第一章_第十一節
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ヴォルフガングとともに大広間へと行ったフロレットは、ソファに横たえられている人物を見てはっと息を詰めた。――アルノルトであった。
いつのまに運ばれてきたのか、アルノルトは暖炉のそばのソファで目を閉じて横たわっていた。てっきり死んでしまったと思っていたが、彼の胸は浅く上下を繰り返していた。どうやら、無事だったようであった。そのことに安堵するとともに、フロレットは彼の髪の色に驚きを隠せなかった。終始ショールで覆われていた彼の髪の生え際は、若い容姿に似合わずに白く染まっていた。
だから、彼はずっと頭をショールで隠していたのだろうか。アルノルトは、二十代に入っているかどうか、それくらいの見た目をしていた。それ故に、白髪は目立っていた。しかも、ただの白髪とも違うように思えた。普通だったらまだらに白い毛が混じっていることが多いと思うが、彼の場合は、すべての毛の生え際だけが白く染まっていた。しかも、異常なくらい真っ白であった。絹のように、綺麗な白であった。
それとともに、彼の顔色にも注意がいった。大量の出血をしていたから当然かもしれないが、アルノルトの顔からは血の気が引いており、暖炉のそばでもその青白さが目立っていた。いいや、そもそも出会った当初から彼の顔色は悪かった。生まれつき病弱なのかもしれない。それに――とフロレットはアルノルトの閉じられた瞳へと視線を注いだ。――何かにずっと怯えているようであった。絶えず、何かの影に脅かされているように、彼は壁際の陰に隠れるようにしていた。――私と同じように。
「……この人……大丈夫でしょうか」
「まだ、なんとも言えません……。彼の回復力に祈るしか……」
クラウスが言いかけたとき、アルノルトの方からうめき声が聞こえた。苦しそうな声が聞こえたかと思うと、青白いまぶたが震えた。
彼の瞳が開かれたとき、フロレットは安堵と同時に驚きを覚えた。アルノルトの瞳は、赤い色をしていた。ずっとケープの陰に隠れていたために、初めてその瞳の色を見た。赤みがかった茶色ではなく、正真正銘の赤色であった。
「よかった……気がつきましたか」
「水、を……水をください……」
アルノルトが最初に発した言葉は、水であった。彼はひどくのどが渇いていたのか、渡された水を一気にあおいだ。けれど、傷が痛むのか、流し込んだ端からこぼれていく。何度も溜飲を繰り返した後、アルノルトは息をついたようにぼんやりと天井を見つめた。
「それで? あんたをこんな目に合わせたのは一体誰なんだよ」
ルドルフは気遣うそぶりをあまり見せず、アルノルトに詰め寄った。アルノルトは薄目でルドルフを見つめて、しばし考え込むように天井を見つめた。
「……暗くて、よく見えなかった。だからわからない」
アルノルトの答えに、その場にいる誰もが肩を下げたのは明らかであった。わからないということほど恐怖をかきたてるものはない。
「まさか人狼にやられた~とか?」
やりきれない思いに沈んだ空気を払うように、フォルカーはおちゃらけたように言った。アルノルトが息を飲み込み、顔をこわばらせたことに気がついた者はどれだけいただろうか。
「君たち、怪我人を詰問するのはよしてください」
クラウスが咎めるように周りの者たちをなだめようとする中、アルノルトは唇を開けては閉め、何かと葛藤するようにその表情を曇らせていた。次いで、決心したかのようにアルノルトは大きく息をついた。
「…………そうです、人狼のせいです」
小さな弱々しい声であったが、広間の中にいる者たちの耳に届くには十分なものであった。緩みかけていた糸がふたたび張り詰めたかのように、空気に緊張が走った。
息を飲むもの、愉快そうに笑みを深める者、反応はそれぞれであった。
「人狼のせいです……。人狼さえいなければこんなことには……」
必死に訴えようと「人狼」という言葉を繰り返すアルノルトに、何かを考え込むかのように表情を沈めていたクラウスは気を取り直したように笑みを浮かべた。
