連れ戻さねばならない。
「あーあ、名残惜しいっす……。あんなにモテたのは、
生身の人間として生まれてきて二十数年、
一度もなかった奇跡だったのになあ。
猫耳の女の子、みんな毛並みがふわっふわで、
シャンプーのCMに出られるくらい艶やかで、
本当に可愛かったなあ……」
荷馬車の荷台、乾燥した草の香りが漂う中で、井口が魂の抜けたような声で嘆いている。
「未練たらしいぞ、井口。
俺たちの目的はあくまで調査と、この世界の
物理的理を解明することだ。
おでんの出汁の取り方や、マヨネーズの
作り方を広めるために、
わざわざ時空の歪みを越えてきた訳じゃない」
石黒は、ドバイの最新技術の粋を集めた、チタン合金フレームの軍用規格タブレットを
指で叩きながら、ぶっきらぼうに突き放した。
液晶画面には、地下ラボから衛星経由(という名の時空越え通信)で
リアルタイム転送されてくる、周辺地域の「魔力濃度」の三次元グラフが、
不気味な脈動と共に表示されている。
「えへへ、わかってますよ、先輩。
でもね、ミャオミャオが『行かないで』って、
あの潤んだ瞳で泣きついてくるから、
俺の胸がギュッて、こう、心臓が爆発しちゃいそうになって……。
あ、ミャオミャオ、そこは撫でちゃダメっす、
くすぐったい!」
「……ん?」
石黒が眉をひそめて振り返る。井口の膝の上、積まれた干し草の山が、不自然に
もぞもぞと波打った。
そこから、ピンと直立した三角形の猫耳と、左右に忙しなく、それでいて嬉しそうに
動く長いしっぽが二本、ひょっこりと顔を出した。
「にゃーん! 井口サマ、ついに見つかっちゃったにゃ!」
「私たち、井口サマの専属ボディーガードとして、
地の果て、世界の果てまでお供するにゃ!」
屈託のない、太陽のような笑顔を見せたのは、村で井口を熱烈に慕っていた少女、
ミャオミャオとルルルだった。
「……井口。貴様、いつの間にこの密航者を乗せた?」
石黒の眼鏡の奥の瞳が、絶対零度の冷たさで光る。
その指先が、タブレットの画面を「緊急排除」のボタンに近づける
(もちろん、そんなボタンは存在しないが)。
「いやっ、違うんすよ先輩! 昨夜、こっそり荷造りしてたら
彼女たちが『置いていくなら、今ここで舌を噛んで死ぬにゃ!』
とか言うから! ほら、異世界召喚モノだと、主人公が不本意ながら
美少女を連れて旅に出るのは、もはや不可抗力というか、
物語上の義務みたいなもんじゃないすか!
僕だって、僕だって辛いんですよ、このモテ期が!」
「黙れ。ドバイへの活動報告書にどう記述すればいい?
『貴重な資源を消費する無許可の生物学的サンプル二名を確保した』
とでも書くか? アブラとサイダにキャットフードの予算を
請求しろと言うのか、貴様は」
「科学者なら、もっとカオス理論とか受け入れて柔軟に
なりましょうよ!
