第一章_第十三節
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「フロレット」
クラウスとともに大広間に戻ったとき、レアが心配そうに声をかけてきた。いきなり飛び出していったため、心配をかけてしまったようだ。
「……すみません。急に気分が悪くなってしまったから」
「そう……まだ顔色が悪いわね。具合が悪いなら無理しないでいいのよ」
もう大丈夫だ、と言い返そうとしてふたたび頭がくらりと揺れる。耳鳴りが止まない。本当に、自分の身体はどうなってしまったのだろう。一日で様々な出来事が起こったために、心労が溜まっているのだろうか。クラウスの手を借りながら、ゆっくりとソファに腰かけた。
広間に残っている者たちが発する空気は、相も変わらず険悪であった。特にヴォルフガングはあきらかにフォルカーに対する敵愾心を隠そうともしていなかった。フォルカーは飄々とした態度を保っているが、それが余計に癇に障るのだろう。
目がちかちかとした。仰げば、シャンデリアの眩しい光が目の奥を刺激した。首をめぐらせれば、雨に激しく打ちつけられている窓が目についた。いつになったらこの雨は止むのだろう。雨が止んだら、すべてが元通りになっていたらいいのに。……そんなこと、ありえるわけがないのに。だとするならば、止まなくていい。一生降り続けばいいのだ。そして、洗い流してくれればいい。すべてを。血も。罪も。過去の出来事も。すべてが、夢だったらいいのに。
次の瞬間、フロレットははっと息を飲み込んだ。窓に黒い影が映り込んだのだ。尖った耳。全身を覆う硬質な毛。闇の奥で月光の輝きを放つ瞳。口元からのぞく鋭利な牙。目が合った瞬間、悲鳴を上げていた。
「嘘! 嘘! うそ嘘……っ! どうして……どうしてどうしてっ」
どうしてここにいる。そんな嘘だ。私の命を狙っている? ひどい目に遭わせた私を殺そうと――。
「フロレット! 落ち着いて、どうしたの」
「っ人狼……人狼が外に……窓の外に!」
「なんだって!」
人狼という言葉に真っ先に反応したのは、ヴォルフガングであった。震える指で示した先には、すでにそれの姿はなかった。――どこにいった?
「外か!?」
「待ってください! いま外に出るのは危険です」
「おいっ! 離せよ!」
外に出ようとしたヴォルフガングの腕を、クラウスの手が押さえつける。かっとなったヴォルフガングは振り払おうとするが、クラウスは手を離さなかった。無言のにらみ合いが続く。ヴォルフガングは力をゆるめ、低く吐き出した。
「……あんた、どういうつもりだ」
「…………君の方こそ」
「ふふ……あは……人狼はいたんだね」
不釣り合いな笑い声が広間に響く。見れば、フォルカーが肩を震わせて口角を上げていた。
「……本当に人狼はいたんだねえ。くふ、あは……いいねえ、最高だ。……人狼狩りの時間のはじまりというわけだ」
「なんてことを……馬鹿げているわ」
侮蔑の眼差しを向けるレアにも動じず、フォルカーは笑みを浮かべたままだ。元より彼は誰の評価も真に受けたるような人間ではないのだろう。
「馬鹿げてなんていないさ。人狼を野放しにすることの方が馬鹿げているとは思わないかい? 人狼は人の道を踏み外した害悪さ。人狼は人の愚かさと醜さの象徴だ。だからこの世から排除されるべき存在だ」
「思いあがっているわ! 誰にも人の命を殺める権利なんて存在しないわ」
「君もわからずやだな~人狼は人として扱うべき存在じゃないんだよ。だって人狼は人を襲うんだから。人殺しの人間を処刑することは許されて、人殺しの人狼を野放しにしていい理由なんてあるかい?」
「……もし仮に人狼が裁かれるべき罪を犯したのなら、しかるべき法をのっとるべきです。僕たちに裁く権利はないでしょう」
「……あなたがそれを言うんですね」
クラウスの言葉にフォルカーの笑みが一瞬人形のように冷たくなったように見えた。だが、それは気のせいだったのだろうか。
「世の中には人を殺す権利を神から与えられた非凡な人間がいるんですよ。たかだかこの地上でしか効力のない戒律に縛られている凡人とは違う、選ばれた人間がね」
「…………」
「もし多くの命を殺す者が目の前に現れたなら、多を救うためにその一つの命を消すのは罪ですか、先生? もし家族を殺そうとしている狂人が目の前にいたとして、家族を救う方法が狂人を殺すしかないとしたらあなたはどうしますか、先生? 自分の手を血に染めたくないがために、狂人に殺される家族をただ見ていることこそが罪でしょう。家族を守るために狂人を殺したその者を責められる人間がどこにいるというんです?」
