8話
教室で自分を貶める為の企てが行われている事も露知らず、帰路の途中で永恋と別れた永新は軽い足取りで燼月家へと続く道を歩いて行く。
確かに、今日もまた学園でいつものように不快な視線に晒され、謂れの無い非難の声がぶつけられた。それでも、永新の事を見てくれている先生がいる、変わらず接してくれている永恋がいると言う事実は、それらマイナスの出来事を纏めて帳消しにしてくれるくらい、永新にとっては救いだった。
そして何よりも、自分には誰もが羨む才覚があるのだと、八割方諦めていた未来に光が灯ったのを自覚するとともに、永新を呼ぶ声に「神童」と言う名が混ざっている事に心の内では満悦していたが故に、永新の足取りは過去最高に軽いものとなっていた。
有体に言うならばそう、永新は今、調子に乗っているのであった。
「ただいま――」
今までは沈んだ声音が力なく戸を叩くばかりであったのが、今日は力強く弾んだ声音が燼月の邸宅に響き渡る。
いつもならばそのまま母親である新夏の下へ泣きべそをかきながら駆け込んでいくのだが、今日は昨日疲労から眠りに落ちてしまったが為に今日こそは笑顔で喜ばしい報告が出来るぞ、と意気込んだ永新であったが、玄関に見慣れない靴が並べられているのに気が付いて足を止める。
永新の目に留まったのは、近代倶利伽羅が好んで履く霊具の一つであるブーツと、女性物の履物。
前者は父親である永政の物ではあるのは間違いないのだが、太陽が昇っている間に父親が帰ってきているなどと言う事態は初めてで、どこか現実味の無い事態に加えて見た事のない女性物の履物が並ぶ光景は浮足立っていた永新に緊張を取り戻させるには十分だった。
父様はもしや白昼堂々浮気を――。
如何に新夏が一日の大半を寝て過ごしているとは言え、父は母を愛していたはず。
けれども、俱利伽羅の家と言えども所詮は男と女。何時何処で惹かれ合うかも分からない世界で恋に落ち、浮気をしてしまうと言うのは下級家では良くある事のようで、クラスメイトの数名が噂となった下級の家の者に対して「やはり下賤でしかない」と噂しているのを、永新は小耳に挟んだことがある。
それに対して永恋が何やら物言いたげな様子で凝視してきたのを、永新は気付かない振りでやり過ごした事を思い出す。
見慣れない玄関の様相に戸惑っては過去の記憶を浚って立ち尽くしていた永新の声を聞きつけたのか、リビングへと続く扉から霊具である和装を身に纏った永政が永新を迎えるかの如く顔を覗かせる。
その表情はいつになく上機嫌で、あらぬ事を邪推していた永新が微弱な罪悪感に苛まれているとも知らずに手招きを繰り返す。
「……どうしたの、父様」
「永新に霊力の才能が眠っていると聞いて居ても立っても居られなくてな。燼月の名で雇う事の出来る家庭教師の中で最高の家庭教師を選んできたんだ。これから永新に霊力の使い方を教えてくれる方だ。お待ちいただいているから、挨拶をしなさい。ほら」
永政の口から紡がれる内容に戸惑いを隠せない永新であったが、永新の背に添えられた手に抗う事も許されずに永政と揃ってリビングの中に足を踏み入れていく。
そして踏み入れた先で、永新はこの世の物とは思えない存在を目の当たりにして思わず息を飲む。
「――ッ」
永新を待っていたのは、一人の女性だった。
その女性を目にした永新がまず第一に抱いた印象は、白い、としか言いようが無かった。
永政が選り好みして厳選した革張りのソファに浅く腰を下ろした女性の後ろ姿だけが永新の目に映るのだが、シルエットを隠すように流れる絹糸のような真っ白な髪は、何一つとして混じり気の無い純白さに目を奪われる。
けれども、その白さには女性特有の柔らかさ、と言うものを有しておらず、永恋のような人を惹き付けて離さない魅力とも、新夏のような母性とも異なる、何者をも近寄せない空気を纏っていた。
永恋や新夏の女性らしさ女性らしさと言うものを全て削ぎ落して排除したかのような空気は、ただ見ているだけだと言うのに一面の銀世界に立たされたかのような錯覚に陥ってしまうようで。それでも、その白い髪は目を奪われてしまう程に美しく、そして汚れの無い白さは澄んでいるようだった。
