第五章_第二節
フォルカーはフロレットの頭をなでつけ、顔を近づけた。
「ねえ、返事してよ……ちゃんと俺を見てよ……今の君の目、人狼にのどもとを食らいつかれてうつろになっていった妹の目にそっくりだ。あのとき助けてやれなかった俺を見つめていた妹の目にそっくりだ。君も俺を責めるのかい。ずっと、あのときの妹の顔が頭から消えないんだよ。俺は人狼を殺すと誓った。それなのに、俺は、俺は……」
せわしなく大きな足音が聞こえてきて、フォルカーは顔を上げ振り返った。
「フォルカーさん……」
「ああ、鍵を持ってきてくれたかい」
「……鍵ならここにありますぜ」
男は自分のポケットに手をあて、次いで手にしていた銃を構えた。
「もしこの鍵を取ろうっていうんなら、俺はあんたを撃つぜ」
「……何を言っているんだ」
「あ、あんた……人狼の拘束を外して連れ出すだって? 馬鹿なことを言うんじゃねえ。そいつが凶暴化して、人を……俺たちを襲ったらどうするっていうんだ。この女はさっさとここで殺すべきだ」
表情一つ変えず見つめてくるフォルカーを前にして男はぶるりと身震いし、自分を鼓舞するように声を張った。
「あ、あんた最初からおかしいんだよ! たしかにあんたは強い。実力もある! でも気が触れていやがる!! そう、人狼の話が絡んだとき、あんたの目はいつもぎらぎらと血走っていた。く、狂ってるんだ……あんたは人狼に呪われているんだ……っ!」
人狼に呪われている、と言われ、フォルカーは思わず笑いそうになってしまった。言い得て妙だ、と思った。たしかにあの日、自分は呪いをかけられたに違いない。人狼に取り憑かれてしまったのだろう。人狼を一匹残らず殺すという妄執に取り憑かれている。あのとき救えなかった妹がずっと自分を責め続けている。人狼を殺さない限り、贖罪は終わらない。――罪悪感が消えない。
「さ、さあ、フォルカーさん……一緒に逃げやしょう。俺だってあんたのこと憎いわけしゃない」
「……俺だって、この子が憎いわけじゃない」
男は一瞬、呆気にとられたようにぽかんとした表情をした。
「……は……は? あんた、何……言ってやがるんですか」
「早く鍵を渡してくれ。この子を生かすのも、殺すのも俺が決めることだ」
「……に、憎くない? 憎くないだって? ふ、ふざけるなよ! お、俺の女房は人狼に殺されたんだ!! か、買い物に行ってくるって、そう言って出て行ったきり戻らなくて……次の日、首元を食いつかれた傷を残して、恐怖に歪んだ顔のまま道ばたに捨てられていて……。獣の仕業だって思ったさ。みんなそう言っていた。けど、あんたが言ったんじゃないか! 人狼の、人狼のせいだって……っ! だ、だから俺は信じて、あんたについていって。……俺は人狼が憎くて憎くて仕方がない。それなのに、なのにあんたは人狼が憎くないだって?」
「俺も人狼は憎いさ……でも、この子は……」
「は、はは……わ、わかった。あんた、かどわかされたんだな、その魔女に。その魔女に術をかけられて、血迷っちまったに違いない……俺が、俺がいますぐ助けて……その女を殺して術を解いてやりますよ!!」
銃口がフロレットに向けられたのを見て、フォルカーはとっさに駆け出した。
「やめろっ!!」
一発の銃声とともに、真っ赤な鮮血が部屋の床や壁を勢いよく彩っていった。硝煙の匂いに包まれながら、男は呆然と立ち尽くした。床には、一人の男の身体が横たわっている。男の身体から、赤い液体がとめどなくあふれ出ている。さきほどまで、自分が話していた男だ。男は、がたがたと震えた。
「あ、あ、あ……俺は…………あ、あああ、あ……あ、あんたが悪いんだ……。あんたが、あんたがその女を連れ出そうなんて馬鹿なことを言わなけりゃあ……」
男は奇声を上げながら足をもつれさせ、部屋を飛び出していった。
部屋には、静寂が満たされていった。少女は、己の頬を濡らしている生温かい血に、ぼんやりと意識を覚醒していった。ああ、鉄の錆びた臭いがする。ああ、ここは寒い。頭がぼんやりとする。のどが渇いた。誰か、水を、水を……。のどが渇いて渇いて。誰か。助けて。
少女は唇の端についている液体に気づき、藁にもすがる気持ちで舌を動かした。ああ、なんておいしくない。ああ、のどが渇く。のどがのどがのどがのどが。誰か水を、飲み物を。
次第に、少女は鼻腔を満たしていた鉄の錆びた不愉快な臭いが薄れていくのを感じていった。薪のような、ほのかな匂いがあたりを満たしていくことに、ほっとした。ああ、温かい。心地の良い温かさだ。もう、寒くない。温かい。
次第に、視界の端から夕焼け色の光が忍び込んできた。燃えさかる美しい色が次第に広がっていく。ああ、温かい。温かくて、温かくて――あつい。あつい。熱い。熱い熱い熱い。目が痛い。苦しい。息ができない。誰か、助けて。誰か。熱い熱い熱い熱い誰か誰か誰か誰か助けて――!!




