3話「桐箪笥」
生物の寿命と違い、物の寿命とは、破壊を意味します。彼らが担ってくれた役目と思い出に、思いを馳せる事もあるでしょう。
連続する自我や意識の発現を、生誕と言うならば、加藤家が所有する桐箪笥は、既に四十七年を生きた事になる。経年による劣化が身体の節々を軋ませ、毎日、毎日、とても痛かった。
その桐箪笥の最古の記憶。それは、寒暖の差が激しい大地に根を張っていた頃や、凍てつくような真冬に伐採され、春先にトラックに乗せられ、ゆらゆら揺れていた頃のものではなかった。心臓部である抽斗・扉を本体に差し込まれ、色付けはもちろん、前飾・カン・化粧・引明・下り・一文字・取手・丁双といった金具をしっかりと取り付けられ、箪笥としての体裁を得た瞬間に遡る。
生を受けて、初めて見る景色。それは加工途中の木材が所狭しと並ぶ工房の中だった。ひとつ、またひとつと家具たちが運び込まれてゆく。すでに完成品である、大きな図体の自分は、これからどこへ運び込まれるのか。
不安になりながらも、ある晴れた初夏の早朝、数人の業者によって丁重に持ち上げられ、この家に嫁入り道具としてやって来た。明瞭な視覚、聴覚を持ち合わせた桐箪笥は、二十歳前後だった家主と、その妻の結婚初夜から、現在に至るまでのこの家の歴史を、屋内で得られる範囲であれば、すべて知る事となる。無論、言葉を交わす器官が存在しないため、人間にそれを語る事は一切なかったが。
今朝の出来事。
この四十七年間ずっとそうであったように、桐箪笥が直立不動でいると、玄関から数人の男たちの声が聞こえてきた。
「このタンス、古いっすね~。明治時代のっすかね」
金髪にピアスの青年が、加藤家の長男に訊いた。青年の質問に、この家の長男は苦笑するだけだった。
「おら、くっちゃべってねぇで、端っこ持て。ボケっとしてっと日当やらないぞ、新入り」
年長者の男が、長男にすいませんと会釈しながら、桐箪笥を持ち上げ言った。玄関先で別の男が、トラックの準備ができたと大声で二人に告げた。
彼らは桐箪笥を引き取り、処分するためにこの家にやって来た業者だった。桐箪笥の心中と言えば、どこかの処分場で粉砕される恐怖より、住み慣れた家を出る寂しさが勝った。しかし、家主も、その女房も、もうこの家にはいない。自分だけが、ここに居座るのもおかしな話であるし、仕方のない事だろうと思った。
十年前の秋。この家の女房は、五十六歳の若さで脳溢血により自宅で急死した。
彼女は、死ぬまでの三十七年間、物言わぬ道具である桐箪笥に、八つ当たりする事がたびたびあった。最初の暴言は、女房と桐箪笥がこの家に来て一年とちょっと、長男が生まれた年の夏だった。若かった女房は、家主と些細な事で口論になり、恨みがましく、寝室に鎮座する無表情の桐箪笥に向かって、こう呟いた。
「わたしは、身売りをされたようなものよ」
家主の罵声など耳に入らぬ様子で、女房は涙交じりの恨み節を続けた。
「わたしは、ぎりぎりまで結婚に躊躇っていたけど、実家はすでにコレ(桐箪笥)を注文した後。時すでに遅し。納品まであと一週間もかからないでしょうと電話が来た時は、眩暈がしたわ。こんなものが無ければ、体裁も関係なく、一切合財を捨てるつもりで東京当たりに逃げて行ったのに」
「大きな箪笥を抱えて実家に帰るわけにもいかないし、私にはもう帰る場所がないのね」
そう言いながらも翌年の暮れには、女房は産まれたばかりの長女に乳を与えていたし、あれよあれよと言う間に子供は三人、四人と増え、ついに女房が家出をする機会は奪われてしまった。桐箪笥の中は新しい家族の衣服でいっぱいになった。とは言え、着古しや貰い物がほとんどで、家計の苦しさは、同時期にやってきた台所の冷蔵庫よりも、桐箪笥の知るところとなった。
女房は洋裁が得意だったようで、あてにならぬ大工の自営収入の隙間を埋めるように、朝昼晩とミシンを踏み続けていた。家主は肩身が狭い思いで、しかしながら、家にいられぬ居心地の悪さで、少ない給料で飲みに出かける事が頻繁になった。今、思えば、先日、家主が死に至った臓器の病の影は、この頃から広がりつつあったのかもしれない。
いくつもの季節を超えた。子供が成長し、東京へ出て行くようになると、女房は気の抜けたような毎日を送るようになった。家主との夫婦の会話も乏しく、先述の通り、五十代半ばでの急逝まで、あっという間の人生だったと言えよう。
その女房の葬儀で、家主は始めて涙を見せた。無骨な職人気質の男が棺で取り乱す姿は参列した者たちを驚かせた。子供たちになだめられ、引き離され、家主は独りでひっそりと嗚咽していた。喪主の務まらぬ父に代わって長男が一切を取り仕切った。長男の嫁は身重でありながら、弔問客に何度も何度も、深々と頭を下げていた。
