陽の射す王城の一室で
大陸に君臨する列強の一つ、ローレンツ親龍王国の王城の一室にて、老女が険しい顔付きで書類に目を通していた。
窓から射し込む陽の光を受けて不思議に煌めく白髪を後頭部で一つに纏め、一目で分かるほど仕立てのいい衣服に身を包んだその老女は、書類から視線を外すと、小さく息を吐いて眉間を揉む。
ちょっとばかりこれは、厄介な事になったかもしれない。彼女の所まで報告書が上がってきたのも納得というものだ。
侍女が淹れ直したお茶で喉を潤しながら考えを巡らせていると、執務室の扉が静かにノックされた。
「女王陛下、ソフィア王女殿下がお見えになりました」
書類から視線を上げる。その顔に老いた弱々しさはなく、確かな経験とそれに裏打ちされた自信が見て取れた。ローレンツ親龍王国現女王、ヴィクトリア・ローレンツその人である。
「入りなさい」
若々しく、それでいて落ち着きのある足取りで入ってきたのは、ヴィクトリアによく似た、しかしそれより明るい色の長髪を背中の中ほどで束ねた20手前頃の女性だ。彼女は柔らかい表情でヴィクトリアに尋ねる。
「お祖母様、何かあったの?」
「今朝方、早馬で送られてきた報告書です。あなたも目を通しておきなさい」
不思議そうに問い掛けてくる孫娘──次期女王ソフィア・ローレンツに先程読んでいた紙束を渡す。
内容は、城塞都市クラナハで起きた魔族の襲撃事件の詳細。
ケクロプスを名乗る半龍の魔族に襲撃され、多数の負傷者を出した事、その魔族が帝国と魔族の協力体勢を仄めかした事、第0小隊が追跡していた未確認の黒龍が帝国の側に付いた事。そして参考資料としてケクロプスと黒龍についての詳細、所感が添えられていた。
「……お祖母様、これは……」
ソフィアが報告書に落としていた視線を上げた。その端正な顔立ちは、今は不安に歪められている。
無理もない。もしそこに書かれている事が真実だとすれば、それは帝国との戦争が目前に迫っているということ。
龍に守護され、かつて歴史上最大の大国に打ち勝った王国と、新興とは言え列強の一つに数えられる帝国の戦争、さらに魔族まで加わるとなれば、千年前の征服戦争にも劣らない規模の戦争になりかねない。そうなれば戦火は両国間に留まらず、大陸全土を燃やす事は避けられないだろう。
「これは事実なの? 帝国に送っている密偵はなんて?」
「前回の報告時点では、魔族の関与は報告されなかったわ。書簡の行き来を考えても2ヶ月ほど前ね」
「そう……ならその後に……? けれど2週間前の皇国の話では魔族に大きな動きは無かったと言っていたわ」
大陸の北方に位置し、国民の9割がヴィズル教の信者である聖ノールテッド神聖皇国。かの国は魔族の人間領侵攻を防ぐのと引き換えに、他国との間にいくつか優位な取り引きを結んでいる。
つまり、布教目的に限る信者の自由通行権などだ。
多くの聖遺物を抱える彼らが異常無しと言っているのだからそれに違いは無いのだろう。
しかし。
「如何な聖遺物があろうと、彼らは神そのものではないもの。時に翼を持つ個体が現れることもある魔族の全てを監視するなど不可能でしょう」
「それは……そうかもしれないけれど」
ソフィアが不満げに下唇を人差し指で押し上げる。彼女が真剣に頭を働かせている時の癖だ。そうしていると歳より幼い印象を与えて愛らしくあるとは思うのだが。
「その癖、民の前ではしない方がいいわね」
その言葉にソフィアは顔を上げて不思議そうな顔をし、それからその意味に気づき顔を赤くして俯いた。
「変な顔だと言っているのではないのよ? 私は可愛らしいと思うけれど、孫を可愛がる老婆の贔屓目の可能性は否定しきれないもの」
「分かりました、しません、しませんってば」
はぁーと大きく息を吐いてしゃがみ込んだソフィアに侍女が椅子を差し出す。ソフィアは肩を落として椅子に腰掛けると、拗ねたように再び書類に目を落とした。
「ここ、このケクロプスという魔族は魔法を使えないとあるのに、第0小隊の副隊長を一月の間昏睡状態に陥れたとあるわ。人間の協力者がいると考えるべきね」
「それも相当手練ね。となるとやっぱり帝国じゃないかしら」
「帝国……彼らは魔族を信用するの?」
未だ納得しきれていない様子のソフィアに、ヴィクトリアは問いかけるように片眉を上げた。それを受けてソフィアが答えた。
