96話
滲む汗、荒い呼吸、激しい心拍を繰り返す心臓。
ほんの僅かでもズレが生じていれば、絵麻は無事では済まなかった。そして何よりも、永新と絵麻の血液型が同じであった事、永新の血が血清としての役割を果たせた事など、絵麻を救う事が出来たのは、そう言った「いくつもの奇跡が重なる」と言う奇跡が起こったからに他ならず、永新はこの結果に胸を撫で下ろしはするものの、成果を誇る気にはならなかった。
「――僕は今、永新クンの体に物凄い興味を惹かれているよ。倶利伽羅としての経験を持ち、どうしてか妖魔の王を殺す素養を持つ……。ましてや、妖魔ある限り決して逃れられないはずの、全ての妖魔が狂騒を奏でるべき満月の夜でさえ、まともな理性を保つ……。これだけに飽き足らず、毒素を分解し、即席の解毒薬――血清を体内にて作り出す……いや、今のは毒と言う名の薬効を打ち消す為に霊力を変化させた、と言うべきかな? いやはや、言葉にして表してみれば、増々君が常識の埒外に居る事を思い知らされるよ。……だからこそ、僕ぁ君が欲しいんだァ……」
だが、外部の目から見れば永新の心境など関係なく、永新の所業を褒めずにはいられない、とばかりに誠一郎が喝采を打ち鳴らしながら悠然と歩み出る。しかしてその喝采は緩慢なもの。まるで褒め称えるようなものではなく、むしろ相手を神輿の上に担ぎ上げる為のようなものであるのに対して、誠一郎の口はまるで蕩けて溶けてしまったかのように舌なめずりを繰り返す。
「フゥ、フゥ……ッ!」
言葉と態度がまるで合っていないような誠一郎に対し、永新は極度の集中による弊害か、額には玉のような汗を、逸る鼓動は全身に血を巡らせようと速く、強く心拍を繰り返す。まるで直近でダッシュを何度も繰り返したかのように肩で息をする程に、大きな疲労感に襲われていた。
それもそのはず、永新の行った処置は重なる奇跡が起こる以前に、超絶技巧と呼ばれてもおかしくは無い程に緻密な霊力の操作が必要だった。その霊力の操作に集中する為に、永新は集中する際にノイズと成り得る自分の体に流れる霊力の流れを一時的とはいえ封殺。それは人の体に例えるのなら、全身の血流を一時的に停止させる、と言う人間離れした方法であり、そうでもしなければ永新の実力では絵麻を救う事は不可能だった。そして、体の半分が妖魔化する永新の体にとって霊力と言うものは命そのものであり、霊力の流れを一時的に停止する、と言う事は、一瞬とは言え生命活動を停止するのと同義。その間も自ら喰い破った手首からは出血と言う名の命の流出は続いている訳で、全てが終わった今、永新の体は命がけの救命活動の反動をその身に受けている状態なのであった。
しかして、疲労に包まれるからとここで膝を屈する訳にはいかず、血の巡りが四肢の先端に行き渡ったのを確認するように指先を動かすと、傷があったのかも分からない程に精巧に再生した手首を掴んで、臨戦態勢を取る。
疲労感に包まれる永新は、まるで相反するように余裕綽々と言った様子で振舞う誠一郎に対して、「話す気は無い」と意思表示するかのように。
「……悲しいなぁ。僕と永新クンの仲じゃあないか。もっと語らいを楽しもうよ」
「……お前が欲しいのは、俺の体だけだろう。ならば、語り合う事など何も無い」
「んふっ。永新クンがやっと『お前』、って呼んでくれたねぇ。期待した通り、堪らなくゾクゾクするや。それに、その誘い方……。僕ってば生まれてこの方、女の子しか食べて来なかったからね、男の子は永新クンが初めてになるかもしれないよ」
「気色悪い……!」
永新が表情にこれでもかと嫌悪や厭悪、侮蔑と言った忌避の色を見せるのだが、それでも誠一郎は悦んで背筋を震わせる。それはまるで、永新の反応を楽しむ為に、引き出す為に、わざと永新の感情を揺さぶるような言動をしているかのようで、永新の背筋には反対に寒気が走る。