四十九日を過ぎた頃、家主は、散歩がてらに汚い黒の仔猫を拾ってきた。まだ彼が呆けて寝たきりになる前の事だ。猫の世話を自分ですると言いながら寂しそうな瞳で仔猫を愛でる家主に異論を唱える者はいなかった。「ちょこた」と名づけたのは長女だった。
「お父さん、ちょこたが来てから少しは元気になったんじゃない?」
家主は、薄笑いを浮かべるだけで何も答えなかった。ところで、この長女は父親を心配するふりをしながら実家に居座っていたが、実際のところ自身の結婚生活がうまくいかず、帰るタイミングを失っていたようだった。
次男、次女も、それぞれまだ独身だったが、それぞれ、交際相手を実家に連れてきた事がある。家主は虚ろな目で挨拶すると、ふらりと散歩に出かけてしまう。あまりにも陰気な父親の対応に「うちの父は母の他界後、欝になってしまって」という台詞を、彼らは強調した。かつての夫婦生活の実情を知らない部外者には、仲睦まじい夫婦だったのだろうと勘違いさせ、「私もそんな風に愛されたい」とか「僕は先に逝かないように頑張るよ」など言わせるに至った。次男も次女も苦笑せざるを得なかった。
やがて、長男の子供が生まれ、長女は離婚し(親権は別れた旦那に渡したようだった)次男、次女もそれぞれ家庭を持った。
つい先月の出来事だ。不幸は立て続けに起こった。
仔猫だったちょこたが、十歳の老いぼれ猫となって台所で絶命したのだ。そこで、長男夫婦に呼ばれ、家族全員が揃った。皆で猫の埋葬をしようという話になった。癌を患い寝たきりの家主は痴呆も進行し、愛猫の死を理解できていたか否かは怪しかったが、家族全員が揃った翌朝「苦しい。わしは死にたくない」と久しぶりに人間の言葉を発した後、搬送先の病院であっけなく息を引き取った。
あまりにも、唐突な不幸に対し、
「父さんはさぁ、猫に、あの世へひっぱられたのよ」
涙声で、長女が軽口を言いながら、真っ白なB4コピー用紙を茶の間にある卓上に広げ、家主の遺品整理のリストを書き出していた。
「父さんも逝ってしまったし、この古い桐箪笥も処分してしまおう」
この古びた箪笥を、そのリストに加えたのは、長男だった。
その長男は今、桐箪笥の成り行きを腕組みして見守っていた。金髪の青年がよろけて、玄関の柱に桐箪笥をぶつけた時、駆け寄ってきた。
「気をつけろ、新入り!ふらふらすんな」
「すいません、あ、でも柱には傷つけてませんよぉ」
「そういう問題じゃないんだ、アホが」
若者は話題を変えたかったのだろう。
「それにしても、立派な桐箪笥っすねぇ。江戸時代のっすかね」
「ああ、立派な桐箪笥だ。だから、しっかり持て」
年長者の男は、見守る長男に軽くお辞儀をし、桐箪笥を持ち抱え、玄関の前方に回った。
「石田さん、佐々木くん。こっちで、もらいますんで、ください」
玄関先につけたトラックで、荷台に乗ったもう一人の男が、汗だくの二人に声をかける。
掛け声と共に、三人がかりで荷台に載せ終わった瞬間、男たちは一月の寒空の下、滝のような汗を拭っていた。
「じゃあ、ここにサインください」
石田と呼ばれた年長者の男が、長男に伝票を渡した。
「あとそうそう、君。江戸時代じゃなくて、昭和四十年代だよ」
長男は、玄関の先でへたりこんでる金髪の青年に声をかけた。
「マジすか。昭和って感じですよね!」
目を細めて笑う青年に、長男も目を細めた。
「俺が子供の頃からずっと一緒だった。ここのキズなんて、俺が弟と遊んでてつけたキズなんだよ。今までありがとうな」
長男の囁くような言葉と同時に、残りの次男、長女、次女も玄関からわらわら出てきた。桐箪笥の最後を見届けに来たのである。感慨深そうに目を潤ませる者もいたが、長女だけは寒い、とだけ言って家の中に戻っていった。
ほどなくして桐箪笥は、青いビニールシートを被せられ、頑丈な縄のロープで身体を固定された。それでも真冬の太陽光は眩しかった。
有限の命を与えられた生物と違い、物質たる自分の寿命は、人に委ねなければならない。ゆらゆらとトラックに揺られながら、この街にやってきた日の事をもう一度思い返し、終焉の時を、ただ、ただ、待った。
家具でも何でもいいですが、ずっと使ってたもの、大事にしていたものを手放す時がいつか来ます。人は前に進むとき、いくつかのものを手放します。役目を終えて終焉を迎えるとき、モノに心が芽生えていたなら、彼らはどう思い、感じてるのでしょう。