彼女たちの動体視力と戦闘力は、きっと僕たちの
警護に役立ちますから!」
石黒は深く、深く、肺の底にあるすべての空気を吐き出すようにため息をつき、
こめかみを強く指で押さえた。
すでに村のゲートは地平線の彼方に消え、引き返すには時間が惜しい。
この予定調和を乱すイレギュラーもまた、異世界という「予測不能な巨大な実験場」
の一部として受け入れるしかないのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
ガラムの操る荷馬車は、緩やかな丘の斜面を登っていく。
車輪が石を弾く乾いた音が、静かな荒野に響く。
その時、石黒たちの背後――獣人の村を一望できる、切り立った遠くの丘の頂に、
ひっそりと佇む影があった。
ボロボロの、砂埃に汚れた茶色のローブを深く被り、顔を隠したその人物は、
去りゆく荷馬車を微動だにせず見つめていた。
その手には、この世界の物質とは明らかに異なる、不自然なほど鮮烈に銀色に輝く
「アルミホイルのゴミ」のような物が、執念深く握りしめられている。
人影は、石黒が背負っている、最新の強化プラスチック製バックパックを凝視した後、
ふっと口角が歪んだように見えた。だがその微かな変化を読み取る者は、この荒野には
誰もいない。人影は、吹き抜けた一陣の風に溶けるように、音もなくその場から姿を消した。
三日後。一行は岩肌が剥き出しになった、肺を刺すような冷たい風が吹く険しい峠道、
「沈黙の峠」へと差し掛かっていた。
「石黒の旦那、ここからは気を引き締めてくれ。ここは魔力の流れが渦巻いている、
いわば『呪われた空白地帯』だ。野生の魔物も、理性を失うほどに凶暴化している」
御者台のガラムが、手綱を握る手に力を込め、脂汗を浮かべて警告する。
「確かに……空間歪みセンサーに激しいノイズが出ている。
物理定数がこの地点だけ、極めて不安定な状態にあるな。
おそらくは、特定の電磁波や魔力がこの岩場に含まれる
鉱石によって増幅されている。
井口、ミャオミャオ、ルルル。遊んでないで警戒しろ」
「了解っす! ほら二人とも、耳をピンとして!
索敵開始っす!」
「まかせるにゃ!」
「悪いネズミは捕まえるにゃ!」
その直後だった。
ガラン、カラン。
巨大な鉄板同士を、錆びたやすりで擦るような、背筋が凍る不快音が響き渡った。
直後、前方の巨岩を粉砕しながら現れたのは、悪夢を具現化したような異形だった。
体長は3メートルを超え、六本の頑強な多脚を備えている。
驚くべきはその全身を覆う外殻だ。
岩石のような質感の肉体に、鈍い、しかし強固な銀色の輝きを放つ金属層が幾重にも
積層されている。
「出やがった!『鋼鉄喰らい』だ!
このあたりを縄張りにする、最強の捕食者だ!」
ガラムが絶叫し、馬が怯えて激しく嘶く。
商隊を護衛していた、鼻持ちならない態度の雇われ魔導師たちが、慌てて杖を掲げ、
震える声で呪文を唱え始めた。
「《熱き焔よ、我が敵を焼き尽くせ! ファイアボール!》」
放たれた巨大な火球が、魔物の正面、その最も装甲の厚い部分に直撃する。
凄まじい爆発音と衝撃波が峠を揺らした。
だが、煙が晴れた次の瞬間、魔導師たちは持っていた杖を落としそうなほど、
絶望に目を見開いた。
紅蓮の炎は、魔物の皮膚に触れた瞬間、何らかの物理的干渉によって霧散するように
消失していた。
そこには傷一つない、鏡面のように磨き上げられた銀色の装甲が、平然と残っていた。
「なっ……魔法が……高位の火炎魔法が通用しないだと!?」
どんな魔法障壁を張っているんだ!」
戦士たちが絶望的に剣を振るうが、鋼鉄の皮膚に弾き返され、逆に火花を散らして、
家宝だという名剣の剣先が無残にも折れ飛んだ。
「……なるほど。分析完了だ」
石黒はパニックに陥る周囲をよそに、至極冷静に、まるでラボで試験管を眺めるような
平淡な口調で、タブレットのデータを読み上げていた。
「表面の金属層は単なる装飾じゃない。
鏡面仕上げに近い極めて高い反射率を持ち、
熱放射を効率的に逸らしている。
それだけじゃない、外殻の結晶構造が、
特定の魔力波長を干渉・相殺する特殊な組成をしているな。
要するに、現代兵器のステルス技術と電磁波吸収体(RAM)を、
生物学的進化によって獲得した個体だ。
魔法という『エネルギー体』をぶつけるのは、
鏡にライトを当てるのと同じ。全くの無意味だな」
「先輩! そんな長ったらしい解説は、学会でやってください!