言うまでもなく、永新は初めて目の当たりにする異質な存在に見蕩れてしまっていた。
永新の入室に気が付いた白い女性が徐に立ち上がったところで、口を半開きにして呆然と女性に目を奪われていた永新はようやく我に返る。
「――初めまして、永新君。私は家庭教師の月下香と言います。これから、よろしくお願いしますね」
「えっ、あ、っと……よろしく、お願いします……!」
倶利伽羅の血筋には美形が多く、火加々美甘奈や御厨七星、小暮日永恋に関しても早熟で子供の目から見ても容姿は端麗だと言える。けれども、彼女らの美しさは所詮、子供の範疇。本物の美しさとは何たるかを体現したかのような、大人の艶やかさを纏う白い女性を前に永新はみっともなく頬を朱に染めて笑みを浮かべる。
香が笑みを浮かべれば、永新は気恥ずかしさから目線を下に逸らさざるを得ないし、自分の目線に合わせて屈んだ際に上品な香りに鼻孔がくすぐられては、ドギマギとした感情が永新の胸の中で拡大と縮小を繰り返す。
長い睫毛に、大きな瞳。キメ細やかな鼻梁と目立ち過ぎない赤い唇は、子供心しか持たないはずの永新でさえも胸が高鳴るのを止められず、一度見たら一生忘れられないとまで言える程に、月下香と言う女性は魅力的で、美しかった。
こんな女性が自分の家庭教師になってくれるだなんて、自分の才能はそれ程までに認められているのか、と今さらになって優越感が実態となって永新の中で思いが溢れてくる。
実感を得たせいか、永新はその体に「神童」と言う言葉がようやく染み渡ってくる感覚を味わい、鼻高々に鼻の下が伸びる思いだった。
「――ッ!?」
だが、そうやって見蕩れていられたのは、自惚れていられたのは、月下香が差し出して来た病的にまで白い、彫刻のような手を取るまでの束の間。
怖がらせない為か、穏やかな笑みを湛えた彼女の手を取った刹那、永新は全身に怖気にも似た寒気が走る。
「……これから、よろしくお願いしますね?」
睫毛すらも白く、細められた瞼の隙間から赤い瞳孔が覗いたかと思うと、永新は蛇に睨まれた蛙が如く、呼吸と言う概念すらも忘れてしまったかのような重圧に襲われる。
その瞬間、永新は目の前の月下香と言う女性の印象が「美しいもの」から「恐ろしい存在」へと切り替わる。自分が神童と呼ばれ調子に乗っていたのが嘘のように、皮算用に馳せていた頭も切り替わるように警戒心を強めるのだが、歯向かったところで手も足も出ないと言うのは本能で悟ってしまえていたが為に、警戒したところで永新に出来る事は何もない。
この時、どうしてか永新は父親に助けを求めると言う思考がすっぽりと抜け落ちており、月下香の一挙手一投足を注視する他に出来る事は何も無かった。
「本日は顔見せで済ませましょうか。永新君も昨日の疲れが残っているようですので。明日、また迎えに来ますね」
月下香を恐ろしい存在と認めていながらも、彼女の一挙手一投足は指の先端まで意識しているかのように美しい所作ばかりで、先程感じた重圧が嘘のよう。
永新に向けられた恐ろしい目つきもすっかり形を潜めて、立ち上がった香は顔合わせを見守っていた永政に向かってそれだけを告げ、燼月家を後にしていく。
顔合わせが終われば、後はいつも通りの日常が流れていくのみ。
あれだけ上機嫌であったはずの永政の関心は薄れ、思い出したかのように倶利伽羅の職責を果たす為に外出へ向かい、永新は家事の殆どを行うのみであった。その日、新夏は深い眠りに落ちていたようで、目を覚ましたとしても短い時間のみで、家庭教師の話も出来ずに一日が終わっていくのだった。
翌日、学園内で色々な意味で注目を集めるようになってしまった永新は、更に居心地の悪くなった学園から授業が終わるなり逃げるようにして永恋と共に帰路についた。
「ただいま……」
昨日とは打って変わって静かに、様子を伺うかのように家の扉を潜ったのには、理由があった。
