幼妻は甘やかされ上手(1/1)
「フェルナンド様~!」
わたしはフリルのついたドレスの裾を揺らしながら、屋敷の廊下を疾走していた。ハート型のモコモコしたお気に入りの白いポシェットが、腰の辺りで軽やかに弾む。
「おはようございます、奥様」
「今日もお元気ですねえ」
にこやかに朝の挨拶をする使用人たちの脇をすり抜け、正面玄関に続く大階段にたどり着いた。
すると、階段下に背の高い男性がいるのが見える。
「フェルナンド様!」
わたしは声を弾ませて、階段を降りようとした。
けれど急ぎすぎて足がもつれてしまい、体勢が崩れる。体が浮遊感に包まれるのと同時に頭から階段下へと落下していき、わたしの胃がキュッと縮んだ。
「キャンディス!」
痛みを覚悟していたけれど、わたしを受け止めたのは固い床ではなく、逞しい二本の腕だった。顔を上げると、濃い緑の瞳と目が合う。
「フェルナンド様、ありがとうございます!」
わたしは夫に抱きついた。フェルナンド様が、「怪我がなくてよかった」と頭を撫でてくれる。
「見送りにきてくれたのか?」
「はい。あと、今日はわたしも外出するので、途中まで一緒に行けたらいいなと思って」
「分かった。おいで、キャンディス」
フェルナンド様が白い手袋を脱いで差し出した手を、わたしはうきうきしながら取った。節が目立つ夫の指に自分の指を絡ませ、長年武器を握っていたためにできたタコの固い感触を手のひら全体で味わう。
「フェルナンド様の手、大きいですねえ」
「君の手は小さいな」
フェルナンド様が口元を緩めた。ひょっこりと顔を出した目元の笑いジワがたまらない。わたしはぽぅっとなってフェルナンド様の整った顔を見つめる。
フェルナンド様が「さあ、時間だ」と促さなければ、石像のようにそのまま何時間も棒立ちしていたかもしれない。
二人で馬車に乗り込むと、わたしはフェルナンド様の膝の上にちょこんと腰かけた。
よくあることなので、フェルナンド様は当然のような顔をしてわたしを抱きしめてくれる。わたしはレース付きの白い長靴下に包まれた足を、子犬がしっぽを振るようにパタパタと動かした。
「こんなに早くからお仕事なんて、軍人さんも大変ですね」
わたしは傍らのシートに置かれた剣をいじった。こうしてお仕事へ行く時はもちろん、外出時のフェルナンド様は騎士のたしなみとして、いつでも剣を持ち歩いている。
「でも、制服を着たフェルナンド様もすごく格好いいですよ」
わたしは詰め襟の黒い軍服をパリッと着こなす夫の胸に頬ずりした。金の肩章を指先でたどり、左肩だけを覆うマントを自分の体に巻きつけて遊ぶ。
「ありがとう、キャンディス。君にそう言ってもらえるのは、どんな勲章をもらうよりずっと嬉しいよ」
また笑いジワが姿を現わした。わたしの胸がきゅんと弾む。
笑いジワだけじゃなくて、フェルナンド様の容姿は何もかもがとても素敵だ。
しっかりと通った鼻筋に、奥二重の瞳。軽く掻き上げた亜麻色の前髪の一部が、彫りの深い顔立ちに魅惑的な影を落として、大人の色気を漂わせていた。
でも、艶っぽいだけでは終わらないのがフェルナンド様のすごいところだ。肩は幅広く、胸は厚くて、手はがっしりしている。でも、全然無骨そうには見えなくて……。
要するに、フェルナンド様は完璧だということだ。
「フェルナンド様はいつか表彰されますよ。『この王国で一番素晴らしい男性で賞』です」
「それなら君も、その賞の女性版をもらうことになるだろうな」
フェルナンド様がわたしの頭に唇を落とした時、馬車が止まった。名残惜しいけれど、お別れの時間だ。わたしは御者が開けてくれたドアから降車する。目の前には、貴族御用達のオシャレなカフェが建っていた。
「楽しんでおいで」
フェルナンド様も外に出て、わたしの右手にキスをした。夕方にフェルナンド様のお仕事が終わるまで、今日は彼に会えないと思って萎れかけていた心が、一瞬にしてみずみずしさを取り戻す。
「フェルナンド様も、お仕事頑張ってくださいね!」
わたしはフェルナンド様の口に自分の唇を軽く重ねてから、カフェに入った。
入り口で名前を告げると、奥の個室に案内される。なるほど、今日最初に来たのはミケットか。
ミケットは「仕切りもない席に座るなんて、会話を盗み聞きされたらどうするの? ゴシップ紙の一面記事にされるわ!」ってよく言ってるもんね。
そんな心配しなくても、すっぱ抜かれて困るような話なんて、これまで一度もしたことないんだけどなあ。
案の定、席に座ってメニューを眺めていたのは、薄茶色の巻き毛をショートカットにした幼なじみだった。
「あんたたち、相変わらずお熱いわねえ」
メニューから顔を上げたミケットは、髪と同じ色合いの目を細める。わたしは「見てたの?」と首を傾げた。窓もないし、ここからじゃ外の様子は分からないと思っていたんだけど……。
「見なくても分かるわよ。キャンディスったら、いかにも『幸せです』って顔してるんだもの」
ミケットはもう一度メニューに視線を戻して、「この紅茶、砂糖不使用って書いてあるけど本当かしら?」とぼやいた。厚ぼったいまぶたが、神経質そうにピクピクと動いている。
「まだミケットしか来てないの?」