こいつ、俺たちの荷馬車を、まるごと鉄屑として食う気満々ですよ!」
井口が短剣を構え、猫耳少女たちを自分の背中に押し込みながら叫ぶ。
「パニックになるな、井口。科学の世界に『無敵』
などという概念は存在しない。
どんなに優れた耐熱・耐魔素材も、
基礎的な物理法則の支配下にあることに変わりはないんだ」
石黒はバックパックの底から、表面にうっすらと霜が降りた、輝く真鍮のバルブがついた
二重構造の特殊断熱ボトルを取り出した。
ドバイの地下ラボから、プラズマ発生装置の超伝導マグネット冷却用として予備保管
されていた、高純度の液体窒素を転送させたものだ。
「いいか、井口。熱力学の基本原理――急激な温度変化が
物質に与える『暴力』を見せてやる。
合図したら、右前脚の関節、その銀色の層が
薄くなっている隙間を叩け。寸分の狂いもなくな」
「了解! いけるか、ミャオミャオ、ルルル!」
「にゃー! 井口サマに合わせるにゃ!」
「タイミングはバッチリだにゃ!」
石黒は、巨大な鎌のような脚が振り下ろされるその瞬間、魔物の懐へ、自殺志願者と
見紛うばかりの速度で滑り込んだ。
「そこだ!」
石黒がボトルの大型バルブを一気に全開にした。
シュゴォゴゴゴォォォ! という、ジェットエンジンを思わせる凄まじい噴射音と共に、
マイナス196度の液体窒素が、魔物の脚部の関節部へ、ピンポイントで直撃する。
瞬時に周囲の水分が凍結し、真っ白な霧が辺りを覆い尽くした。
鏡面仕上げだった鋼鉄の皮膚が、数百度の火球からマイナス200度近い極冷へと一気に晒され、
ミシミシ、パキパキ、ベリベリという、物質が断末魔の悲鳴を上げているような音を立てて
激しく収縮し、網目状の細かな亀裂が走る。
「今だ、やれ!」
「愛の力と科学の融合……喰らえぇぇぇっ!」
井口が、猫耳少女二人の脚を台にして力強く跳躍した。
加速されたその一撃が、冷却され極限まで脆くなった「低温脆化」状態の関節部へ、
正確無比に突き刺さる。
キンッ! という、
何百枚もの薄いガラスが一斉に砕け散るような、澄んだ、そして破壊的な音が響いた。
次の瞬間、あんなに強固だった魔物の脚が、根元から粉々に、ただの銀色の砂利となって飛散した。
「……ギ、ギィィィィアアアア!」
支えを失った魔物の数トンの巨体が、重力に従って大きく傾く。
石黒は冷静に、流れるような動作で次のバルブを開き、残りの脚も同じ熱力学的プロセスで
無力化していった。
「……ふむ、断熱ボトルに残った窒素の気化率を再計算しておくか」
物理的な支持基盤を完全に失った『鋼鉄喰らい』は、もはやただの金属の塊に
過ぎなかった。それは自重に耐えきれず、峠の断崖へと滑り落ち、暗い谷底へと消えていった。
「……たす、助かった。あんたたち、一体何者なんだ?
魔法も使わずに、あの化け物を、あんな一瞬で……。
伝説の賢者か何かなのか?」
魔導師が杖にすがりつき、震える声で尋ねる。
「ただの科学者ですよ。自然界の理に従って、
ほんの少し周囲の温度を調整しただけだ。
科学を学べば、誰にでもできることだ」
石黒は手袋についた霜を、興味なさそうに払い、平然と言ってのけた。
その冷徹な背中は、茫然と見送る冒険者たちにとって、どんな英雄譚の主役よりも不可解で、
そして底知れない恐怖すら感じさせるものだった。
もしよろしければ、評価☆☆☆☆☆やブックマークなどで応援お願いいたします。ようやく、更新できました。お待たせして申し訳ございません。下記作品48話完結いたしました。
もしよろしければ、下記作品もどうぞよろしくお願いします。
最強の光神マローは、二度と夜を許さない。 〜国民的ゲームの主人公になって、絶望の淵にいた多種族を全員幸せにします。……でも、照れるとすぐ体がピンクに光るのは勘弁してください〜