それは玄関に乱暴に脱ぎ捨てられた霊具のブーツが転がっている惨状に加え、普段であれば家電の駆動音だけが聞こえるはずの燼月邸にそぐわない怒声が響き渡っているからであった。
「――!」
「――ッ!!」
その声の出所は、母親の寝室から。
永新が生まれてこの方、喧嘩の一つもしたことが無かったはずの両親が言い合いをしていると言う事実は、子供である永新にとっては精神的負荷の大きいもので、受け止める事が難しいものであった。
それでも、永新は誘われるかのように着の身着のまま、僅かに開いた隙間に耳をそばだてる為に寝室へと近付いていく。
「――だから言ってるじゃない! 永新に家庭教師なんて必要ないって!!」
「違うッ! 永新は燼月家を背負う子だ、才能だってある!! それを伸ばしてやるのが当主である俺の役目なんだ! どうしてそれを分かってくれないんだ!? 我儘を言っている訳じゃない。永新には、必要な事なんだよ!!」
「分かってないのはあなたの方でしょう!? 永新の、あの子の強さは優しさなの! 目先の力に固執する必要なんてない、これからゆっくり時間をかけて、あの子自身に合った力を身に着けて貰うべきよ! あの子は今でも十分苦しんでいるの! それが、あなたには分からないのッ!?」
「倶利伽羅の世界に優しさなんて必要ない! それは、現場を知る俺達が一番知っているはず……! そうだろう!? それに、そんな悠長にしていられる時間なんて無いんだよ! 永新が四家をも超える倶利伽羅になるためには、今この瞬間、誰にも勝る優位を得た今から鍛えていくべきなんだ! そうしなければ、燼月家は一生底辺を這い蹲って生きていかなければならないんだよ!!」
「そんな事、永新には関係無いでしょう!? あの子にはあの子の人生があるの! 家の為に生きるだなんて、そんな窮屈な思いをさせる為にあたしはあの子を産んだんじゃない! 家の為に生きるのがどれだけ苦痛かは、あたしが一番よく知ってるの! あなたも、それに共感してくれたじゃない! あれは、あの時の約束は嘘だって言うの!?」
「それとこれとは、話が違う!! 俺は永新に期待しているんだ! 新夏は、違うのか……!? 永新の可能性を、伸ばしてやりたいとは思わないのか!? 永新だって、そう思っているに違いないと言うのに!!」
「――ッ、本気で言ってるの……? っ、あの子は、学園から帰って来る度に涙を流しているの!! 朝が来る度に悲しそうに目を伏せる姿を、見た事が無いの!? それでも、あたし達の期待に応えようとしてくれているあの子に、これ以上何を強いると言うの!! これ以上の重荷を背負わせて、何になるって言うの!? あの子には、幸せになって――ッ、ゲホッ、ゲホッ……!!」
「……っ、永新は、燼月家の希望なんだ。永新が力を付けて、この家を大きくしてくれれば、新夏により良い治療を受けさせてやることが出来るんだ。だから、どうか分かってくれ――」
「――ッ! 永新は、あたし達の道具なんかじゃ、ないのッ!! どうしてそれが、分からないの!? 前のあなたなら、誰よりもそれを理解していたはず! なんでそんなに、変わってしまったの……!?」
「倶利伽羅の世界では力が、家格が全て。新夏、それを知らない君じゃないはずだ。それを持っていた君が、一番分かっているはずじゃないか……! それらさえあれば、今のように寝る間も惜しんで低級の妖魔を狩り続けなくとも、生きていけるのだと! それを教えてくれたのは、君だったじゃないか!! 変わったのは、君もだろう――!?」
普段は温厚で、口喧嘩の一つもしたところを見た事が無い両親の諍い。
それも、自分が原因で起こっていると分かれば、永新の心に傷が増えていく。
今すぐに止めなければ、と頭では分かっていても、両親の気迫に気圧されたか、それとも自分の知らない両親の姿に怖気づいたのか分からないが永新はすっかり身が竦んでしまい、抜けた腰を持ち上げることが出来ずにいた。