今日のお茶会は三人でする予定だった。わたしがミケットの正面に座りながら尋ねると、幼なじみは「ええ」と頷く。
「あの子は、どうせいつものパーティーでしょう。今の時間帯なら、出勤前の人たちが参加してるんじゃないの?」
「早く素敵な男性と会えるといいのにね。フェルナンド様みたいな!」
わたしが笑顔でそう言うと、ミケットが呆れ顔になった。
「あんたのことは小さい時から知ってるけど、歳が倍も離れてる旦那様に夢中になるなんて思ってもみなかったわ」
「倍じゃないよ。年の差は二十四歳だから……えっと……」
わたしは指を折る。計算は苦手だ。カフェでお会計する時も、いつもいくらになるか分からなくなってしまう。
「二.二倍でしょ。倍とほぼ変わらないわよ。……はい、メニュー」
ミケットが差し出してきたメニュー表を、わたしは上から順番に読んでいく。そして、店員さんを呼んで、わたしはパンケーキ、ミケットはハーブティーを注文した。
そうしてやって来たほわほわのパンケーキを、わたしはぱくりと頬張る。上にかかったシロップの甘みに、自然と笑みがこぼれた。
「ここのパンケーキ、初めて注文したけど美味しいね。今度フェルナンド様と食べにこようかな~」
「あんたって、本当にいつもフェルナンドさんのことばっかりねえ」
ミケットも注文した紅茶をすする。
「もう結婚して四年とは思えないわ」
「だって、フェルナンド様は最高だから……」
「ふーん、最高ねえ……。でも、男なんて、根っこのところでは皆同じだと思うけど。あんたも本当は、そう感じてるんじゃないの?」
「ううん……」
わたしはフォークの先に刺したパンケーキにクリームチーズを塗りながら、質問に答える時間を稼ぐ。そんなことを聞かれても、男の人がどうとか、よく分からなかった。
「わたしは、フェルナンド様なら何でもいいかな」
思ったことをそのまま口にすると、ミケットは虚を衝かれたような顔になり、それから一気に白けた表情になった。そして、つっけんどんとした仕草で紅茶を飲む。
「まったく、キャンディスみたいな子どもが、よくあんな大人の男性と結婚生活を続けられるわね」
「子ども?」
ミケットの言葉に、わたしはきょとんとする。
「キャンディスって、フェルナンドさんの隣に立つと親子みたいじゃない」
わたしのとぼけた声に苛立ったようにミケットが言った。親子……?
「それって、わたしがお母様ってこと? そんなに老けて見えるかな……?」
「逆よ、逆! あんたがフェルナンドさんの娘みたいってこと! 舌っ足らずな話し方とか、服装とか……。とにかく、鏡見てみなさいよ!」
幼なじみに言われるままに、わたしは席を立ってカフェの窓ガラスに全身を映した。
ツインテールにしたハチミツ色のふわふわの髪と、アメ玉のように透明感がある琥珀色のまん丸の瞳。顔は童顔で、いかにも柔らかそうな白い頬はマシュマロを思わせる。
身長は低めで、頭にはヘッドドレスを被っており、身につけている服は膝丈。
フェルナンド様が「砂糖菓子の妖精」と表現したこともあるような、ピンクのフリルがたっぷりとついたデザインだ。首元では、クリーム色の大きなリボンが存在感を放っている。
ヒールが低いぺたんこの靴はコロンとした見た目で、こちらも服と同じピンク色だった。
「あたしの言いたいこと、分かった? 十二、三歳くらいの女の子にしか見えないでしょう?」
席に戻ると、ミケットはニヤニヤ顔だった。
「別にいいよ」
わたしはふてくされながらパンケーキを切り分けた。けれど、ミケットが発した次の言葉に、ナイフとフォークを握っていた手が止まる。
「あんまり子どもっぽいと、そのうちフェルナンドさんに捨てられちゃうんじゃないの?」
捨てられる……? わたしがフェルナンド様に?
今まで考えたこともない事態に、一瞬、言葉が出てこなくなる。そこに、「お待たせ」と声が割り込んできた。やって来たのは、背中と胸元が開いたドレスを身につけた、金髪の女性だった。
「サロメ~!」
今回待ち合わせていたもう一人の幼なじみの登場に、わたしはほっと胸をなで下ろす。サロメなら、わたしの味方になってくれるに違いない。
「ミケットってば、ひどいんだよ。わたしがフェルナンド様に捨てられるとかなんとか……」
「そうね、捨てられるわよ」
……え? 今、サロメ、何て言ったの?
「きっと捨てられるわ。というより、もう捨てられたのよ。捨てられた、捨てられた……」
サロメはきつめの顔立ちに、どよんとした表情を浮かべている。心ここにあらずといった様子だ。ミケットが「ちょっと、大丈夫?」と眉をひそめる。
「ほら、座りなさいよ。何か飲んだら? キャンディス、メニューを取って……」
「バ、バカなこと言わないでよ!」
名前を呼ばれて我に返ったわたしは、会話の流れを無視して声を張り上げた。
――あんまり子どもっぽいと、そのうちフェルナンドさんに捨てられちゃうんじゃないの?
――そうね、捨てられるわよ。
脳の奥底をチクチクと刺激する幼なじみたちの言葉を振り払うように、わたしは首を振る。
「わたしが捨てられるなんて、あるわけないじゃん!」
ヤケクソのように言い放って、わたしは切り分けたパンケーキに大口を開けて噛みついた。