その怖気を吹き飛ばすかのように永新は冷たい息を吐き、霊力を滾らせる。
目の前にいるのは、ただの変質者ではない。
――羅威竿をその手で殺し、香織を危険な目に逢わせ、絵麻を愚弄した、正真正銘の邪悪。
今も飄々とした態度の裏では何を考えているのか、その細めた瞼の下に見える眼球の裏には何が映っているのか、腹芸を見せる服の下はどれだけ真っ黒なのか。人との関りと言う経験の乏しい永新には、ルゥに教わった人間観察のいろははあれど、所詮は付け焼刃である以上、ここまで用意周到かつ狡猾に、洗練されたとも言える手練手管を尽くして自分達を騙し通した誠一郎の考えを読む事は永新には出来そうもない。
故に、取れる選択肢はただ一つ。
誠一郎の策を全て打ち砕き、その身に攻撃を届かせるのみ。文字通りの正面突破こそが、永新に取れる唯一の手段なのであった。
「――纏炎。渾成気闘・焔。我流・邪空之葬」
「ちょっと、まだ話してる途中でしょ――っ、そう言う、事……っ」
未だ背筋を這い上がってくる快楽に身を委ねる誠一郎を他所に、解除された纏炎と共に渾成気闘を掛け直した永新は地面を駆り、誠一郎へと肉薄する。
永新の通り道には炎の軌跡が宿り、一瞬の隙も無い洗練された足運びによる肉体の駆動は、血を吐くような努力の証。そして通り道に残る炎の軌跡も相俟って、その姿はさながら流星のよう。
しかして、永新の向上する身体能力によって繰り出される体術の数々を当然の事のように捌いていく誠一郎もまた、実力は相当な物であると分かる。
狙った獲物をよく理解し、獲物の嫌がる事を率先して実行に移し、確実に精神を削いでいく姑息な手段を取るような悪しき存在であるにもかかわらず、誠一郎は頭脳戦のみならず実践においても超一級。身体機能を増幅する霊技を重ね掛けしている永新にも、平気な顔をして付いて来るのだから、それは一目瞭然であった。
それに加えて、この場所は彼の領域。
本来であればここは貸し倉庫の一角にあるコンテナの中であるはずが、異界によって周囲の空間は歪められ、それら全ての物は彼の思うがまま。
誠一郎の頭脳に加えて、彼の上級妖魔の名に相応しいだけの実力。それだけでも厄介極まりないと言うのに、更には彼が掌握する変幻自在の空間。よもや手も足も出せないと言う程の環境で、永新が出した答えこそが「邪空之葬」であった。
「……なる、ほどね。噴き出す炎が、異界の変容を全て破壊し尽くす、と……。これは正直、困った、としか言えないよ。やるねぇ、永新クン」
我流・邪空之葬。
それは指先に炎を宿した指先が描いた線が軌跡となり空間に炎を定着させた後に、永新の任意のタイミングで空間に定着した奇跡が炎を噴出させると言う霊技。永新はそれを、込める霊力の両で炎を不可視にする、と言う変則的な技術も身に付けているのだが、誠一郎の異界の中で用いるのは、即時放出。
それは誠一郎が表情を顰めたように、相手の領域内における異界対策としては永新の中にこれ以上の手が無いと言える程に特化している技術であり、永新の猛攻を捌く傍らで誠一郎が行う異界による妨害工作を、永新が生み出した邪空之葬はそれら全てを炎によって破壊する。
「……っ、ちょぉっと、不味いねぇ、これは」
異界による自由自在な空間操作は万能に見えてその実、無制限ではない。
生成する物の大きさ、規模によって生成するのに時間は必要であり、誠一郎のように射出するようにして物体を生成するのには最低でも一秒は要してしまう。その上、異界に触れていない物を生成する事は不可能かつ、生成される箇所には必ず異界の歪みが生じてしまう。
かつて異界に取り込まれた事のある永新はその性質を十全に理解しており、誠一郎に攻め込む傍ら、常に周囲を警戒しながら異界の動きを常にチェックし続け、その方向に邪空之葬による炎を噴出させる事で妨空間操作による妨害を防ぐ。それは正しく異界による空間操作を完封していると言っても過言では無かった。