されども、苛烈さを増していく両親の言い合いを前に「やめてくれ」と願う事しか出来ない無力感に加え、逸る鼓動がうるさい程に耳元で鳴り響く。
知らず知らずの内に涙が頬を伝っている事も気付かぬまま血の気が引いて、今にも倒れそうになったその時――。
「――永新君、大丈夫、落ち着いて。静かに息を吐いて、ゆっくり、ゆっくり後ろを振り向いて」
白魚のようなしなやかな手指が永新の視界を覆い、ひっそりと、けれどもはっきりと聞こえる声の指示に従って永新は深呼吸を繰り返す。
冷たい指先が永新の身体から余計な熱を奪うようで、永新はやがて落ち着きを取り戻しながらゆっくりと振り返ると、今度は豊かな胸に顔を埋める形で視界を奪われる。だが不思議と困惑は無く、布越しに聞こえてくる一定のリズムを刻む鼓動の音が却って落ち着きをもたらしてくれる。
その相手が、昨日寒気を味わわされた家庭教師の月下香だったとしても、永新にとって救いであった事には何の違いもない。
襟袖に薄紅を織った純白の霊具は見るからに高級であるにもかかわらず、守る為に汚れると分かっていると言うのに永新をその腕の中に受け入れてくれる。
「怖かったでしょう。けれど、もう大丈夫。大丈夫ですからね」
頭が痛くなって、身体の芯から震えるほどの恐怖を植え付ける喧騒は、いつの間にか止んでいて。
すぅるり、と耳に入ってくる優しい声音と穏やかに髪を梳く手付き。それはまるで新夏の腕の中にいるような安心感に包まるようで、張り詰めた緊張の糸が緩んだら最後、永新の目から涙が自然と溢れてくるのを止める手立ては存在しなかった。
――男児たるもの、泣くべからず。
倶利伽羅の家に男子として生まれて来たら、まず初めに叩き込まれる躾。
痛みに喘ぐことも、苦しみに嘆くことも妨げる心の壁を作り出すのだが、それは妖魔との戦闘以外では何の役にも立たない。
それに縛られた永新だからこそ学園の中、永恋の前では決して涙と言う弱点を晒すことは無かったのだが、柔らかな人の熱と、新夏と永恋以外に向けられた事のない優しさに触れたせいか永新は嗚咽を漏らして泣き崩れるのであった。
「「――永新ッ!?」」
結果、部屋の外から嗚咽が漏れ聞こえてくる事に気が付きようやく我に返る事が出来た両親が永新の名を呼ぶも、永新が泣き止むまで、自分の意思で離れるまで月下香は永新を抱き留めたまま、好きに涙を流させる。
涙の理由が自分達の喧嘩であった事を理解したせいか、バツが悪い様子を見せる両親は月下香から永新を引き剥がす様な真似はせずに沈痛な面持ちのまま、永新が泣き止むのを待つのであった。
「……先生」
「ふふ。いつ見ても愛らしい顔」
泣き止んだ永新は、しばらくの間永政が呼んだ家政婦に任された。
緊急事態だったとは言え、鍵が開いていたからと言って不法侵入を行った月下香に対して、両親は自分達の非を認めながらも彼女の解雇を通告した。
そこに感謝の言葉は無く、月下香に対して新夏は警戒心を露わにした様子で「疾く去ね」と告げた事は、先に退室した永政も知らない。
玄関先で永新が別れを惜しむかのように付き従うのを見て満足そうに微笑んだ後、立ち上がって永政に頭を下げる。
「残念な結果ですが、受け入れましょう。燼月様、今後も末永くお幸せに暮らして下さいませ、と奥様にお伝えください」
燼月家の問題によって下された決定に対して、不服であるはずの月下香は抵抗もなくただ黙って素直に解雇を受け入れていた。
永新は自分のせいだ、自分が悪いんだ、と月下香の傍に立とうとしたものの、本人の手によってそれは止められてしまったため、自分の心が崩れるのをすんでの処で守ってくれた恩人である彼女の為に永新が出来る事は、何一つとして無かった。
「私は、貴方の先生にはなれませんでした。ですから、その呼び名は少々不釣り合いと言えます」
「でも……」
「それでも、永新君が私の名を呼んでくれると言うのであれば、どうか、白と呼んでくれますか?」
「ハク、先生……?」
「先生は要りませんよ。どうかしましたか?」
「……また、会えますか? もう一度、会えますか?」