「君は自らが人を殺す権利を持っている非凡な人間だと言いたいのですか。その妄想を実行したが最後、死ぬまで罪の意識に苦しみ続けることになるでしょう」
「それは誰の話をしているんでしょうかね」
「…………」
「正義の名の元の殺人は、罪ではない。だから罪の意識も起こらない。大切な者を守るための咎だからだ。……きっと罪の意識が生まれるのは、想定外の殺人を犯したときだけですよ。殺すべき人間だけを殺したならば、それは英雄でしかない」
「……君はその妄想に憑りつかれてしまったわけだ」
「妄想なんかじゃない。これからそれを具現化するんですよ」
「……あんたこそが害悪だ。人狼よりもよっぽどタチが悪い狂人だぜ」
反吐が出る、とでも言いたげにルドルフは言葉を吐き出した。この場にいる誰一人として、フォルカーの言い分に賛同する者はいないだろう。
「狂人こそが人を救えるのさ。法にとらわれ変革を恐れる凡人は人を救うことができない」
「……あんたが人狼だったらとんだ喜劇だけどな」
「それもありだ。もしみんなが俺のことを人狼だと思っているのなら俺を殺せばいい」
「馬鹿馬鹿しいぜ、本当に……」
どうとでも言うが良いさ、と言いたげにフォルカーは肩をすくめると、ソファーで縮こまっている少女に目を向けた。「フロレットちゃん」と名指しされ、びくりとフロレットは肩をすくめた。
「君も憎いだろう、人狼が。おばあさんを死に追いやった人狼が憎いんじゃないのかな」
「わた……しは……」
「俺は人狼が憎いよ。君は憎くないのかい。大切な肉親を殺されて」
人狼が、憎い? 私は、人狼を憎いと思っている? ……いいや、人狼はただひたすらに恐ろしい存在だ。恐怖の対象でしかない。人狼は、人の法で裁かれるのだろうか。そもそも、人狼とは何なのだろう。人狼は、人間なのだろうか。……――人狼は、人間なのだろうか。
「ま、いいさ。みんなは人狼っていう害悪がいようがいまいがどうでも良いみたいだし。俺は俺で勝手にやらせてもらうよ。――俺は人狼を狩りに行くよ」
扉に向かおうとするフォルカーを制止しようと数人が動こうとしたとき、フォルカーはゆっくりと銃を構えた。
「ああ、もし止めようとする人がいたら、許さないからね」
許さない――つまり殺すということだ。彼の態度からして、冗談ではないようだ。邪魔する者がいたら、誰であっても殺すつもりだ。
重厚な音を立てて扉が開かれる。途端に激しい雨音が大広間に入ってきた。男の背を引き留める者は誰一人としていなかった。ばたん、と虚しく扉が閉まり、沈黙に支配される。
「……ったく、死にたがりの馬鹿かよ。あんな狂人野郎、ほうっときゃいいんだ」
翌朝、雨はすっかりと止んでいた。明るくなってもフォルカーは姿を現さなかった。嵐とともに過ぎ去ったかのように、人狼も姿を現さなかった。果たして、人狼はどこにいったのか。フォルカーは無事なのか。知る術はなかった。
「私、家に帰ります……母が心配していると思うので。お世話になりました」
「フロレットちゃん、よかったら送っていくよ。昨日の騒ぎもあったし、何かあったら大変だろう。女の子一人でこんな森の中を抜けていくのは危ないよ」
人懐こい笑みを浮かべて声をかけてくるルドルフに、フロレットは自身の頬が強ばるのを感じた。なんとか自然な笑みを浮かべようと心がける。
「……大丈夫です。いままでも森を一人で歩くことありましたから。お気持ちだけ」
「そんなこと言わずにさ。女の子を守りたいっていう俺の気持ちを汲んでくれてもいいんじゃない?」
言い募られて無下に断りの言葉を言えるほど、フロレットは気丈のある少女ではなかった。嫌々ながら、その首は縦に振られた。
道中、ルドルフの言葉に、フロレットはただ短い返事をするばかりであった。心ここにあらずといったように、地面を見つめながら歩みをすすめていた。というのも、フロレットは、すぐにでも祖母の家に向かおうと思っていたのだ。だが、ルドルフが同行を願い出てしまったがために、それも実行に移すことができなかった。はやく祖母の家に向かわなければ。だが、ルドルフを無碍に振り払う勇気もない。思い悩んでいるうちに、見慣れた家の屋根が見えた。