そして、それら一連の動作を流れるようにほぼノータイムでやってのける永新は喋る余裕は疎か、一呼吸吐ける暇すらない状態で延々と誠一郎に攻め入り、押し切らんとすべく猛攻を仕掛けていく。この一合の結び合いで決着を付けて見せる、と意気込み、血走る目を向けて。
「ッ!? くぅっ……、あっはは、やっばぃ――」
そして、次第に押されていく誠一郎に対して、永新が決めにかかる。
――永新は今まで、心の弱さを理由に様々な感情を黙らせ、飲み込まざるを得なかった。
そうあるように躾けられたから。環境がそうあるように型に押し込められたから。そうする事で周りに迎合する事こそが正しいと、自分に言い聞かせて来たから。
だがしかし、自己の愉悦の為だけに羅威竿を殺し、友人を、大切な人を傷付けた誠一郎に対して永新の花胸に宿った怒りの奔流を、永新の胸の堤防はこれまでのように堰き止めてくれはしない。永新に生きる事の輝きを教えてくれた偉大な先輩の死を突き付けられても尚黙っていられる程、襲い来る激情の濁流は決して生温くなかった。永新の胸の内の堤防はとうの昔に決壊しており、溢れ返った激情の波は永新の頭を真っ赤に染め上げる。
体中に血管が浮き上がる程力んで。
奥歯が割れんばかりに食い縛って。
肉が裂けてもおかしくない程に踏み込んで。
口の端からは、まるで炎が幻視出来る程に熱された息が漏れ出て。
この体を突き動かすのは、最早止まる事の無い胸の内から溢れ返る、純粋かつ捻じ曲がったような怒りと憎悪。
視界の端に見える首から提げたガラス球が揺れて煌めくと、羅威竿の想いが拳に宿るよう。
走る紫電が「やっちまえ」と悪辣に、けれども楽しそうに笑っているのが見える永新は、血を吐くような叫び声と共に誠一郎へと渾身の一撃を放つのだった。
「ぅ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ゛ッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
羅威竿の想いが乗ったその拳が、遂に誠一郎の体に届く。
触れた手を伝って、確かな手応えを感じる。肉を抉り、骨を砕く、確かな感触。
間違えようのない、確かな感触をその手に得ていると言うのに、永新の目に映ったのは苦痛に歪む表情とはまるで異なる、三日月のように頬まで裂けているかのような深い笑みを浮かべた気味が悪いとさえ思えてしまう誠一郎の嗤う表情。
「……良い顔だぁ」
「――っ!?」
それは一瞬の出来事であり、その笑みを最後に永新の足元は突如として空く感覚に見舞われる。
そして直後には永新の視界から確実に捉えたはずの誠一郎の姿が掻き消え、永新の視界は瞬く間に暗転する。
瞬き一つの間にその目に映る景色が切り替わる感覚は、まるで真宵の瞬間移動のようではあるが、異なる点が一つ。
それは、永新の体に感じる落下する感覚。
落ちていく感覚は、正しく落とし穴に落ちたのだと証明すらされているようなもので、渾成気闘による身体能力の向上を最大限に引き出す為に超集中をもたらすための無呼吸によって枯渇した酸素を求める肺が爆発するかのように稼働し膨れる中、永新の脳は自分が落ちている、と言う事だけを的確に理解する。
どうして落ちているのか、誠一郎はどうなったのか。
いくつもの疑問が脳裏を過る中永新の脳は酸素を求めて肉体に「吸って吸って吸って吐いて吸う」と言う過度な呼吸を要求する為、状況の整理に思考を裂くだけの余裕すらもなく、永新は空中に投げ出されたまま過呼吸を繰り返しながら、ただ落下する勢いに身を任せて自由に落ちていく。
そんな永新が頭も体も疲弊し切った状態から解放されたのは、地上が直前に迫る直前の事だった。
「落ち――ッ!?」
落下の姿勢を整えるのも、勢いを殺すのも、何もかも既の所で間一髪間に合い着地したものの、永新が降り立った地は異界のど真ん中。頭を上げた先では誠一郎が佇んでおり、背後には変わらず香織と絵麻と言う守るべき存在が並んで横たわっている。