「だってそうでしょう? 魔族と手を組むことになんの利点があると言うの?」
孫娘の言葉に、ヴィクトリアは腹の上で手を組んで椅子に深く腰掛け直した。
この様子だと、王位を譲るにはまだ早いか。よく頑張ってくれてはいるが、やはりまだ経験不足と生来の性根から来る甘さが残る。これから先訪れるであろう帝国との戦争において優れた指導力を期待するのは難しいだろう。平時の王とするなら善き王となる片鱗は見せているのだが。
ヴィクトリアはソフィアの目を見て優しく問いかけた。
「どうして有り得ないと思うの?」
「え? それは……魔族だもの」
その答えの奇妙さに本人は気づいていないらしい。彼女の言っていることは推測ではなく願望でしかないというのに。
さて、経験不足の若人に教えを説くのを楽しむのは悪趣味と言えるだろうか。いや、息子夫婦の暗殺さえなければ既に退位しているはずだったのだから、腹いせにそれくらいの仄暗い楽しみも許されるか。
「私の考えを話しましょうか」
そう言って執務机に肘をつくとソフィアの背が自然と伸びた。講師に教えを乞う学生のようなその姿勢に思わず頬が緩む。
「まず帝国は東に我ら王国を、西に小国家群を、北に皇国を、そして南には商業都市群を置いています。古くから続く攻撃的な国民性から常に他国から警戒されており、四方のいずれかに攻撃を仕掛ければ即座に他の国からも攻撃を受けるのは間違いない。帝国もそれを念頭に侵攻計画を練っているでしょうし、我らもそうあらねばならない。ここまでは分かるわね?」
ソフィアが素直に頷く。
明確な取り決めがあった訳では無いが、侵略戦争において大陸を恐怖で支配せんとした大国が瓦解し、その跡に大国の流れを汲む帝国が興った際、かつての過ちが二度と起こらないようにと暗黙のうちに定められたものだ。
「そのうち小国家群に大勢を決する力はなく、商業都市群は積み重なる友の死体を天秤に掛け、経済制裁とは名ばかりの様子見を決め込むでしょう。ならば目下の敵は? 我らと皇国に他なりません。しかし皇国は険しい山々の連なる領土と厳しい環境からなる国。攻め落としたところで労力と見返りが釣り合っていない。残るは征服戦争から続く因縁と海岸線の利用という明確な旨みのある我ら王国のみ」
ヴィクトリアとしては何故彼らがそこまで他国に戦争を仕掛けたいのかが分からないのだが。まあ、王位継承を力で行うような連中だ。もはや本能なのだろう。
「さて、ここで何故帝国が魔族と手を組むのかを考えてみましょうか。彼ら帝国としては憎き王国に攻撃したい。しかしその隙に小癪な皇国に脇腹をつつかれるのは我慢ならない。あら? 考えてみればそこに丁度よく皇国に因縁のある奴らがいるわね?」
おどけてみせたヴィクトリアに微笑みすら向けることなく、難しい表情のままソフィアが口を開いた。
「だから魔族と手を組むの? 王国を相手する間皇国を押し留めさせる為に?」
「ええそう。おかしいかしら」
「その為に人類の敵である魔族と? そこまで浅ましいとは思いたくないけれど……」
ふむ。これは重症だ。車軸の歪んだ馬車が真っ直ぐ進むことは無いとはかつての愚王を諌める家臣の言葉だったか。
「ソフィア。あなたが帝国の皇帝で、魔族の立ち位置にいるのがただの人間の国だとしたら協力を要請するのは浅ましいこと?」
ヴィクトリアの問いかけにソフィアはしばし考え、それから慎重に口を開く。
「……いえ、交渉次第ではあるけれど、海岸線と南部の穀倉地帯さえ確保すれば十分利益を取れると思う。必要なら北部の奪還も難しくない範囲でしょうし」
「そう。相手が人間なら手を結ぶのは悪い手ではないでしょう。ならば何故魔族相手ならそうならないと言い切れるの」
「それは……」
「歴史を紐解けば帝国と魔族が手を結ぶのは考えられない話では無い。かつて征服戦争で彼らの前身たる大国がそうしたように」
これで己の誤ちに気づいてくれれば良いのだが。
孫娘が認識を改めるのを期待して静かに微笑みながら待っていると、ソフィアは小さく息を吐いて頭を下げた。
「私が間違っていました。確かに彼らが手を組むのはそれなり以上の利点があると思います」
どうやら分かってくれたようだ。ヴィクトリアは席を立ち、顔を上げて照れくさそうに笑う孫娘の頭を撫でる。
「私はもう子供じゃないわ。とっくに成人を迎えています」
