春
春。
そこに記されているのは、
あるお茶会の話でした。
「この世界から【彼女】は居なくなった」
暖かい日差しが降り注ぐお茶会。
外に設けられた小さなテーブルと椅子。テーブルに並ぶのはたくさんの。隙間なく無造作に置かれた茶器やお菓子。いつもの光景。
そこで退屈そうな言葉を紅茶に溶かしたのは、シルクハットにコートの男。帽子屋という。他の名前は知らない。
紅茶に向けられた瞳はハットと同色の前髪にすっかり隠されて、表情は読み取れない。隣にちょこんと座った少女が茶色く長い耳を動かし、不安そうに彼を見上げて「いなくなった?」と視線で問うた。
帽子屋は軽く微笑んで、少女――ウサギの小さな頭に手を乗せ、髪を梳く。白い手袋に金糸のような髪が軽く引っかかってはさらりと落ちる。
「寂しいかい?」
彼の言葉にウサギはきょとんとした顔でお茶のポットを差し出した。
「ふふ……そうか。君はもう忘れてしまったのか。君の世界には、もう居ないのだね」
でもね。と彼は続ける。
「居なくなった。これはとても便利な一言だ。例えば、姿が見えないだけかもしれない。例えば、記憶から消え失せているのかもしれない。視界にも意識にも認識されない。どちらであっても「居ない」と言える。つまり存在とは、何かしらの形で認識されなければ許されない。いやはや、厳しい言葉だな」
少女の頭をなで、紅茶が注がれたカップを持ち上げて。
「君も、そう思うだろう?」
どことも知れない空へと言葉を投げた。
「――なんだ、気付いてたの。帽子屋」
空から返ってきたのは、だるそうな声。
のんびりとした少年のようでいて、青年のような落ち着きが同居する。中途半端極まりないこれは、猫の声。あんまり好きじゃない。
「【彼女】は居なくなったよ。この世界から、綺麗さっぱり。世界は【彼女】の存在を許さなかったんだ」
ウサギがどこか不安そうに帽子屋に寄り添う。そんな二人など気にかけない様子で、空からの声は続く。
「記憶に留まるということは。【彼女】がこの世界に存在してた証だろうけど」
「うん。過去の証拠としては十分だ。だが、僕が話したいのは――っと、時計は壊れていたんだった。いいや。今日だろうが昨日だろうがいつだっていい」
いいの? とウサギの視線。
ああ、いいのさ。と頷く帽子屋。
「お茶会をやっているこの時こそが、過去であり今であり、これからなんだ。些末なことだ」
カップを口に運びながら、明日の天気を話すかのように言葉を繋げて笑った。
「実に面白い話だよ」
新しいなぞなぞでも思いついたかのように彼は言う。
「【彼女】は確かに存在していた。ああ、これは確かなことだ。だって僕の記憶には未だ鮮明にその姿を残している。ならば、今も存在しているばずさ」
ウサギの耳が揺れる。
帽子屋の言葉は続く。
「世界も時間も、実に不思議な物だ。時間は死んでもなお朝と夜を運んでくるし、世界は許さないものを等しく記憶から連れ去ってしまう。だがどうだい? 【彼女】は未だ、僕の記憶の中に立っている」
「そう言っていられるのは、今のうちだと思うけど」
「僕はそうは思わないね」
帽子屋の自信ありげな言葉に、猫の面白くなさそうな相槌が聞こえた。
「世界に許されなかった、と君は言ったね。ならば、記憶に留まることを許されないはずだ。そう、それこそひとり残らず。それがこの世界だ。違うかい? そうだろう? と、なると答えは自ずと出てくる」
返事はない。
かちゃり、とカップがソーサーに触れる音がした。
「【彼女】はまだこの世界のどこかに居る。あるいは存在を許容される範囲内で存在する。その証明をしよう――なに、簡単さ。まずひとつ。ここには姿を自在に変えられる者が居る」
返事は、ない。
木の葉が一枚、テーブルの上に落ちてきた。
「ふたつ。僕は【彼女】が居た間、君の姿を見なかった。茶会をすると結構な確率で覗き見しているはずの君が、だ」
へんじは、ない。
ウサギが慌てて落ちてきた葉を取り除き、バターを塗って砂糖壺に沈めた。
「そしてみっつ。君の言葉が真実――【彼女】が世界に許されなかったとしよう。ならば、僕が出会ったのは【彼女】じゃなかった」
返事は……呆れたようなため息。
帽子屋は懐から取り出した時計の針を指先で回して、お茶会の開始時間に合わせる。
「答えないなら、率直に言おう。【彼女】なんてこのお茶会には来なかった。来ることができなかった。ここに。このお茶会に来たのはそう――君だ」
「――」
「さあ。答えはどうだい? 本当の【彼女】を唯一知っているのが、【君】なのでは?」
返事は、やっぱりなかった。
ただ、代わりのように。
ざざ、っと木の葉のこすれる音がして。
目の前に少女が降ってきた。
艶やかな黒い髪を背中に流して。
淡いブルーのエプロンドレスは裾をふわりとはためかせて。
茶色いブーツをかつりと鳴らし。
【彼女】は、どこか偉そうで、どこかだるそうに、この世界へと降り立った。
「よく気付いたね」
「気付くさ。世界に許されない、なんて。君がいかにも大事にしがるようなもの、見逃せないさ」
満足そうな帽子屋。
不満そうな【彼女】。
新たなお客がやってきて、お茶の準備をしようとぱたぱたと動き出すウサギ。
それらを全部見届けて。
ぼくは、いよいよ重くなってきた目蓋を、そっと降ろした。