「んふふ。えぇ、きっと。永新君なら、私に辿り着けるはずですから。その時が来たら、またお会いしましょう。お見送りはここまでで結構ですので。それでは、さようなら――」
たった二回。
それが、永新と月下香が出会った回数。
それは時間にしてみれば一日は疎か、数時間にも満たない本当に些細な出会いであったけれども、月下香――白との出会いは運命とも言えるような出会いだった。
そうとも知らずに、永新は燼月家を後にする白の背を見送る。
扉が完全に閉まりかけた、次の瞬間。
――シャララン。
鈴が転がるような、小気味よい音。
それが白の笑い声だと言われても違和感が無い程に自然で、心惹かれる音が永新の耳に入り、脳の奥を軽く揺さぶる。
一瞬、視界が暗転したかと思うと同時に、玄関の扉が音を立てて閉ざされる。
「……誰か、来ていたか?」
「父様、僕の、家庭、教師が……」
扉が閉まる直前、微かに見えた景色を元に、永新の脳内で整合性を取るべく勝手な記憶が組み上げられていく。鈴の音が鳴ると同時に、決して忘れる事など無いとすら思えた第一印象すらも記憶から消去され、朧げな記憶だけが永新の脳に蘇ってくる。
そうして導き出された答えは。
「――断られたんだ」
倶利伽羅に指導が行えるのは、現行の倶利伽羅か、現役を退いた元倶利伽羅のみ。
倶利伽羅の存在自体が秘匿されている為、当然その数は少なく、有能な指導者は俱利伽羅の間で争奪戦が繰り広げられる程のもの。
後者に至ってはそのほとんどが後進教育である学園に教師として招かれることがほとんどで、妖魔との闘いは命がけである以上無事に五体満足で引退出来る倶利伽羅の数はそう多くは無いため、必然的に家庭教師として勤められるのはある程度余裕の持った前者となる。しかし、現行の倶梨伽羅を雇うには大量の金銭、もしくはそれと同等かそれ以上の価値ある者を差し出さなければならず、俱梨伽羅が国からの厚い援助を受けていようとも、新夏の医療費と生活費で現状維持が精一杯の下級の家格である燼月家にとっては到底用意できる金額では無いし、価値あるもの、例えば一定の家の存続を約束するなどと言った権利を持ち得ない燼月家にとってみれば、家庭教師と言う存在は手の届かない存在だった。
同じく下級の家格の家柄であれば、長兄や長姉と言った一番上の生まれに多額の金銭を捻出して家庭教師を付ける事で、それ以降に先達として長子に学ぶことが出来るのだが、燼月家は永新が生まれてすぐに新夏が正体不明の病に罹ってしまったため永新のみの一人っ子。その場合は両親からの最低限の教育が施されるのだが、母が寝たきりである以上父は妻の分まで俱利伽羅の職責を全うしなければならない為、永新の面倒を見る余裕など無かった。
そう言った実情を踏まえ、永新に同年代とは比べ物にならない才覚が眠っていると、磨けば光る原石である事を知った永政はそれを高く売るべく永新に家庭教師を見繕った結果、報酬の低さに見合わないが故に断られた、と言う流れが記憶の端々を繋げることで易々と想像つくのであった。
故に、落ち込む素振りを見せる両親の前に歩み出た永新は奮起して、見栄を張る。
「僕は、家庭教師なんて要らないよ。一人でも、頑張るから。皆よりもいっぱい、努力するから。それで、母様を助けるんだ」
永新同様に鈴の音を聞いて勝手な解釈を経た両親だが、夫婦喧嘩をしたと言う記憶までは消えておらず、その内容をもはっきりと覚えていた為、永新の言葉に涙せずにはいられないのであった。
「すまないっ、すまないっ、永新……!」
「ごめんよ、永新……! ほら、おいでっ――」
こうして、永新は家庭教師を得る事無く、学園の授業と独学のみで倶利伽羅の道を突き進むことを胸に誓うのだった。
しかし、それは例えるならボートレースにおいて周りがエンジンを積んでいるのに対して、たった一人で手漕ぎでの参戦を表明するようなもの。そうなれば待っているのは悲惨な結末以外有り得ないのだが、そんな事をこの時の永新は考えも及ばないのであった。