ちょっと複雑そうな顔をしているが、それでもソフィアは振り払おうとはしない。可愛い孫娘の髪を撫でつけながらヴィクトリアは微笑む。
「いつまで経っても孫は可愛いものよ。あなたが即位すれば私と言えど気軽に頭を撫でるなんてできないもの。今くらいは許してちょうだい」
いい加減頭を撫でられるのが照れくさくて耐えられなくなったのか、ソフィアがぶるぶると頭を振ってヴィクトリアの手を払った。ヴィクトリアも素直に手を引き、侍女が引いた椅子に座り直す。
2人の手元に湯気を立てる茶が置かれ、そのカップを上品に口元に運んで唇を湿らせたソフィアが口を開いた。
「どちらにせよ、まだ魔族の関与が確定したわけでは無いわ。魔族の事だから撹乱が目的で嘯いた可能性も否定できないし。しばらくは最悪の可能性に備えつつ密偵の報告を待つべきかしら」
ヴィクトリアも茶で喉を潤し頷く。
「それでいいでしょう。もう1つ問題があるとすれば隻腕の黒龍が帝国についたという事ね。いっそ王都まで飛んできてくれれば対処もしやすいのに」
「それだと万が一の時に困るわ。龍が相手とは言えやってやれない事も無いのだから、前線で押し留める方が気が楽よ」
ため息をついて書類の端をトントンと叩いて揃え、ソフィアが立ち上がった。
「この議題は御前会議の時まで取っておきましょう。でないと武官達が拗ねてしまうから。それから各都市の検問態勢の強化と衛兵の洗い出し、皇国への抗議についても手配しておきます。共有するべき情報はそんなところでしょうか」
ハキハキとやるべきことを口にするソフィアの言葉に頷き、ヴィクトリアは報告書を受け取る。
こんな南方まで魔族が下りてきているのだ。それを防ぐ事と引き換えに利権を得ているのが皇国なのだから、チクチク嫌味を言うくらいは許されるべきだ。
言ったところでどうなるものでもないが、来たる戦争の時に引き合いに出せば聖遺物を借り受けるくらいは出来るかもしれないし。
「それではこの辺りで失礼します。また御前会議の時に」
「ソフィア」
そう退室しようとするソフィアの背をヴィクトリアが呼び止める。ソフィアがくるりと振り向いた。
「あまり無理をしないように。働きすぎはお腹の子に毒よ」
実を言うと、ソフィアは現在妊娠しているのだ。見た目にはまだ分かりづらいが、もうひと月もするくらいにはお腹が膨らみ始め、半年後にはもう赤ん坊が産声を上げているだろう。折角ここまで大きな問題もなく順調に育ってくれているのだから、ここで余計な事をしてもしもの事があれば悔やんでも悔やみきれない。
ヴィクトリアの言葉にソフィアはお腹に手を当て慈しむような微笑を浮かべた。
「医師もそろそろ安定してくる頃だと言っていたもの。書類仕事くらいなら問題ないわ」
「ダメです。サイモンに言いつけておきますからね」
「はーい。お祖母様もご自愛くださいね」
くすくすと楽しそうに笑ってヴィクトリアを気遣い、ソフィアは一礼して退室した。
ヴィクトリアも孫娘との楽しい交流の余韻に浸り、椅子の背もたれに背中を預ける。
さて、実はソフィアには言っていなかったが、帝国と魔族の協力について、もう1つ別の恐ろしい可能性がある。彼女が気づくか試していた所もあるのだが、彼女がそれに気づく事はなかった可能性だ。
その可能性とはつまり、真に手を組んでいるのは皇国と魔族だという可能性。
それに思考を巡らせてみれば考えられる道がある。
魔族が帝国と手を組み、それに対抗する形で皇国がヴィクトリア達の王国と手を組む。その上で王国と帝国を矢面に立たせ、疲弊しきったところを一気呵成に攻め叩き征服する。
そうすれば大した損害もなく──少なくとも王国と帝国という列強を正面から相手するよりは被害を少なく抑えて肥沃な平原地帯を手にする事ができるというもの。
これはあくまでヴィクトリアの妄想でしかない。妄想でしかないのだが、先程ソフィアに教えた先入観という話に乗っ取れば、皇国と魔族の犬猿の仲という認識が正しくそれだ。
それに、そう考えると色々と辻褄が合ってしまうのも事実。可能性としては低いが、かと言って切り捨ててしまうのも難しい。
「後世の歴史家の物笑いの種にはなりたくないものね」
違っているならそれでよし。年寄りの心配性と笑い飛ばせばいい。だがもし当たっていれば……。
天井を見上げながら呟き、ヴィクトリアは筆を走らせるのだった。




