1.神田明神
神田明神に赤い饅頭を置いてはいけない。
ドラマを見た中年が拾うからだ。
拾った中年は、その日のうちに数百億円の取引を止め、夜には妻に止められる。
七月最後の日曜日、午後一時。
その夜から『VIVANT』の新シーズンが始まるというので、私は妻と十二歳の娘を神田明神へ連れてきていた。
放送開始祈願である。
妻は散歩だと思っている。娘は、かき氷を食べに来たと思っている。
認識の相違は、家庭ではよくある。
「ここに祀られている平将門はね」
私は随神門をくぐりながら説明した。
「朝廷から見れば反逆者だが、のちに江戸の守護神となった。つまり国家への反逆と国家の守護は――」
「いちご」
娘が言った。
「将門公はいちごではない」
「かき氷の話」
妻が私の肩を叩いた。
「あなた、娘の話を聞く練習をした方がいいわよ」
私は聞いている。
ただ、世界史的な重要性によって優先順位をつけているだけだ。
小さな祠の脇にあるベンチで、赤い饅頭を先に見つけたのは娘だった。
「招集だ」
娘は言った。
「なぜ知ってる」
「パパのnoteの記事、前半だけ読んだ」
妻より読んでいる。
胸が熱くなったが、今は喜ぶ場面ではない。
赤い紙。金色の紐。
ドラマでは、秘密組織からの招集を知らせる合図だった。
現実なら、誰かの忘れ物である。
その二つを見分ける能力が、中年になると衰える。
饅頭の下に白い封筒があった。
表には、私がネットで使っている筆名が書かれていた。
〈深田六郎様〉
私は周囲を見回した。
妻が言った。
「交番ね」
「待ってくれ」
「何を?」
「ついに来たのかもしれない」
「何が?」
「本当の仕事が」
妻は私の顔を数秒見た。
「あなたの本当の仕事は、月曜朝の輸出審査会議でしょう」
その通りだった。
私は半導体メーカー、キロクシナの経済安全保障・輸出管理課長である。
壮大な部署名だが、主な業務は世界平和を守ることではない。
営業部門から提出された書類を差し戻し、嫌われることだ。
封筒には、紙が一枚だけ入っていた。
〈最終需要者は誰だ。〉
その下に、見覚えのある案件番号があった。
アゼルバイジャン向け中古半導体検査装置。
月曜朝、私が最終承認する予定の取引だった。
さらに、携帯電話の番号が書かれている。
妻が言った。
「電話しないで」
私は電話した。