落ちたのは気の所為なのか。
そんな訳の分からない情報に踊らされるかのようにして頭の中を捏ね繰り回した所で、頭上の異界の天井に空いた穴と、誠一郎の足元にある穴を確認して、自分が強制的に移動させられたのだと気付く。それは異界による妨害でありながらも、永新に直接襲い来る他の妨害とは違って「邪空之葬」では封殺出来ない妨害。しかして気を配っていれば霊力に頼らずとも避ける事が可能な単純な罠である落とし穴。
それは正しく、永新が決めにかかる瞬間を分かっていながらわざと攻撃をその身で受け、永新の猛攻を切り離すと言う、捨て身の御業。
だがそれも、永新の渾身の一撃を避けられなければ、意味は無い。
永新の手に残る感触。それは確かな手応えがあった事を示しており、他ならぬ永新自身の感覚が誠一郎に対して致命傷を与えたと叫んでいる。疑いようの無い程に確かな感触は、あの一瞬の攻防で自分が押し切ったのだ、と言う理想に辿り着くには十分であった。
そんな自分の頭ではなく、体が訴える確信にも近い事実を妄信した永新は、呼吸が落ち着いた頃にようやくその視線の先を異界の遠方で佇む誠一郎に向ける。誠一郎がどれだけ命の危機に瀕していようとも、覚悟を揺るがす事が無いようにと心に留めて。
しかし、その目で見たものではなく、己の感覚を信じて疑わなかった永新は、視線を上げたその先にあったものを見て、絶句せざるを得なくなる。
「……ン、はァぁ……! 今のはキいた……。ものすンごくキいたよ、永新クン……ッ! 最ッ、高に僕のハートを揺らしてくれたァッ!!!!」
永新の視線の先にあったのは、歓喜に沸く誠一郎の姿。
そこに誠一郎の姿があるのは当然で、何ら可笑しい事ではないと言うのだが、彼の立ち振る舞い、言動、それ以外の何もかもが永新の想定とは大きく異なって、誠一郎は悦に浸っていた。
瞳に移る彼の姿は永新の手応えが物語っていたように、まず間違いなく致命傷とも言える傷――否、傷と呼んで良いのか不明な程に欠けた姿。むしろ生きている事さえおかしいと思わざるを得ない程に、永新が言葉を失って然るべき姿で彼は、「生きて」いた。
何せ誠一郎の体は、半分以上が吹き飛んでいるのだから。
そんな状態だと言うのに誠一郎は悦に浸り、歓喜に沸いて、狂ったかのように己の現状に絶頂でもしているかのように賛美を謳う。余りにも正気の沙汰ではないその姿こそが、妖魔としての彼の本来の姿であるかのように思えたとしても、永新は未だに言葉を失ったまま、高らかに笑い繰り返す誠一郎から目が離せないでいた。
永新から言葉を奪った誠一郎。そんな彼の表情に張り付けられたのは、身の毛もよだつような悍ましい興奮だった。血走る眼は限界まで開かれており、口元はだらしなく歪められ、その端からは並々ならぬ感情が涎となって滴り落ちる。
永新が持つ常識からは遠くかけ離れた理解し難い化け物の姿を前に、永新は知らずの内に一歩を後退る。
だがしかし、誠一郎はそんな永新を決して逃がしはしない、とばかりに離れたばかりの一歩を詰めて永新に迫るのだった。
「――逃げないでくれよ、永新クぅン……。寂しいじゃないか。お楽しみは、まだまだこれからだろ? もっともっともっともっともっともっともっともっと僕を楽しませて、震えさせて……絶頂かせてくれよォ!?!? だって君は……僕を殺す気なんだろ?」
なら、何回でも、死ぬまで殺さないといけないよな。そう言って笑う誠一郎を前に、永新は後退るのを止め、踏み出さざるを得なくなる。しかしてそれは誠一郎が口にしたように永新の望みであるが故に、永新の覚悟を表すかのようなその一歩は、力強かった。
そしてその力強さが、誠一郎の笑みを深めると分かっても尚、永新はそれ以上後ろに下がる訳にはいかなかった――。