「……何はともあれ、目が覚めてよかったです。犯人捜しをこの中でする必要もなくなりました」
つられてレアもはっとしたように、強ばりながらも笑顔を浮かべた。
「そ、そうね……。よかったわ……この中の誰かが犯人でないとわかって。この中でいがみ合うのはもう嫌だもの」
「――まだ終わっていない」
安堵を打ち破るかのように、一人の男の声が喜びの声を搔き消した。
「犯人捜しはまだ終わっちゃいないよ~」
いささかその場にそぐわない間延びした言い方で事件の幕引きを一蹴したフォルカーに、何者かが「くそったれ……」と悪態をついた。フロレットは、耳ざとくその言葉をとらえてしまった。ヴォルフガングはいらだったようにフォルカーをにらみつけていた。
「人狼が犯人だということはわかった。だけど、この中にいる人間がその人狼でないとは断言できないでしょう?」
「おいおい。今度はあんたが探偵気取りかよ?」
「え~だって普通に考えてそうじゃない? それに君ももっとよろこびなよ」
愉快そうに笑うフォルカーをいぶかし気にヴォルフガングは見返した。
「さっきまで人狼の存在なんてここにいる誰もが鼻で笑っていた。だけどたった今、アルノルトくんの証言で人狼の存在がいると証明されたんだよ~?」
「何言っているんだ、お前」
「人狼はこの世にたしかに存在する。しかもこの中にいる可能性があるってわけだよ」
「……赤ずきんや俺が人狼の存在を訴えたときに真っ向から否定してたのはどこの誰だよ。そんなお前がなんでそんな手のひら返したように……」
「そうだったっけ? そうだね、そうだったね。でも、まあいいじゃない。今は犯人捜しタ~イム。――人狼狩りの時間だよ?」
人狼狩り。その場にいる誰もが聞きなれない言葉ではあったが、物騒な単語であることは一度聞いただけでわかるものであった。
「おいおい、あんた頭おかしくなったんじゃねえのか」
「おかしくなんてないよ~。それに君だって犯人捜ししたかったんだろう? 少年探偵くん」
笑みを崩さないフォルカーに気圧されたのか、ルドルフは怖気づいたように一歩下がった。
「君って探偵好きなのかな? 何が好き? シャーロック・ホームズ? エルキュール・ポワロ? それともマーブルかい? そういえば東洋から入ってきた書籍にもおもしろい探偵がたくさん出てきてさあ~。なかでも僕のお気に入りは」
「――おしゃべりはそこまでにしてください。患者のいる部屋で騒ぐことは僕が許しませんよ」
いままでにないくらい、クラウスの声音は冷え冷えとしていた。医者として、これ以上は見過ごせないと思ったのかもしれない。
だが、フォルカーはまったく動じた様子もなく、また悪びれた様子がないことも明らかであった。
「すみませんね先生。騒がしくしちゃって。でもさあ、もし本当にこの中に人狼がいるとしたらどうするの? みんなそいつにやられちゃうかもしれないんだよ。ねえ、フロレットちゃん」
「え……?」
突然話を振られたフロレットは、困惑したようにフォルカーを見返した。フォルカーは笑っていたが、狂人じみていて薄気味悪さがあった。
「もしかしたら君のおばあさんをひどい目に遭わせた人狼がこの中にいるかもしれないんだよ」
フロレットは息を飲み込んだ。――おばあちゃん。
昼間の出来事が、ありありと脳裏によみがえってきた。恐ろしい、獣のうめき声。真っ赤な血の色。鋭利な爪。腕の傷が、痛みを発した。
「おばあ……ちゃん……」
温かい、血。まだ、生きていた。ついさきほどまで、生きていたのに。
「ちがう……ちがうおばあちゃんは……」
「もうやめて! やめてください! 人狼狩りなんて馬鹿げているわ。……それにもし仮に人狼がいたとしたって――好きで人を傷つけているわけじゃないかもしれないじゃない」
取り乱したように叫んだレアが発した言葉に、その場にいた者たちはそれぞれの驚きを示した。
フォルカーもレアの言葉に関心を持ったように彼女に視線を向けた。




